吉川平介とは:『豊臣兄弟!』で松岡広大が演じる秀長の家臣、四国攻めの船を差配した男が熊野の木で身を滅ぼすまで

四国攻めで海を渡る秀長の船団(イメージ・イラスト)

吉川平介(よしかわ へいすけ)は、豊臣秀長の家臣です。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では松岡広大さんが演じ、第36回「姫若子と鬼若子」から、もとは商人の新しい家臣として登場しています。船と物資の扱いに通じた実務の人で(信長のもとで伊勢大湊の船奉行だったとも伝わります)、四国攻めでは十万の軍を海の向こうへ渡すための船を差配しました。ところがその三年後、熊野の木を二万余本伐って大坂で売り、代金を懐に入れます。露見して罰せられ、命を落としました。しかも責めは本人だけで終わらず、主君である秀長にまで及びました。船で主君を立てた男が、木で主君の顔を潰したのです。

※この記事の絵は、いずれも当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 史料の表記は吉川平介。ドラマでは「吉川平助」と書かれる
  • もとは秀吉の家臣。伊勢大湊の船奉行だったとも、長浜の商人の出ともいわれる
  • 処刑されたのは平介ひとり。妻子は罪に問われず、孫は京の町人になった
  • 秀長の紀伊統治では山奉行となり、熊野の材木を握った
  • 四国攻めの渡海を、船の側から支えた
  • 天正十六年、熊野の木二万余本を大坂で売り、代金を着服
  • 同年十二月五日、大和西大寺で処刑。首は洛中に晒された
  • 秀長は「天下の面目を失った」とされ、翌年正月の拝謁を許されなかった
  • 伝えるのは、奈良の僧が書き継いだ日記『多聞院日記』

▶ ショート動画で見る、吉川平介と八百艘の船

目次

吉川平介とは何者か ─「平助」と「平介」

まず表記の話をしておきます。史料に残る名は「吉川平介」です。ドラマの字幕では「吉川平助」と書かれます。読みはどちらも「へいすけ」で、同じ人物を指しています。戦国期の人名は書き手によって字が揺れることが珍しくなく、この人の場合もその一例と考えてよいでしょう。

生年は分かっていません。没年だけがはっきりしています。天正十六年十二月五日。それも、自然な死に方ではありませんでした。

豊臣秀長の家臣としては、決して大きな名前ではありません。けれども、この人がいなければ、四国攻めの形は変わっていた可能性があります。

船から木へ ─ 吉川平介をめぐる四年天正十三年秀吉が紀伊を平定。秀長が紀伊と大和を治める 四国攻め。秀長が総大将、十万の兵が海を渡る 平介は紀伊で山奉行となり、熊野の材木を預かる天正十六年秀長の命で熊野の木二万余本を伐り、大坂で売る 売買代金の着服が秀吉に報告される十二月五日大和西大寺で処刑。首は洛中に晒される天正十七年正月秀長、秀吉への拝謁を許されず

吉川家はどんな家か|伊勢大湊の船奉行か、長浜の商人か

吉川平介の出自には、二つの見方があります。ひとつは、織田信長のもとで伊勢大湊から紀伊湊までの船を預かる船奉行をつとめていた、というものです。大湊は伊勢の外港で、当時の日本でも有数の造船と海運の拠点でした。ただしこの話は、江戸時代にまとめられた『譜牒余録』という記録に見えるもので、研究者のあいだには信用しにくいとする見方もあります。

もうひとつの見方は、平介はもともと近江長浜の有力な商人の家の出で、秀吉が長浜城主だったころに取り立てられた、というものです。天正九年(1581年)にはすでに秀吉の家臣として名が見え、天正十三年の四国攻めのころには秀長の家臣になっていたことが確かめられます。つまり平介は、最初から秀長の家臣だったわけではありません。秀吉のもとから、弟の秀長のもとへ移された人物でした。船と材木と銭の扱いに長けた、商人あがりの実務家だったと考えると、のちの船奉行・山奉行としての働きも、代金をめぐる一件も、ひとつの線でつながって見えてきます。所領は七千石と伝わります。秀長のもとにどんな家臣が集められていたのかは豊臣秀長の家臣団とはをご覧ください。

▽ よく語られる話
吉川平介は信長の時代から伊勢大湊の船奉行で、信長の死後に秀長のもとへ入りました。
▼ 史実ではこうです
伊勢大湊の船奉行だったという話は江戸時代の記録によるもので、確かとは言えません。確実なのは、天正九年には秀吉の家臣で、天正十三年には秀長の家臣だったことです。長浜の商人の出とする見方もあり、いずれにせよ船と物資の扱いに通じた実務の人でした。

