豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか:養子・秀保の十七歳の死と、大和豊臣家の断絶

十津川の山深い渓谷を見下ろす若い大名の後ろ姿 イメージ(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

豊臣秀長の家は、秀長の死からわずか四年で絶えました。秀長には跡を継ぐ男子が育たず、姉・ともの三男である秀保(ひでやす)を養子に迎えましたが、その秀保は十七歳で、大和の山奥・十津川で急死します。子はなく、百万石の「大和豊臣家」はそこで断絶しました。秀長の血は娘を通じてわずかにつながったものの、家としては続かなかったのです。

この記事のポイント
  • 秀長の実子の男子(与一郎)は早くに亡くなり、丹羽長秀の子・仙丸を養子にしたが、仙丸はのちに藤堂高虎の養子となった
  • 秀長が亡くなる直前、十三歳の秀保が秀長の幼い娘と祝言をあげ、跡継ぎとされた。ただし継げたのは大和・紀伊の二か国で、和泉などは豊臣家に戻された
  • 秀保は大和中納言と呼ばれたが、文禄四年四月、十津川で十七歳で急死。死因は溺死説と病死説がある
  • ともの三人の息子(秀次・秀勝・秀保)は、わずか四年のうちに全員この世を去った
  • 秀長の娘おきくは毛利秀元に嫁いだが、若くして亡くなった

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で秀長が大和を任される場面の、その先の話です。秀長その人については豊臣秀長とはで、大和を与えられた理由はなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで書いています。

目次

秀長に跡継ぎはいたのか

秀長と正室(慈雲院)のあいだには、与一郎という男子がいたと伝わります。ただ、この子は早くに亡くなり、くわしいことはほとんど分かっていません。秀長の子として名が残るのは、ほかに娘たちです。

男子のいない秀長は、まず織田家の宿老・丹羽長秀の子である仙丸を養子に迎えました。ところが仙丸はのちに秀長の家臣・藤堂高虎の養子に出され、藤堂高吉と名のります。秀吉の一門から跡継ぎを立てる方針になったためと考えられています。高吉は藤堂家の一族として生き、その家は伊賀の名張で続きました。高虎については藤堂高虎とはをご覧ください。

なぜ跡継ぎは秀保だったのか

秀保は、秀吉と秀長の姉・とも(のちの瑞龍院日秀)と、その夫・三好吉房(弥助)の三男です。長兄は秀次、次兄は秀勝で、三人とも豊臣家の跡継ぎ候補として、秀吉や秀長の養子に出されていきました。長兄・秀次の歩みは三好信吉(豊臣秀次)はなぜ「三好信吉」と名のっていたのかで書いています。

天正十九年(一五九一)正月、病の床にあった秀長のもとで、十三歳の秀保は秀長の娘と祝言をあげ、跡継ぎとして披露されました。娘はまだ四、五歳だったといいます。その月の二十二日、秀長は郡山城で亡くなりました。婿として家に入り、秀長の跡を継いだのが秀保でした。

秀保は百万石をそのまま継げたのか

十三歳の跡継ぎが、兄に次ぐ百万石をそのまま受け継げたのか。答えは「そのままではなかった」です。秀保が継いだのは大和と紀伊の二か国で、秀長が持っていた和泉と伊賀の一部は豊臣家に取り上げられ、秀吉の直轄に戻されました。

若い当主に大事な国を丸ごと預けず、一部を本家に戻すのは、この時代によく見られるやり方です。ただ秀保の場合、罰として削られたわけではありません。秀吉の甥で、秀長の娘婿でもある一門なので、大坂の背後を固める大和と紀伊はそのまま任されました。そのうえで、秀長の家老だった藤堂高虎と桑山重晴が後見役につき、実際の政治は重臣たちが動かしました。和泉は大坂のすぐ南にあたる国で、秀吉が手元に置いておきたかったと考えられます。秀長の百万石の内訳はなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで書いています。

