小川下野守(おがわ・しもつけのかみ)は、横浜一庵・羽田正親と並んで豊臣秀長の「三家老」に数えられる人物です。ところが、確かな史料はほとんど残っていません。経歴の多くは軍記物の『太閤記』が伝えるもので、秀長の死後は記録から消えてしまいます。その正体を、関ヶ原で東軍に寝返った大名・小川祐忠とする説もあります。伝承と史料を分けながら、謎の家老の姿をたどります。
- 秀長の三家老の一人とされるが、同時代の確かな史料はきわめて少ない
- 近江の出で、浅井長政、明智光秀に仕えたのち秀長の家臣になったと伝わる(主に『太閤記』系の伝え)
- 賤ヶ岳の戦いのあと、岐阜城の前で大声を上げて城兵の気勢をくじいた逸話が残る
- 大和で一万五千石とも三万五千石ともいう知行を得たとされるが、秀長の死後の消息は不明
- 近江出身で、同じく浅井・明智の陣営を渡り、「大和郡山のあたりで三万石」を与えられた小川祐忠と同一人物とする説がある
小川下野守とは:三家老なのに、記録がほとんどない男

大和郡山城(奈良県大和郡山市)。雨の日の朱塗りの橋と石垣
秀長が大和・紀伊・和泉を与えられて郡山城に入ったあと、領国の政治を支えた重臣として、よく名前が挙がるのが三人の家老です。家中最高の禄を得た横浜一庵、小泉城主から宇陀松山へ移った羽田正親、そして小川下野守です。
ほかの二人には、書状や日記の記録、秀長の死後の歩みがそれなりに残っています。ところが小川下野守だけは、実名さえはっきりしません。『太閤記』などには「兼高」「兼隆」という名で出てきますが、これも軍記物にしか見えない名前です。秀長の家臣団全体のなかでの位置は豊臣秀長の家臣団とはで整理しています。
伝えられる経歴 ── 浅井、明智、そして秀長へ
伝えられるところでは、小川下野守は近江の出身で、はじめは北近江の浅井長政に仕えていました。天正元年(1573)に浅井家が滅びると明智光秀のもとに移り、天正十年(1582)に光秀が山崎で敗れたあと、秀長の家臣になったといいます。
近江の武士が浅井家の滅亡後に織田家の諸将のもとへ散っていったのは、よくある話です。秀長自身も長浜時代に近江の人びとを家臣に迎えています(長浜時代の秀長の立場は豊臣秀長は織田信長の直臣だったのかで紹介しています)。ただ、下野守がいつ、どういう縁で秀長に仕えたのかを示す同時代の記録はありません。ここまでは伝承として読んでおくのが安全です。
岐阜城に響いた大音声 ── 賤ヶ岳のあとの逸話
下野守の名がもっとも生き生きと出てくるのが、天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いのあとの場面です。柴田勝家が敗れたのち、秀長の軍は織田信孝が守る岐阜城へ向かいました。四月二十五日の夜、下野守は城の近くまで駆け寄り、城中に向かって大声で勝家の敗北を告げたといいます。援軍の望みが絶たれたことを知らされた城兵は気勢をそがれ、やがて信孝は降伏しました。
刀を振るう武功ではなく、声で城の士気をくじくという話は、のちに寺社と交渉する大和の家老にふさわしい逸話にも見えます。ただしこれも『太閤記』系の伝えで、脚色が入っている可能性は否定できません。
三家老として ── 大和での知行と郡山の小川町
天正十三年(1585)閏八月に秀長が大和に入ると、下野守は三家老の一人として領国の政治を任されたとされます。知行は一万五千石とも三万五千石とも伝わり、数字には大きな幅があります。三万五千石なら、横浜一庵の五万石、羽田正親に次ぐ待遇です。
郡山の城下には下野守の屋敷があり、そのあたりが「小川町」と呼ばれるようになった、という伝えもあります。秀長が郡山をどういう城下町に育てたのかはなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで紹介しています。
秀長の死後、忽然と消える
下野守の謎がいちばん深まるのは、ここからです。天正十九年(1591)正月に秀長が亡くなったあと、下野守の名は記録から消えてしまいます。戦で討たれた話も、隠居した話も、罰せられた話も伝わっていません。文字どおり、忽然と姿を消すのです。
