高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町の高取山に築かれた山城です。備中松山城・岩村城とならぶ日本三大山城のひとつで、標高およそ583メートル、城下との高低差は約390メートルにおよびます。南北朝期に越智氏が築き、豊臣秀長の時代に本多氏が近世城郭へ改めました。建物は明治に失われましたが、山中に石垣がほぼそのまま残っています。

苔むした石垣の前に立つ大杉。幹は枯れていますが、根元に石段が残り、まわりを紅葉が囲みます。
越智氏が築いた、南北朝の詰城
はじまりは南北朝期、大和の国人・越智氏が築いた城だとされます。越智氏は興福寺に属する衆徒の家柄で、大和の南部に勢力を持っていました。ふだんは麓の館で暮らし、戦のときに山上へ籠もる。そういう使い方の城です。
大和には守護が置かれませんでした。寺が国を握っていたからです。大和の戦国時代では、越智氏と筒井氏が長く争い、そこへ木沢長政や松永久秀が割って入ります。高取城もそのたびに手を変え、筒井順慶の支配下に入った時期もありました。
秀長の時代に、近世の城へ変わった
大きく変わるのは天正十三年(一五八五)です。この年の論功行賞で豊臣秀長が大和・紀伊・和泉を与えられ、郡山城に入りました。高取城はその支城と位置づけられます。
城に入ったのは秀長の家臣・本多利久です。利久は山上の城を総石垣づくりの近世城郭へ改めました。天守と小天守を建て、多聞櫓で結び、二十七の櫓を配したと伝わります。山城でありながら、平地の城と変わらない構えを持つ城になりました。
郡山城では石が足りず石仏まで積みましたが、高取山では事情が違います。山そのものが石を得やすい場所で、必要な量を確保できました。秀長の家臣団が実務に強い顔ぶれでそろっていたことも、この普請を支えたはずです。
「巽高取、雪かとみれば」── 白い城
「巽(たつみ)高取、雪かとみれば、雪ではのうて土佐の城」という俗謡が残っています。巽は南東の方角です。奈良盆地から南東を見ると、山の上に白いものが見える。雪かと思えば、土佐(高取の城下町の名)の城の白壁だった、という意味です。
それだけ櫓と白壁が連なっていたということでしょう。いまは建物がありませんが、石垣の規模を見ると、この歌が誇張ではなかったことがわかります。岩村城や備中松山城と並び称されるのも、うなずけるところです。
植村氏十四代と、天誅組の攻撃
関ヶ原のあとも本多氏が城主を務めましたが、寛永年間に跡継ぎがなく断絶します。かわって入ったのが植村家政で、以後、植村氏が十四代にわたって高取藩を治めました。山上の城は維持されましたが、藩の政務はしだいに麓で行われるようになります。
幕末、文久三年(一八六三)に天誅組の変が起こります。吉村寅太郎らの一隊が高取城を攻めましたが、藩兵はこれを撃退しました。山城の地形がそのまま防御力になった形です。江戸時代を通じて実戦らしい実戦はほとんどなく、最後に一度だけ城として機能したことになります。
明治になって廃城となり、建物は解体・売却されました。山上に残ったのは石垣です。人が住まなくなった分だけ手が入らず、かえって当時の姿が保たれました。大和という国の歴史が、そのまま積み重なって残っている場所だといえます。
なぜ山の上に、ここまで造り込んだのか
戦国の山城は、普通そこまで手をかけません。土を削って曲輪をつくり、堀切で尾根を断つ。石垣があっても部分的です。ところが高取城は、山上の主要部をほぼ総石垣で固め、天守まで上げています。手間も費用も桁違いです。
理由は立地にあります。高取山は大和の南、紀伊へ抜ける道と伊勢へ向かう道をにらむ位置にあります。秀長が与えられたのは大和・紀伊・和泉の三か国でしたから、郡山城で大和北部を押さえ、高取城で南の出入口を押さえる。二つで一組の配置です。
もう一つは、大和という国の事情です。守護のいない国で、寺と国人が長く争ってきました。衆徒が武装し、坊官が交渉に出てくる土地です。そこへ新しく入る者は、誰が主人かを目に見える形で示す必要がありました。山の上に白い城が建っていれば、それだけで話が早くなります。
雲海に浮かぶ城
秋から冬の朝、条件がそろうと高取山の周囲に雲海が出ます。石垣だけが雲の上に残る光景は、竹田城や岩村城と同じく写真に撮られてきました。
ただし高取城の場合、雲海を狙うなら暗いうちから登る必要があります。麓から本丸まで片道1時間半です。防寒と照明、そして下山までの時間を必ず計算しておいてください。単独行は避けたほうが安全です。
よくある疑問
