豊臣兄弟!史実ではこの後どうなる?第38回以降の年表 ─ 家康の臣従、九州攻め、そして秀長の死まで

この記事のポイント
  • 第38回(10月4日放送)の舞台は天正13年(1585)、秀長が大和郡山に入った直後です。秀長が亡くなる天正19年(1591)1月まで、史実では残り五年半しかありません
  • この五年半で、家康の臣従、九州攻め、聚楽第と北野大茶湯、刀狩、鶴松の誕生、小田原攻めと、豊臣の天下が完成します
  • 一方で秀長は天正18年ごろから病に伏し、小田原攻めにも加わらないまま、天正19年1月22日に郡山城で亡くなります
  • 秀長の死のあと、利休の切腹、鶴松の死、朝鮮出兵、秀次事件と、豊臣家は急速に傾いていきます。秀長の死がなぜ「分かれ目」だったのかまで整理します

大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、第37回で秀長が大和一国を得て「秀長の国」をつくり始めました。では史実では、この後どんなことが起きるのでしょうか。この記事では、第38回の時点にあたる天正13年から、秀長が世を去る天正19年までを年表でたどり、それぞれの出来事を詳しく扱った記事へ案内します。ドラマがどこまで描くのかはまだ発表されていませんが、主人公が秀長である以上、この五年半が物語の最終盤になると考えられます。

大和郡山城跡
秀長が最後の五年半を過ごした大和郡山城跡
目次

第38回以降の年表(天正13年〜天正19年)

年 月 できごと
天正13年(1585) 閏8月 秀長、大和・紀伊・和泉を与えられ郡山城に入る。家康が上田城の真田昌幸に敗れる(第一次上田合戦)(秀長の百万石)
9月ごろ 秀吉、新しい氏「豊臣」を許されたとされる(翌年12月とする説も)(豊臣と羽柴の違い)
11月 石川数正が徳川家を出て秀吉のもとへ。29日、天正地震(天正大地震)
天正14年(1586) 5月 秀吉の妹・旭が浜松で家康に嫁ぐ(旭姫と大政所)
10月 大政所が岡崎へ。家康が上洛し、秀長の屋敷に泊まって大坂城で臣従(家康はなぜ臣従したのか)
12月 秀吉、太政大臣となる
天正15年(1587) 3〜5月 九州攻め。秀長は日向方面の大将として根白坂で島津軍を破り、島津義久が降伏(九州平定)
6月 博多でバテレン追放令が出される
9〜10月 聚楽第が完成。10月1日、北野大茶湯(聚楽第とは)
天正16年(1588) 4月 後陽成天皇が聚楽第に行幸
7月 刀狩令が出される(太閤検地と刀狩)
このころ 茶々が秀吉の側室となったとされる(茶々はなぜ側室に)
天正17年(1589) 5月 茶々が淀城で鶴松を産む(鶴松)
天正18年(1590) 1月 旭が聚楽第で亡くなる
3〜7月 小田原攻め。北条氏が降伏し、家康は関東へ移る。秀長は病のため加わらず(小田原征伐)
天正19年(1591) 1月22日 秀長、郡山城で亡くなる(天正十九年に何が起きたのか)
2月 千利休が切腹(利休の切腹)
8月 鶴松が三歳で亡くなる
12月 秀次が関白となる(秀吉と秀次)

家康の臣従まで(天正13〜14年)

ドラマの第39回から第41回にあたるのが、この一年あまりです。石川数正の出奔、天正地震、旭の輿入れ、大政所の岡崎行きと出来事が続き、天正14年10月に家康が大坂城で秀吉に臣従します。このとき家康が泊まったのが秀長の屋敷で、兄弟がそろって家康を迎えたことが、豊臣政権の安定を象徴する場面になりました。各回の見どころは、第39回「茶々の本心」、第40回「あさひの輿入れ」、第41回「家康の野望」の予想記事で先回りしています。

九州攻めと秀長(天正15年)

家康を従えた秀吉が次に向かったのが九州で、ここが秀長の武将としての最後の大舞台です。秀吉が肥後・薩摩へ向かう西のルートを進む一方、秀長は豊後から日向へ攻め下る東のルートの大将を任され、根白坂で島津家久らの軍を破りました。この勝利が島津義久の降伏につながります。四国攻めに続いて、秀長が大軍の総大将を務めた戦いでした。根白坂で援軍を出すかどうかの判断をめぐっては、尾藤知宣の話がよく知られています。