横浜一庵は秀保の後見を経て秀吉の直臣となり、羽田正親は秀次事件に連座しました(羽田正親のその後)。三家老のうち二人の行き先がはっきりしているだけに、下野守の空白は際立ちます。この年に豊臣家で何が起きたのかは天正十九年に何が起きたのかにまとめています。
小川祐忠と同一人物説 ── 何が重なるのか
そこで浮かび上がるのが、小川下野守は小川祐忠(すけただ)のことではないか、という説です。歴史学者の本郷和人氏が、この見方を示していると紹介されています。小川祐忠は近江の国人で、のちに伊予今治で七万石の大名になり、関ヶ原の戦いで東軍に寝返った人物です。
- どちらも近江の小川氏の出で、浅井家に仕えていた
- どちらも浅井家の滅亡後に織田方へ移り、本能寺の変のあとは明智光秀の陣営にいた
- 祐忠には「大和国郡山のあたりで三万石を与えられた」という記録がある。時期は秀長の大和入り(天正十三〜十四年)か、秀保の死後(文禄四年ごろ)とみられる
- 下野守の知行とされる三万五千石と、祐忠の大和での三万石が近い
- 下野守が記録から消えるころ、祐忠は大名として表舞台に出てくる
とくに「大和郡山のあたりで三万石」という記録は重要です。もし秀長の大和入りと同じ時期なら、祐忠は秀長の城下に知行をもらっていたことになり、「秀長の家老・小川」の正体としてぴったり重なります。
違うところ ── 同一人物とは言い切れない理由
同じ一族の別人だった、という可能性も残ります。近江の小川氏には系統に諸説があり、一族の誰が誰なのかを整理しきれていないのが実情です。秀長の家臣のなかで前半生に空白があるのは下野守だけではありません。家中最高の禄を得た横浜一庵も、秀長に仕えるまでの歩みはわかっていません。
小川祐忠という人 ── 茶人大名から関ヶ原の寝返りへ

関ヶ原合戦の布陣図(概略図)。左下の「脇坂・小川・赤座・朽木」の小川が小川祐忠
同一人物かどうかは別として、小川祐忠の歩みはそれだけで波乱に満ちています。浅井家の家臣から織田信長に降り、天正七年(1579)には信長から茶会を開くことを許されました。本能寺の変のあとは明智光秀に従い、光秀が敗れると秀吉に降ります。その後は柴田勝家の養子・勝豊の家老となり、長浜城にいた勝豊が秀吉方に寝返ったことで羽柴方に加わりました。
秀吉のもとでは小田原攻めや朝鮮出兵に加わり、文禄四年(1595)に伊予今治で七万石を与えられます。慶長三年(1598)の醍醐の花見では茶屋を建てるなど、茶人としても知られました。
そして慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い。祐忠ははじめ西軍に属し、松尾山のふもとに陣を置きました。しかし脇坂安治・朽木元綱・赤座直保とともに東軍と通じており、小早川秀秋の寝返りに合わせて西軍の大谷吉継の隊に攻めかかります。子の祐滋は寝返りに反対したとも伝わります。
ところが戦後、祐忠は改易されました。内応の見返りは与えられなかったのです。領内の政治がよくなかったから、石田三成と親しかったからなど、理由には諸説があります。祐忠は京に隠れ住み、慶長六年(1601)に近江で没したといいます。子の光氏がのちに豊後日田で家を再興したものの、跡継ぎがなく絶えたと伝えられています。
ドラマではこう描かれています
横浜一庵・羽田正親と並べた三家老の比較は秀長の三家老とはにまとめました。
ドラマのこの時期の放送回は、豊臣兄弟!第32回「賤ヶ岳の決闘」史実解説で史実を解説しています。
まとめ
小川下野守は、秀長の三家老の一人とされながら、確かな史料がほとんど残っていない人物です。浅井・明智を経て秀長に仕えた経歴や、岐阜城の前で大声を上げた逸話は、主に軍記物が伝えるものです。秀長の死後は記録から消え、その正体を関ヶ原で寝返った小川祐忠とする説もありますが、官途や立場に食い違いがあり、仮説の域を出ません。わからないことが多いからこそ、想像の余地が大きい家老だといえます。ほかの家老たちは横浜一庵とは、羽田正親とはで、秀長の生涯は豊臣秀長とはでどうぞ。
参考文献
- 小瀬甫庵『太閤記』
- 大橋金造『近江神崎郡志稿』
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』角川選書
- 『信長公記』