- 天守は復元されている? … いいえ。建物は一切ありません。残っているのは石垣と曲輪、井戸跡などの遺構です
- 日本100名城? … 続日本100名城に選ばれています。スタンプは麓の「夢創舘」に置かれています
- 車でどこまで行ける? … 八合目付近まで林道で上がれますが、道は狭く駐車スペースもわずかです
- 所要時間は? … 山上の見学だけで1時間、麓から歩くなら往復3時間以上
- 壺阪寺とセットで回れる? … 回れます。壺阪寺は西国三十三所の第六番札所で、高取城の南側にあたります
城跡としての見どころは石垣に尽きますが、その石垣が山の上に完存しているという点で、ほかに代えがきかない城です。石をどう集めたかという視点で歩くと、また違って見えてきます。
石垣の見どころ
- 大手門跡の高石垣 … 山上とは思えない高さで立ち上がります。ここで規模の感覚が変わります
- 本丸の隅石 … 角の石を交互に組む算木積みが見られます。近世の技術が山の上まで入っていた証拠です
- 天守台 … 三方を石垣に囲まれた最高所。礎石の配置から建物の大きさが想像できます
- 二の門跡の猿石 … 城以前の石造物がここに置かれています。転用石と同じ話です
- 石垣に走る木の根 … 長く人の手が入らなかったため、根が石を抱いています。廃城後の時間がそのまま見えます
建物が残っていないぶん、石の積み方そのものが展示になっています。岩村城の六段壁とくらべながら歩くと、山城でも積み方に個性があることがわかります。
城下の「土佐」という地名
高取城の城下町は土佐と呼ばれます。四国の土佐とは離れているのに、なぜこの名なのか。
言い伝えでは、都の造営に駆り出された土佐の人々が、役目を終えても国へ帰る手立てがなく、この地に住み着いたことによるとされます。確かな記録で裏づけられた話ではありませんが、地名としては古くから使われてきました。
いまも土佐街並みとして町家が残り、植村家長屋門が建っています。郡山の城下が業種ごとに町を割ったのとは成り立ちが違い、こちらは城の麓に自然に伸びた町です。城下町といっても、つくられ方は一様ではありません。
壺阪寺もこの町から山へ入った先にあります。町、寺、城が一本の道で結ばれているのが、この土地の構造です。
駐車場と所要時間
- 車 … 壺阪寺の先から林道で八合目付近まで上がれます。駐車スペースは数台分と狭く、すれ違いも難しい道です。舗装された観光道路ではなく山道だと考えてください
- 徒歩 … 近鉄壺阪山駅から城下の土佐街並みを抜け、黒門跡・七曲り・一升坂を経て本丸へ。片道およそ1時間半、往復3時間以上をみておくのが安全です
- 装備 … 歩きやすい靴、飲み物、雨具。冬季と雨天直後は路面が滑ります
- 時間帯 … 山上に照明はありません。午後遅くからの入山は避けてください
気軽に立ち寄れる城ではありません。ただ、麓から登ったほうが高低差390メートルの意味が体でわかります。時間が取れるなら徒歩をおすすめします。郡山城跡とあわせて回るなら、郡山を午前、高取を午後ではなく、高取を午前にしてください。
見学順 ── 猿石から本丸まで
- 土佐街並み … 城下町。植村家長屋門が残ります。ここで城下の規模をつかんでおきます
- 黒門跡 … 登城口。ここから山道に入ります
- 猿石 … 二の門跡の脇に置かれた石造物。明日香から運ばれたものとされ、城とは時代が違います
- 国見櫓跡 … 本道から少し外れますが、奈良盆地が一望できます
- 大手門跡・二の丸 … 石垣が高くなり、城の規模が実感できるところ
- 本丸・天守台 … 最高所。三方を石垣に囲まれています
- 壺阪口門・壺阪寺 … 下山路。壺阪寺は西国三十三所の第六番札所です
猿石は見落としやすいので、二の門跡では足を止めてください。城の石垣のなかに、城以前のものが混じっている。転用石と同じ話が、ここにもあります。
登城路の途中にある寺については壺阪寺(南法華寺)をどうぞ。
まとめ
- 高取城は標高583メートル、城下との高低差390メートルの山城で、日本三大山城のひとつです
- 南北朝期に越智氏が築き、大和の国人同士の争いのなかで持ち主が変わりました
- 天正十三年に豊臣秀長が大和へ入ると郡山城の支城となり、本多利久が総石垣の近世城郭へ改めました
- 寛永年間から植村氏十四代が高取藩を治め、幕末には天誅組の攻撃を撃退しています
- 建物は明治に失われましたが、山上に石垣がほぼ完存しています
石垣だけが残る城は数多くありますが、山の上にこれだけの規模で残る例は多くありません。登る価値のある城です。

