なぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのか:地蔵まで石垣に積んだ、豊臣の弟の頂点

大和郡山城/アクセス・地図・場所 豊臣秀長の大和・紀伊・和泉100万石の居城 郡山城
この記事のポイント

豊臣秀長という人の生涯で、いちばん高いところはどこか。四国平定の総大将でも、九州での軍功でもありません。天正十三年(1585)閏八月十八日—この日、秀長は大和を与えられ、大和・紀伊・和泉の三か国、百万石の大名になりました。兄が関白になった年です。

そして彼が入った城が、大和郡山城でした。

大和郡山城の堀と高石垣。この石の一つひとつに、この城の事情が刻まれています

目次

百万石の中身 ─ 大和・紀伊・和泉の三か国

秀長の百万石は、大和一国だけの数字ではありません。順序はこうです。天正十三年(一五八五)の春、紀州征伐が終わって紀伊と和泉が秀長に与えられました。続いて夏の四国攻めでは、病の秀吉に代わって十万を超える軍勢の総大将を務め、長宗我部元親を降します。その功で大和が加増され、三か国をあわせて「百万石」の大名になりました。史料によっては、これに河内の一部が加わっていたともされます。

国ごとの石高を、のちの太閤検地がほぼ終わったころの数字(慶長三年の国別石高)で並べると、次のようになります。

国 石高(おおよそ) 拠点の城
大和 約四十五万石 大和郡山城(秀長の居城)
紀伊 約二十四万石 和歌山城(城代・桑山重晴)
和泉 約十四万石 ─
合計 約八十三万石 (名目は「百万石」)

三か国を足しても、検地後の数字では八十万石あまりにとどまります。秀長の時代の実際の石高は七十三万四千石だったともされ、「百万石」はあくまで名目、つまり格を示す呼び名だったと考えるのがよいでしょう。紀伊には高野山の寺領など、秀長が思いどおりにできない土地も残っていました。それでも当時の大名としては破格で、豊臣家の一門としては兄に次ぐ規模です。秀吉は弟に、大坂のすぐ隣の三か国を、まるごと預けたことになります。

▽ よく語られる話
秀長は大和一国で百万石の大名になりました。
▼ 史実ではこうです
大和一国はおよそ四十五万石で、それだけでは百万石に届きません。先に紀伊・和泉を与えられ、あとから大和が加わって、三か国あわせて「百万石」と呼ばれました。
▶ 60秒でわかる動画

地蔵を逆さに積んだ城|秀長の百万石・大和郡山城

なぜ「大和」だったのか

ここがこの話の核心です。大和という国は、戦国大名がついに完全には支配しきれなかった土地でした。興福寺、東大寺—巨大な寺社が荘園と僧兵を抱え、中世を通じて実質的な領主でありつづけました。信長も手を焼き、松永久秀が暴れ、筒井氏がようやく守護になったのが天正八年(1580)です。

その筒井氏を、秀吉は動かしました。筒井定次を伊賀上野城へ転封し、大和を空けたのです。空いたから秀長を入れたのではありません。秀長を入れるために空けたのです。ここが重要です。

大和は、京と大坂と紀伊と伊勢を結ぶ結節点でもあります。大坂城の背後にあたり、ここが荒れれば政権の足元が揺らぎます。難しくて、しかも要になる土地。秀吉が心から信用できる人間にしか任せられない場所でした。

百万石という数字より、「大和を任された」という事実のほうが、この兄弟の関係を語っていると思います。

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追手向櫓。城の中心部は、いま石垣と復元建築で往時の姿をしのばせる

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石がない国で、城を建てる

秀長が郡山城の普請にかかったとき、思わぬ壁にぶつかりました。大和には、石垣に使える良質な石が乏しかったのです。そこで取られた手段が徹底しています。領内の各戸に「五郎太石二十荷」の供出を義務づけました。五郎太石とは石垣の隙間に詰める小石のことで、要するに民家一軒ずつからノルマで石を集めたのです。

郡山城天守台の石垣に積まれた「さかさ地蔵」の案内板

郡山城天守台の石垣に積まれた「さかさ地蔵」(撮影:佐藤秀信)

それでも足りません。次に手が伸びたのが、石地蔵、墓石、石塔、寺院の礎石でした。平城京の羅城門のものと伝わる礎石まで運び込まれています。近年の調査では、奈良の頭塔の石仏が石垣の中から見つかりました。

なかでも有名なのが、逆さまに積まれた地蔵—「逆さ地蔵」です。信仰の対象が、上下を逆にして石垣の一部になっています。これを乱暴と見るか、合理と見るか。ただ一つ言えるのは、寺社が実質の領主だった国で、その寺社の石を城の土台にしたということの意味は小さくないということです。新しい支配者が来た、と石垣そのものが告げています。