▽ よく語られる話
秀長は戦が苦手で、内政だけの人だった。
▼ 史実ではこうです
四国攻めでは十万の軍の総大将、九州攻めでは日向方面の大将を務め、根白坂で島津軍を破っています。秀吉が自ら出られない戦線を任せられる、豊臣家で唯一の「もう一人の大将」でした。

大和の国づくりと、豊臣の天下の完成(天正15〜17年)

九州から戻った秀長は、大和・紀伊・和泉の経営に力を注ぎます。郡山の城下に商人を集めた箱本十三町、熊野の木材の管理、寺社との関係の組み替えなどは、秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかや大和はなぜ貧しい国だったのかで扱っています。同じころ京では聚楽第が完成し、北野大茶湯や天皇の行幸、刀狩と、秀吉の天下が目に見える形で整っていきました。

ただ、このころの秀長にはかげりも見えます。家臣の吉川平介が熊野の木材をめぐる不正で処刑された一件は、主君である秀長の面目を大きく損ないました(吉川平介とは)。秀長自身の病も、このころから伝えられるようになります。

小田原攻めに秀長がいなかった理由(天正18年)

天正18年の小田原攻めは、全国の大名を動員した豊臣政権最大のいくさでしたが、秀長の名はその陣中にありません。前年から体調を崩していた秀長は、郡山で療養を続けていたからです。九州攻めまで兄の片腕として戦場に立ち続けた秀長が、天下統一の総仕上げに立ち会えなかったことは、兄弟の物語のなかでも切ない場面になりそうです。この年の正月には、妹の旭も聚楽第で亡くなっています。

秀長の死と、その後の豊臣家(天正19年〜)

天正19年(1591)1月22日、秀長は郡山城で亡くなりました。五十二歳でした。その翌月に千利休が切腹を命じられ、8月には鶴松が三歳で亡くなります。豊臣家は一年のうちに、政権の調整役、茶の湯を通じた人脈の要、そして跡継ぎを失ったことになります。秀長の跡は養子の秀保が継ぎましたが、秀保も文禄4年(1595)に十七歳で亡くなり、大和の豊臣家は絶えました(豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか)。

秀長を支えた家臣たちも、主家が絶えると行き先が分かれました。三家老の横浜一庵・羽田正親・小川下野守が、殉死・大地震・消息不明と三者三様の最期を迎えた経緯は秀長の三家老とはで比べています。

このあと秀吉は関白を秀次に譲り、朝鮮出兵、秀頼の誕生、秀次事件へと進んでいきます。秀長が生きていたら止められたのではないかと言われる出来事が、秀長の死のあとに立て続けに起きました。その「もしも」はもし豊臣秀長があと十年生きていたらで、史実の順番に沿って考えています。

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天正十九年に何が起きたのか:秀長、利休、鶴松 ― 豊臣家が一年で三つ失った年

秀長の死から一年で、豊臣家は何を失ったのか。崩れはじめた順番をたどります。

よくある疑問

Q. 豊臣秀長はいつ、何歳で亡くなりましたか?
A. 天正19年(1591)1月22日、郡山城で亡くなりました。五十二歳(数え年)でした。

Q. 秀長は小田原攻めに参加しましたか?
A. 病のため参加していません。郡山で療養していました。

Q. 秀長は朝鮮出兵のときに生きていましたか?
A. 朝鮮出兵は文禄元年(1592)に始まったので、秀長はすでに亡くなっていました。

Q. ドラマは秀長の死まで描くのですか?
A. どこまで描くかは発表されていません。主人公が秀長なので、その死が最終盤の大きな山場になると考えられます。

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まとめ

第38回の時点から秀長の死まで、史実で残された時間は五年半です。そのあいだに家康の臣従、九州攻め、聚楽第、刀狩と豊臣の天下は完成に向かいますが、秀長自身は小田原攻めのころには病に伏し、天下統一の総仕上げを見届けることはできませんでした。秀長がいなくなった翌月から豊臣家が崩れはじめたことを思うと、ドラマの残りの回は、天下が「完成していく話」であると同時に、それを支えていた人が「いなくなっていく話」でもあります。放送が進むたびに、この年表に各回の記事を足していきます。

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