秀長が亡くなったあと、その家臣たちの多くは主家を失って散っていきました。そのなかで小堀家は、父・小堀正次から子の小堀遠州へと家をつなぎ、豊臣から徳川へ乗り換えて大名として生き残ります。ところが江戸時代の後半、遠州の子孫は改易されてしまいました。この記事では、秀長の死から改易までの小堀家の歩みを、時代の順にたどります。
- 秀長・秀保が相次いで亡くなると、小堀正次は秀吉の直臣となり、大和・和泉・紀伊の郡代を務めました
- 秀吉の死後は家康に従い、関ヶ原では東軍につきました。戦後、正次は備中松山1万4千石を与えられています
- 慶長9年(1604)に正次が亡くなると、子の遠州(政一)が家を継ぎ、徳川の作事奉行・伏見奉行として重く用いられました
- 遠州の家は近江小室藩として続きましたが、6代・小堀政方が伏見奉行のときの悪政を訴えられ、天明8年(1788)に改易されました
秀長の死、そして秀保の死
天正19年(1591)、豊臣秀長が大和郡山で亡くなりました。家は養子の秀保が継ぎましたが、その秀保も文禄4年(1595)に十七歳で亡くなり、大和豊臣家は絶えてしまいます(豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか)。
主家がなくなれば、家臣は新しい主君を探さなければなりません。秀長の家臣たちの行き先はさまざまで、羽田正親のように秀次事件に巻き込まれて命を落とした人もいれば、藤堂高虎のように秀吉の直臣となり、のちに大きく出世した人もいます。小堀正次は、後者の道を歩みました。
秀吉の直臣へ:郡代としての正次
小堀正次は、秀長のもとで検地奉行を務めた実務の人でした。秀長の家臣としての石高は、はじめ千石ほどで、次第に加増されて五千石に達したといいます。
秀長家が絶えると、正次は秀吉に直接仕え、大和・和泉・紀伊の郡代に任じられました。郡代は、領地の年貢の取り立てや村の管理にあたる役目です。秀長のもとで大和の田畑を測ってきた経験が、そのまま買われたと考えてよいでしょう。
子の政一(のちの遠州)も、文禄4年(1595)に秀吉の直参となって伏見に移っています。秀長のもとで小姓をしていた政一は、郡山で千利休や古田織部に接したといわれ、伏見では織部に茶の湯を学びました。
秀吉の死と、家康のもとへ
慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、小堀家は徳川家康に仕えるようになります。ここで見逃せないのが、遠州の妻が藤堂高虎の養女だったことです。高虎も秀長の家臣から身を起こし、秀吉の死後は家康に近づいた武将でした。秀長の家中で同じ時期を過ごした家どうしが、縁組でつながっていたことになります。
関ヶ原:東軍について備中松山へ
慶長5年(1600)、正次は家康の会津征伐に従い、続く関ヶ原の戦いでは東軍につきました。戦いのあと、正次は備中松山に1万4千石を与えられ、あわせて備中にある徳川の直轄地の管理も任されます。秀長の郡代だった家臣が、徳川の大名になったのです。
翌慶長6年(1601)には、伏見城の作事奉行も務めています。作事とは建物を建てる工事のことで、ここから小堀家は「城や御殿を建てる家」として徳川に重く用いられていきます。
父の死と、遠州の家督
慶長9年(1604)、正次が亡くなりました。家を継いだのは政一で、石高は1万2460石です。政一は父が手をつけていた備中松山城の修築を引き継ぎ、山上の城を整えていきました。
慶長13年(1608)、政一は家康の隠居城である駿府城の作事奉行を務め、その功で翌年に従五位下・遠江守に任じられます。「遠州」という呼び名は、この官名から来ています。
作事奉行・小堀遠州
遠州はその後も、名古屋城の天守や、後陽成院の御所など、徳川の大きな工事をいくつも任されました。戦場で手柄を立てる時代が終わり、城や御殿、庭をつくる力が大名の値打ちになる時代に、遠州の才能はぴたりとはまったのです。