伊勢大湊の造船場(イメージ・イラスト)

伊勢大湊の造船場のイメージ(イラスト)。船は木でできています。この現場を知る人間が、のちに熊野の山を預かりました。

四国攻めは、船がなければ始まらない

四国攻めの総大将は秀長でした。動員された兵はおよそ十万と伝わります。

ここで見落とされやすいのは、四国は海の向こうにあるという当たり前の事実です。十万の兵を海峡の向こうへ渡すには、兵の数だけでなく、それを載せる船が要ります。兵糧も、馬も、鉄砲も渡さなければなりません。渡した先で船は引き返し、次を運びます。

秀吉方が集めた船は八百艘とも伝わります。長宗我部元親が瀬戸内の水軍を握りきれなかったのに対し、秀吉方は紀伊・淡路・瀬戸内の船を押さえていました。四国攻めの勝敗は、上陸する前にかなりの部分が決まっていたのです。

その船を集める側に、船の扱いを知る男がいました。平介が四国攻めでどこまで差配したかを一つ一つ示す記録は乏しいのですが、熊野灘で船を扱ってきた人間を紀伊に置いたこと自体が、配置として意味を持っていたという見方があります。

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八百艘の船団と、瀬戸内を持たなかった土佐の弱点。船の側から四国攻めを見ています。

紀伊と熊野 ─ 山奉行としての吉川平介

四国攻めの前、秀吉は紀伊を平定しています。秀長はこの紀伊と大和をあわせて治めることになり、平介はその配下として紀伊の統治にあたりました。

ここで与えられたのが山奉行です。熊野の材木の管理と調達を受け持つ役でした。

船の男が山の役に就いたのは、意外なようでいて筋が通っています。船は木でできています。どの木が使えるか、どこから伐り出してどう運ぶか、いくらで売れるか。船を造らせてきた人間は、木の値打ちを知っています。熊野は良材の産地であり、そこを押さえることは豊臣の財源を押さえることでもありました。

つまりこの人は、政権にとってかなり金になる場所に置かれたのです。そしてその場所で、判断を誤ります。

熊野の木、二万余本

天正十六年。平介は秀長の命により、熊野の木を伐り出して大坂で売りました。その数、二万余本と伝わります。

問題は、その売買代金でした。熊野の木は四国から九州へと続く遠征を支える資源でもあります。平介はこれを着服し、私腹を肥やしたとされます。そしてそのことが、秀吉のもとへ報告されました。

一報がどういう経路で誰から届いたのかは、はっきりしません。ただ主君である秀長を飛び越えて、秀吉の耳に入ったという点が決定的でした。

熊野の木場で材木を検める奉行(イメージ・イラスト)

熊野の木場のイメージ(イラスト)。伐り出した材を筏に組んで川へ下ろします。帳面を持つ者が本数を検める ─ その帳面が、この一件の要になりました。

大和西大寺で処刑され、首は洛中に晒された

天正十六年十二月五日、吉川平介は大和の西大寺で処刑されました。そして首は洛中に晒されました。

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八百艘の船を動かした男は、なぜ処刑されたのか|吉川平介と豊臣秀長

この処分の重さは、二つの点に表れています。

ひとつは場所です。西大寺は奈良、つまり秀長のお膝元です。主君の領国で、主君の家臣が首を打たれました。もうひとつは見せ方で、晒された場所が京の町なかでした。内々に済ませるのではなく、人目につく形で示したということです。

金銭の不正で処刑される家臣は珍しくありません。けれどもここまで見せる形を取るとき、目的は本人への罰だけではありません。

責めは、秀長に及んだ

実際、事はそこで終わりませんでした。

この一件で秀長は「天下の面目を失った」とされ、翌年正月の礼で、秀吉への拝謁を許されませんでした。

正月の拝謁は、豊臣家の序列を目に見える形で確かめる場です。そこに出られないということは、豊臣家の序列の中で、弟の位置が一段下げて示されたということでした。家臣の不正が、主君の立ち位置にそのまま跳ね返っています。

▽ よく語られる話
秀長は温厚な調整役で、兄の秀吉から全幅の信頼を受けていました。兄弟のあいだに緊張はありませんでした。
▼ 史実ではこうです
兄弟の関係が良好だったことと、公の場での扱いが厳しかったことは両立します。秀吉は身内であっても、統治の不始末を見逃す形を取りませんでした。むしろ身内だからこそ、示しをつける必要があったとも読めます。この一件は、秀長を「ただ温厚な弟」として見ていると理解できません。

