関白(かんぱく)は、成人した天皇を補佐して政務にあたる役職です。天皇が幼いときに代わって政を執る摂政とは、そこが違います。決めるのはあくまで天皇で、関白は決裁者ではありません。ではどこに実権があったかというと、「内覧」にあります。太政官から天皇に上がってくる文書を、天皇より先に見る権利のことです。決めるのは天皇だが、天皇の目に入る前に、すべてが関白を通ります。関白という役の値打ちは、この一点に集まっています。
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣の序列
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秀吉を猶子にして、関白への道を開いた公家
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関白とは、何をする役か
律令の官職表を見ても、関白は出てきません。あとから必要に応じて作られた令外官だからです。
仕事は、太政官から上がってくる意見を天皇に奏上すること。そして天皇の意思を下へ伝えること。上と下のあいだに立つ役です。敬称は「殿下」。
位としては、太政大臣より上か下かという議論が起きます。官位の表の上では太政大臣が最高位だが、実際の重みでは関白が上に扱われました。位の高さと、力の強さは別物でした。秀吉が官位を一段ずつ上がっていったのも、この二つを両方そろえるためです。
「関り白す」─ 関白という名前の由来
「関白」という言葉は、日本で生まれたものではありません。もとは中国の歴史書『漢書』にある一節です。前漢の宣帝は、大きな力を持っていた重臣・霍光(かくこう)について、「諸事はみな、まず霍光に関(あずか)り白(もう)し、そののちに天子に奏上せよ」と命じました。どんな政務も、天子に届く前にまず霍光を通せ、という意味です。
「関」は関わる、あずかるという意味で、「白」は申し上げるという意味です。二つを合わせた「関り白す(あずかりもうす)」が、そのまま役職の名前になったのです。日本では仁和三年(八八七)、宇多天皇が藤原基経に「万事、太政大臣に関り白したうえで奏上せよ」という詔を出しました。これが日本で「関白」という言葉が役目として使われた始まりとされ、基経が最初の関白と数えられています。
霍光は「博陸侯(はくりくこう)」という称号を持っていたため、日本では関白のことを「博陸(はくりく)」と呼ぶこともありました。関白その人は「殿下」と呼ばれ、公家のなかの「一の人」とも言われます。
いまの言葉に直せば、国政の最高顧問といったところです。大事なのは「白す」が、目下から目上へ申し上げるという意味であることです。どれだけ力を持っていても、形のうえではあくまで天皇に申し上げる立場にとどまります。この建前が、のちに大きな意味を持ちました。秀吉が京で御所を直し、公家に知行を配ったのも、申し上げる側として認めてもらうための下ごしらえでした。
摂政との違いは、天皇が大人かどうか
摂政と関白は、よく並べて語られます。違いは単純です。
- 摂政 天皇が幼少・病弱などのとき、大権を全面的に代行する
- 関白 天皇が成人しているとき、補佐します。決裁するのは天皇
同じ人物が、天皇の成長にあわせて摂政から関白へ移ることもありました。秀吉が関白を秀次に譲ったのは、これとはまったく別の事情によるものです。
天皇が成人したから摂政をやめます。ただし手放すわけにはいきません。そこで関白という役に移ります。藤原忠平が朱雀天皇の成人を機に摂政から関白に転じたのが、そのはっきりした最初の例とされます。
役の名は変わるが、そばにいることは変わりません。摂政から関白への移行は、権力を返す手続きではなく、持ち方を変える手続きでした。
関白の実権は「内覧」にある
ここがこの役職のいちばん面白いところです。
内覧(ないらん)とは、太政官から天皇へ上奏される文書を、天皇より先に見る権限のことをいいます。
形のうえでは、関白は何も決めていません。決裁するのは天皇です。だが天皇の机に載る前に、文書はすべて関白の手を通ります。何を見せ、何を止め、どう添えて出すか。そこを握っている人間が、実際には政を動かします。
役職の名前だけを見ていると、この構造は見えません。関白の値打ちは、肩書きではなく通り道にありました。近衛前久のように、京を離れていた関白が力を失ったのも、通り道から外れたからです。
最初の関白は誰か
「最初の関白」には、いくつかの数え方があります。
元慶八年、光孝天皇が藤原基経に国政の権限を与える詔を出しました。これを実質的な始まりとする見方が有力です。ただしこのとき、「関白」という語そのものは使われていません。