大和中納言・秀保の四年

秀保は文禄元年(一五九二)に従三位・権中納言となり、「大和中納言」「郡山中納言」と呼ばれました。同じ年に始まった朝鮮出兵では、一万五千の兵を率いて肥前の名護屋へ向かいましたが、本人は海を渡らず、名護屋に陣屋を構えて留まっています。実際に水軍として海を渡ったのは、藤堂高虎ら秀長の代からの家臣たちでした。秀長が残した家臣団がどう動いたかは豊臣秀長の家臣団とはでまとめています。

若い当主を支えたのは、秀長の代からの重臣たちでした。十三歳で百万石を継いだ秀保が自分の判断で国を動かせたとは考えにくく、大和の政治は家臣たちの手で回っていたと見るのが自然です。秀長のもとで熊野の材木を扱った吉川平介の一件のように、秀長の代にも家臣の不始末は起きていました。

十津川での死 ── 十七歳の大和中納言

文禄四年(一五九五)四月十六日、秀保は大和の南、十津川の地で亡くなりました。数えで十七歳です。あまりに急な死だったため、その死に方についてはいくつもの話が残りました。

▽ よく語られる話
秀保は小姓と一緒に吉野川(十津川)の淵に飛び込み、溺れて死にました。乱行の末の事故だった、とも語られます。
▼ 史実ではこうです
溺死の話は、江戸時代にまとめられた『武徳編年集成』などに見える話です。一方、秀次の家臣が書いた『駒井日記』には、秀保が疱瘡か麻疹にかかって十津川へ湯治に出かけ、医師の薬でいったんは持ち直したものの、再び悪くなって十六日の明け方に亡くなったことが記されています。同じ時代の記録に近いのは病死のほうで、研究者のあいだでも病死とみる見方が有力です。

秀吉は秀保の死を悼む様子を見せず、葬儀を目立たないように済ませるよう命じたともいわれます。このわずか三か月後、兄の秀次が高野山で切腹に追い込まれます。秀保の死と秀次事件のあいだに何らかのつながりを見る説もありますが、確かなことは分かっていません。秀次事件そのものは秀次事件をわかりやすく解説で書いています。

ともの三人の息子は、四年で全員いなくなった

秀保の死を、兄たちの死と並べてみると、豊臣家の土台がどれほど急に細っていったかが見えてきます。

  • 次兄・秀勝:文禄元年九月、朝鮮出兵のさなかに巨済島で病死
  • 三男・秀保:文禄四年四月、十津川で急死
  • 長兄・秀次:文禄四年七月、高野山で切腹

ともは、わずか四年のあいだに三人の息子をすべて失いました。秀次の妻子までが処刑されたことを思えば、ともの家の血筋はほとんど断ち切られたことになります。秀次の一族がなぜそこまで罰せられたのかは秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのかで考えています。秀吉と甥たちの関係は秀吉と秀次はどういう関係だったのかもあわせてご覧ください。

大和豊臣家の断絶と、郡山城のその後

秀保には子がいませんでした。かつての養子・仙丸はすでに藤堂家の人になっていたため、跡を継ぐ者はおらず、秀長が築いた大和豊臣家は秀保の死とともに絶えました。秀長の死から、わずか四年あまりのことです。

主のいなくなった郡山城には、豊臣政権の奉行・増田長盛が入りました。秀保が持っていた大和と紀伊はばらばらにされ、紀伊はほかの大名に分けられます。秀長が石仏まで積んで築いた城は、こうして豊臣一門の城から奉行の城へと変わりました。城のその後は大和郡山城で書いています。

秀長の血はどこへ行ったのか

家は絶えても、秀長の血がまったく途切れたとは言い切れません。秀長には少なくとも二人の娘がいたとされます。ひとりは秀保の妻となった娘で、夫を亡くしたとき、まだ十歳にもなっていませんでした。その後どうなったのかは、よく分かっていません。