一方で遠州は、大和では宇陀松山城の破却にもかかわっています。秀長の家臣が守った城を、秀長の家臣の子が壊すことになったのは、時代の移り変わりを感じさせる話です。
近江小室藩と伏見奉行
元和5年(1619)、遠州は備中から近江の小室(いまの滋賀県長浜市)に移されました。小堀家の故郷・坂田郡小堀村にも近い土地です。これが近江小室藩のはじまりです。
その後、遠州は元和8年(1622)に近江国奉行、元和9年には伏見奉行となり、寛永11年(1634)には上方郡代も務めました。伏見奉行は京・大坂に近い伏見の町を治める重い役目で、遠州は亡くなるまでこの職にありました。
晩年には、公金一万両を使い込んだという疑いをかけられたこともあります。このときは酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らが口添えをして、不問になったと伝わります。茶の湯を通じて多くの大名と結んでいた遠州の顔の広さがうかがえる話です。遠州は正保4年(1647)、六十九歳で亡くなりました。
小堀家はなぜ生き残れたのか
秀長の家臣だった家の多くが、主家の断絶や秀次事件、関ヶ原の戦いで姿を消していきました。そのなかで小堀家が大名として残った理由は、いくつか考えられます。
ひとつは、合戦の手柄ではなく、検地や普請といった実務の腕で用いられた家だったことです。こうした技は、主君が豊臣から徳川に代わっても必要とされました。もうひとつは、秀吉の死後、早くから家康の側に立ったことです。そして遠州の代には、茶の湯と作庭を通じて将軍家や諸大名と広く結びついたことも、家を支える力になったと考えられます。
天明の改易:伏見騒動
遠州のあと、小室藩は子孫に受け継がれますが、分知によって石高は1万630石ほどに減っていきました。そして6代藩主・小堀政方のとき、家は大きくつまずきます。
政方は田沼意次の時代に大番頭や伏見奉行を務めましたが、伏見奉行のとき、天明の飢饉のさなかに伏見の町人から多額の御用金を取り立てるなどの悪政を行ったとされます。天明5年(1785)、たまりかねた伏見の町年寄・文珠九助ら七人が、寺社奉行の松平伯耆守に直訴しました。これが「伏見騒動」で、直訴した人びとは「伏見義民」として、いまも伏見で顕彰されています。
政方は伏見奉行を罷免され、天明8年(1788)に改易されて、小田原藩主・大久保家に預けられました。遠州が亡くなるまで務めた伏見奉行の職で、子孫が家を失ったことになります。政方は預けられた先で茶人として過ごし、享和3年(1803)に亡くなりました。
改易のあと
大名としての小堀家はここで終わりましたが、家そのものは絶えませんでした。文政11年(1828)、一門の小堀正優が三百俵を与えられ、幕府の御家人として小堀家を再興します。正優は茶の湯で身を立て、その家は遠州流茶道の家元として、いまに続いています。くわしくは小堀家の家系で紹介しています。
よくある疑問
Q. 小堀遠州は小堀正次の子ですか?
はい。遠州(政一)は正次の長男で、慶長9年(1604)に父の跡を継ぎました。
Q. 小堀家は関ヶ原でどちらについたのですか?
東軍です。正次は家康の会津征伐に従い、戦後に備中松山1万4千石を与えられました。
Q. 小堀家は最後どうなったのですか?
大名としての小堀家(近江小室藩)は、天明8年(1788)に6代・政方が改易されて終わりました。ただし文政11年(1828)に一門が御家人として家を再興し、遠州流茶道の家元として続いています。
まとめ
秀長の死で主家を失った小堀家は、秀吉の直臣、家康の家臣と主君を替えながら、実務の腕で生き残りました。遠州の代には徳川の作事奉行・伏見奉行として重く用いられ、近江小室藩の大名となります。しかし百数十年後、その伏見奉行の職で子孫がつまずき、大名としての家は終わりました。それでも家は茶の湯とともに残り、遠州の名はいまも知られています。