城内に残る石垣。積まれた石の出所をたどると、この城の成り立ちが見えてくる

逆さ地蔵をはじめ、いまも城跡で見られる転用石については大和郡山城で紹介しています。

奈良の商いを、郡山に集めた

秀長の仕事は、城を建てることだけではありませんでした。入城と同じ天正十三年、城下に十四の町を設けました。そして奈良で行われていた商売を、郡山の城下に集中させました。既存の大都市から商機能を引き剥がして、自分の城下に移したのです。

のちに「箱本」と呼ばれる自治のしくみが整い、町が持ち回りで運営にあたるようになります。町を作り、人を呼び、金の流れを変えます。

この手つきには見覚えがあります。大坂城の築城で、石と材木と人夫を全国から集めてみせた、あの実務家の手つきです。秀長という人は、戦場の将であると同時に、いつも「集める」ことで結果を出す人でした。普請奉行として仕えた藤堂高虎が築城の名手になったのも、この現場です。

堀端から見た郡山城。秀長はこの城で六年を過ごし、ここで没した

大和大納言と呼ばれた男

郡山に入った翌々年、天正十五年(1587)。秀長は九州平定で日向方面の総大将を任され、高城を包囲して島津義弘の夜襲を撃退しています。この年八月、従二位権大納言に叙されました。「大和大納言」—この通称はここから来ています。地名と官位だけで人を指せるというのは、その人がその土地と一体に見られていたということです。

そして天正十九年(1591)正月二十二日、秀長はこの郡山城内で病没します。享年五十二。百万石の主となってから、わずか六年でした。

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大河ドラマで描かれない話

秀長の死後、家督は養子の秀保が継ぎました。ただし秀保が継げたのは大和と紀伊の二か国で、和泉などは豊臣家に取り上げられています。十三歳の跡継ぎに、百万石をそのまま預けることはしなかったのです。その秀保も、文禄四年(1595)に十七歳で死去します。跡継ぎはいませんでした。ここで大和大納言家は断絶しました。くわしくは豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのかで書いています。秀長の領地は解体され、郡山城には増田長盛が二十二万三千石で入ります。

秀長が死んで四年、家そのものが消えました。豊臣政権にとってこれは、単に一人の重臣を失ったという話では済みません。兄を諌められる人間と、その人間が率いた百万石の軍事力・経済力が、まとめて失われたということです。

同じ年、秀次事件が起きます。豊臣家から「次の世代」が消えていく年でした。

よくある質問

Q. 秀長の百万石は本当に百万石だったのですか?
A. 名目上は大和・紀伊・和泉で百万石とされますが、実石高は七十三万四千石ほどと伝わります。それでも当時としては最大級の領地です。

Q. 郡山城に天守はあったのですか?
A. ありました。天正十一年(1583)に完成したと伝わり、秀長が入る前、筒井氏の時代の建築です。二〇一四年の発掘調査で礎石と金箔瓦が確認され、実在が裏づけられました。

Q. 「逆さ地蔵」は今も見られますか?
A. 天守台の石垣に残っており、案内も出ています。石材が不足した事情を今に伝える、この城でもっとも有名な石です。

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ゆかりの地をめぐる

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  • 大阪城(大阪府大阪市)… 秀長が普請を差配した豊臣政権の中枢
  • 伊賀上野城(三重県伊賀市)… 大和を空けるため筒井定次が移された城
  • 太田城〈紀州〉(和歌山県和歌山市)… 紀伊六十四万石をもたらした紀州征伐の舞台
  • 和歌山城(和歌山県和歌山市)… 紀州平定後に築かれ、秀長が兄から預かった城

イラストで見る武将・姫たち

この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。

  • 豊臣秀長 … 兄・秀吉を支え天下を陰で動かした「補佐役」の名将
  • 筒井定次 … 筒井順慶の養子。伊賀上野藩主となるが、関ヶ原の戦い後の家中混乱や幕府の意向により改易され
  • 長宗我部元親 … 姫若子から土佐の出来人へと成長し土佐一国から四国全土を電撃的に制覇した雄
  • 松永久秀 … 戦国三悪事で知られる稀代の梟雄。信長に何度も反逆し、最後は名器平蜘蛛茶釜とともに爆死した
  • 増田長盛 … 豊臣五奉行の一人。大和郡山20万石を領し、長束正家らとともに検地や兵糧・軍需物資の補給を
  • 島津義弘 … 鬼石曼子と恐れられた猛将。木崎原の戦いや関ヶ原の島津の退き口で神話的武功
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石高は大きいのに国主の取り分が小さかった大和の事情は大和はなぜ貧しい国だったのかで取り上げています。

まとめ

百万石という数字は、たしかに派手です。だが秀長の到達点を測るなら、見るべきは石高より「大和」という土地のほうです。寺社が力を持ち、歴代の武将が手を焼き、しかも政権の背中にあたる場所。そこを空けてまで弟に任せたという事実に、この兄弟の距離が出ています。

秀長はその国で、石を集め、町を作り、商いを呼び、そして六年で亡くなりました。石垣に積まれた地蔵は、いまも逆さのまま城を支えています。

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