なぜ木を売っただけで、首が飛んだのか

材木の代金を着服しました。それだけを聞くと、処分が重すぎるように見えます。

けれどもこの時期、秀吉は太閤検地と刀狩によって、土地と人と物の出入りを一元的に把握する仕組みを作ろうとしていました。誰が何をどれだけ持っているかを、政権が握ります。その途中で「奉行が物と金を横に流していた」という話が出れば、仕組みそのものに穴が開きます。

しかも相手は熊野の材木です。船を造り、城を建て、町を作るための資源で、豊臣が天下普請を進めるうえでの元手にあたります。

個人の不正というより、政権が握ろうとしていた財の流れに手を突っ込んだと受け取られたのでしょう。晒し首という見せ方は、そこへの回答だったと見ると筋が通ります。

妻子は罰せられたのか|「女・子供ハ不苦」

主君の面目をつぶすほどの一件で、しかも首を晒されました。家族も巻き添えになったのではないか、と考えるのが自然でしょう。ところが、処刑を書き留めた奈良の僧の日記『多聞院日記』には、妻や子は「不苦(くるしからず)」、つまり罪に問わないと記されています。罰を受けたのは平介ひとりで、財産は取り上げられたものの、家族が殺されたり追放されたりした形跡はありません。のちの秀次事件で、妻子三十九人までが処刑されたのとは対照的です。なぜ平介の家族は許され、秀次の家族は許されなかったのか。その分かれ目は秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのかで考えています。その違いは秀次事件 三十九人の処刑と読み比べるとよくわかります。

子孫はどうなったのか|武士をやめ、京の町人になった孫

平介の家は、処刑のあとも絶えませんでした。息子とみられる二代目の吉川平助は、そのまま秀長に仕えたと伝わります。ところが秀長が亡くなると、ほかの豊臣一門に召し抱えられることはなく、浪人になったといいます。父の一件が影を落としたのかどうか、理由ははっきりしません。孫の庄兵衛は武士をやめて町人となり、その子は京都の三条通菱屋町で「松屋庄太夫」を名のったと伝えられます。四国攻めで大船団を動かし、熊野の山を預かった男の家は、三代ののち、京の町に溶けこんでいきました。秀長の家臣たちがその後どこへ行ったのかは豊臣秀長の家臣団とはでまとめています。

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記録を残したのは、奈良の僧だった

この経緯が今日まで伝わるのは、『多聞院日記』という記録があるからです。この日記については多聞院日記とはで詳しく書いています。

奈良の興福寺の子院・多聞院の僧が書き継いだ日記で、秀長が治めた大和で起きたことを、寺の側から淡々と書きとめています。合戦の記録ではありません。町や寺が見たままを書いた日記のほうが、大きな年表からこぼれる人の生き死にを拾っていることがあります。

吉川平介という名が残ったのも、この日記があったからです。皮肉なことに、この人が歴史に残ったのは船を集めた功ではなく、首を打たれた一件によってでした。

▶ 豊臣秀長の家臣たち

『豊臣兄弟!』では松岡広大が演じる吉川平助

▷ 大河ドラマではこう描かれました
『豊臣兄弟!』で吉川平助を演じるのは松岡広大さんです。第36回「姫若子と鬼若子」で、もとは商人の秀長の新しい家臣として登場し、四国攻めでは紀伊湊の代官として舟の手配を担う人物と紹介されています。史実では、このあと熊野の材木をめぐる不正で失脚し、責めが秀長にまで及びます。ドラマがそこまで描くのかは、これからの見どころです。四国攻めの回の史実は第36回「姫若子と鬼若子」史実解説で、秀長の家臣たちの登場状況は秀長の三家老とはで紹介しています。

平介が預かった熊野の木が何に使われ、どう運ばれたのかは熊野の木はなぜ豊臣政権に狙われたのかで、平介が代官を務めた紀伊の国づくりは秀長は紀伊をどう治めたのかで、熊野の山奥で起きた一揆は北山一揆とはで紹介しています。

まとめ

吉川平介は、四国攻めという大事業の裏側にいた人です。十万の兵をどう海の向こうへ運ぶか。その問いに実務で答えられる人間は、当時そう多くありませんでした。船と物資の扱いに通じたこの人は、数少ないその一人でした。

ところが同じ知識が、木の値打ちが分かるという形で裏目に出ます。熊野の材木を預かり、それを金に換え、その金を手元に残しました。

そして首を打たれ、その首が京で晒され、主君の秀長は正月に兄の前へ出ることを許されませんでした。家臣一人の不正が、天下人の弟の顔を潰したのです。豊臣政権が、身内にも容赦しない形で動いていたことがよく分かる一件です。

白地城や一宮城に取りついた秀長の軍は、この人が関わった船に乗って海を渡っていました。城に立つと戦の跡は見えますが、そこまで運んだ船は残りません。

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