もうひとりの娘・おきくは、毛利輝元の養子だった毛利秀元に嫁ぎました。秀元はのちに長府藩の祖となる人物で、関ヶ原の戦いでは南宮山に陣を張りながら動かなかったことで知られます。ただ、おきくは若くして亡くなり、秀元とのあいだに子を残したという確かな記録はありません。

▽ よく語られる話
藤堂高吉は秀長の養子だったので、名張藤堂家は秀長の子孫にあたります。
▼ 史実ではこうです
高吉(仙丸)は丹羽長秀の子で、秀長とは血のつながりがありません。一時は秀長の養子でしたが、藤堂家の養子となってからは藤堂家の人として生きました。名張藤堂家は、血筋のうえでは丹羽家から出た家です。

秀長の血筋が、どこかでひっそりと今につながっている可能性は残ります。けれども「豊臣秀長の家」を名のって続いた家はありません。秀長の墓とされる大納言塚は、いまも大和郡山の町なかで地元の人々に守られています。

そもそも、なぜ大和は秀長の国になったのか

秀長の家が大和で終わったのは、秀長が大和を任されたところから始まった話でもあります。秀長が入る前、大和を治めていたのは筒井家でした。天正十三年(一五八五)閏八月、秀吉は筒井定次を伊賀へ移し、そのあとに秀長を入れます。筒井家は石高のうえではむしろ加増されており、罰として移されたわけではありません。

▽ よく語られる話
秀吉は大和から大坂や摂津・和泉の方角を見渡し、ここを他人に任せてはおけないと考えて、筒井家から大和を取り上げました。
▼ 史実ではこうです
秀吉が大和から大坂を見て決めた、という話を確かめられる同時代の記録は見当たりません。ただ、大和は生駒・葛城の山なみをはさんで河内・摂津と接する、大坂の背中にあたる国です。秀吉はこの国替えで、大坂のまわりの国々を一門や信頼できる家臣で固めました。大坂の背後を身内の秀長に任せたこと自体は、はっきりした方針として読み取れます。

筒井家が移った伊賀のその後は伊賀上野城で、秀長が大和をどう治めたかは秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかで書いています。大河ドラマ第37回「秀長の国」の史実は豊臣兄弟!第37回「秀長の国」あらすじ予想と史実をご覧ください。

よくある疑問

Q. 秀保は秀長の実の子ですか?
いいえ。秀保は秀長の姉・ともの三男で、秀長から見ると甥にあたります。秀長の娘と結婚し、婿養子のかたちで家を継ぎました。秀長の生まれと家族については豊臣秀長と秀吉の出自で書いています。

Q. 秀保は何歳で亡くなったのですか?
文禄四年四月十六日、数えで十七歳でした。家を継いでから、わずか四年あまりです。

Q. 秀長の子孫は今もいますか?
「豊臣秀長の家」として続いた家はありません。娘たちを通じて血がつながった可能性は否定できませんが、確かめられる系図は残っていません。

Q. 秀長の死は豊臣家にどう響きましたか?
秀長が亡くなった年のうちに千利休が切腹し、秀吉の子・鶴松も三歳で亡くなりました。翌年には朝鮮出兵が始まります。秀長の死のあとに何が変わったのかは豊臣鶴松はなぜ三歳で死んだのかでも書いています。

まとめ

秀長の家は、男子に恵まれず、甥の秀保を婿に迎えて続けようとしましたが、その秀保が十七歳で亡くなり、秀長の死からわずか四年で絶えました。同じ年に兄の秀次も切腹し、ともの三人の息子は四年のあいだにすべていなくなります。秀長が大和で築いたものは、郡山城と城下町、そして寺社の国を治める仕組みとして残りましたが、それを受け継ぐ豊臣の家は残りませんでした。秀長が生きていたら豊臣家はどうなったかはもし豊臣秀長があと十年生きていたらで考えています。秀長が生きていた時代については豊臣秀長とはをご覧ください。

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