語が出てくるのは仁和三年、宇多天皇の詔書で、ここに「関り白す」の文言が入ります。これが言葉としての初例とされます。
そして先に触れたとおり、天皇の成人を機に摂政から関白へ移った確かな例は、藤原忠平です。役目が先にあり、名前があとから追いつきました。太閤検地という呼び名が実態より後に定着したのと、どこか似ています。関白という役は、そういう成り立ちをしています。
誰が関白になれたのか ─ 五摂家
はじめは天皇の外戚が就く役でした。だが院政が始まると外戚が就く例は珍しくなり、特定の家が交代で継いでいく形になります。
鎌倉時代に九条家から二条家と一条家が、近衛家から鷹司家が分かれ、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家がそろいました。これが五摂家です。
以後、関白はこの五家のあいだで回されることになります。順番を待つ家と、譲りたくない家がいます。だから関白の交代は、しばしば家どうしの争いになりました。天正十三年に起きた関白相論も、その一例です。
近衛前久とは何者か ─ 秀吉を猶子にした公家
五摂家筆頭の当主が、七百年動かなかった枠を開けた経緯です。猶子と養子の違いも書いています。
武家で関白になったのは、二人だけ
七百年ほどのあいだ、関白はこの五家の外から出たことがありませんでした。その枠を破ったのが豊臣秀吉です。
秀吉は近衛前久の猶子となる形で藤原氏に連なり、関白に就きました。日本で最初の武家関白です。さらに翌年、豊臣という姓を新たに賜りました。これによって、藤原氏でも五摂家でもない関白が生まれました。
二人目は甥の豊臣秀次で、秀吉から関白職と家督を継ぎました。ただし実権は太閤である秀吉の手にあり、のちに失脚して切腹します。関白のまま死を命じられた人物は、歴史上この人しかいません。
秀吉の死後、関白は再び五摂家の役に戻りました。外から入ってきたのは、結局この二人だけです。
関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣の序列 ─ 関白と太政大臣はどちらが上か
平清盛は関白にも将軍にもなっていません。天下人たちがどの位まで上ったのかを一覧にしました。
太閤とは何か
「太閤(たいこう)」は、関白の職を子や弟に譲った前関白を指す呼び名です。出家するとさらに禅閤と呼ばれました。
つまり太閤とは本来、特定の個人を指す言葉ではありません。太閤検地という言い方が残っているために、いまでは秀吉の代名詞のようになっているが、制度としては「関白を譲った人」という一般名詞でした。
そして、ここが秀吉のやり方のうまいところでもあります。関白を秀次に譲って自分は太閤になります。職は渡したが、力は渡していません。形のうえでは隠居した前任者でありながら、実際の決定は太閤のもとにありました。
天正十九年に弟の秀長を失ったあと、秀吉はこの形を選びました。補佐してくれる者がいなくなったとき、この人は職を手放すことで、かえって自由になろうとしたようにも見えます。
関白は、いつ無くなったのか
秀吉と秀次のあと、関白は五摂家の役に戻り、江戸時代を通じて続きました。
終わりは慶応三年十二月九日の王政復古の大号令です。豊臣の時代から数えて、さらに二百七十年あとのことです。このとき摂政・関白・征夷大将軍の三つが、まとめて廃止されました。最後の関白は二条斉敬でした。
将軍と関白が同じ日に消えたことには、意味があります。武家の頂点と朝廷の頂点、どちらも天皇の下にあった役職です。その両方を外して、天皇が直接政を執る形に戻します。それが王政復古という言葉の中身でした。
関白を独占した藤原氏をはじめ、源・平・橘の四つの氏の由来は源平藤橘とはで紹介しています。
まとめ
関白という役は、名前のわりに決定権を持っていません。決めるのは天皇で、関白は申し上げる側です。
それでも七百年のあいだ、この役が権力の中心にあり続けました。理由は内覧にあります。天皇に上がる文書を先に見ます。何を見せ、何を止めるかを握ります。決定権そのものより、決定の手前を押さえるほうが強いということを、この役職は示しています。
秀吉が征夷大将軍ではなく関白を選んだのも、たぶん同じ理屈でした。将軍は武家を従える役です。関白は、朝廷を含めたすべての上申が通る場所です。武家も公家も、どちらも自分の下に置きたいなら、座るべき席は決まっていました。
秀吉はなぜ関白になったのか
征夷大将軍を選ばなかった理由と、豊臣という姓が新しく作られた経緯を追っています。
方広寺の大仏とは:秀吉の京の大仏と、「国家安康」の鐘
刀狩の大義名分から大坂の陣の引き金まで。豊臣家の始まりと終わりをつないだ大仏。

