春日大社は奈良市の御蓋山(みかさやま)の麓にあります。藤原氏の氏神を祀る社で、創建は神護景雲二年(768年)と伝わります。ただ、この社を「神社」としてだけ見ると、戦国の大和は読み解けません。隣の興福寺と一体になって大和一国を動かし、都へは神木を担いで押しかけた。秀長が大和で向き合ったのは、この仕組みでした。石燈籠およそ二千基、釣燈籠およそ千基。その数もまた、信仰の広がりの記録です。
- 藤原氏の氏神を祀る社。第一殿の武甕槌命は鹿島から迎えられました
- 鹿が神使とされるのは、武甕槌命が白鹿に乗って来たという伝承によります
- 興福寺と神仏習合で一体化し、二つで大和を支配する権門になりました
- 僧たちは春日の神木を担いで都へ押しかけました。これが神木動座です
- 二十年に一度の式年造替を、創建以来くり返してきました
四柱の神と、鹿
本殿には四柱が祀られています。第一殿の武甕槌命は常陸の鹿島から、第二殿の経津主命は下総の香取から、第三殿の天児屋根命と第四殿の比売神は河内の枚岡から迎えられました。中臣氏・藤原氏にゆかりの深い神々です。
奈良の鹿が大切にされてきた理由も、ここにあります。武甕槌命が白い鹿に乗って御蓋山へ来たという伝承から、鹿は神の使いとされました。観光地の風景として見られがちですが、もとは信仰の対象です。
春日祭は、賀茂の葵祭、石清水祭と並ぶ三勅祭の一つに数えられました。藤原氏が朝廷の中枢を占めるにつれて、この社の格も上がっていきます。
藤原氏の氏神を祀るこの社が、大和という国そのものを動かすことになった流れは大和の戦国時代とはでたどっています。

朱塗りの柱が続く回廊。柱のあいだから、外に並ぶ石灯籠が見えます。
興福寺と一体だった ── 大和を動かした仕組み
春日社と興福寺は、別々の組織ではありませんでした。藤原冬嗣が興福寺に南円堂を建てたとき、その本尊の不空羂索観音は春日社第一殿の祭神の本地仏とされます。神と仏が同じものの別の姿である、という考え方です。
以後、両者は一体のものとして動きました。春日大明神は法相宗を守る神とされ、天暦年間には神前での読経も始まります。大和に守護が置かれなかったのは、この一体になった権門が事実上の支配者だったからです。
その手足になったのが衆徒と国民でした。寺に属して武装した者が衆徒、春日社に属した在地の武士が国民です。筒井氏はもともと興福寺の衆徒であり、越智や十市は国民の流れを汲みます。つまり大和の武士は、寺社の組織のなかから育ちました。戦国大名が生まれにくかった理由も、ここにあります。
神木を担いで、都へ
十一世紀の末から、興福寺の僧たちは訴えを通すために都へ押しかけるようになります。このとき担いだのが、春日社の神霊を移した榊の木でした。神木動座といいます。
神木が都に入ると、朝廷も貴族も手を出せません。触れれば神罰を受けるとされたからです。武力ではなく、信仰そのものを武器にして要求を通す。比叡山の僧が日吉社の神輿を担いだのと同じ構図です。
この記憶があるからこそ、秀長が大和で寺社と向き合ったときの難しさが分かります。相手は軍勢であると同時に、神仏でもありました。松永久秀が東大寺を焼いても大和を治めきれなかったのは、焼いても消えないものがあったからです。秀長が選んだのは、焼くのではなく武器と寺領を取り上げるやり方でした。
二十年に一度、建て替える
春日大社は創建以来、およそ二十年に一度、式年造替をくり返してきました。伊勢神宮のように社地を移すのではなく、本殿の位置はそのままに建て替えや修復を行います。近年行われたのが第六十次でした。
六十回。単純に掛ければ千二百年です。建物そのものは新しくても、形と技術が千二百年受け継がれている。石垣や天守の古さとは別の種類の「古さ」が、ここにはあります。
燈籠も見どころです。石燈籠がおよそ二千基、釣燈籠がおよそ千基。貴族だけでなく武家や町人が寄進を重ねた結果です。節分と中元の万燈籠では、そのすべてに火が入ります。
同じ大和で、秀長の代に社そのものを動かされた例としては談山神社(多武峰)があります。
春日造 ── 社殿が四棟ならぶ形
本殿は四棟が横にならんでいます。一棟に一柱ずつ神を祀る形で、この造りを春日造といいます。屋根は切妻で、正面に向拝(こうはい)と呼ばれるひさしが伸び、朱塗りの柱に白壁。規模は大きくありませんが、四つならぶと壮観です。
この形は各地の春日神社へ広まりました。神社建築の様式としては、出雲大社の大社造、伊勢神宮の神明造とならぶ古い型です。東大寺の大仏殿が大陸の様式を取り入れた建物であるのに対し、こちらは在来の形を守っています。
二十年に一度の式年造替で建て替えられるため、古い建物として残っているわけではありません。それでも形は変わらない。談山神社の十三重塔が何度も建て替えられながら形を保っているのと同じ考え方です。
灯籠は三千基ある
参道と回廊を埋めつくす灯籠は、石灯籠がおよそ二千基、釣灯籠がおよそ千基。合わせて三千基にのぼります。すべて寄進されたもので、武将や商人、庶民の名が刻まれています。
寄進するということは、この社と自分をつなぐということです。興福寺と一体で大和を動かしていた社に名を刻めば、それは大和での立場の表明にもなりました。八坂神社に武将が社領を寄進したのと同じ構図です。
年に二度、節分と中元に、この灯籠すべてに火が入ります。万燈籠と呼ばれる行事で、参道が火の列になります。
よくある疑問
神の使いの鹿が町なかを歩いているという奈良の風景は、この社が千年以上この場所にあり続けた結果です。
拝観料と駐車場
境内を歩くだけなら無料です。参道と回廊まわりは自由に参拝できます。御本殿を間近で見る特別参拝と、国宝殿の拝観はそれぞれ有料です。国宝殿には国宝だけで三百五十点を超える品が収められ、平安の正倉院とも呼ばれます。
開門は早く、朝の参道は人が少なくて気持ちのよい時間です。閉門は季節によって変わるので、夕方に行くなら先に確かめてください。
駐車場は境内の近くにありますが台数が限られ、奈良公園一帯は休日に大変混みます。近鉄奈良駅から歩いて二十五分ほど、バスなら「春日大社本殿」行きで十分ほどです。公共交通のほうが確実です。
所要時間は、本殿まわりを参拝して四十分ほど。国宝殿まで見るなら一時間半。若宮十五社めぐりや多武峰方面まで足をのばすなら、一日仕事になります。
見学順 ── 一之鳥居から、燈籠の参道を登る
できれば一之鳥居から歩いてください。参道が長いのには意味があります。両側に燈籠が延々と並び、奥へ進むほど木立が深くなる。この距離そのものが、社へ近づく仕掛けです。
二之鳥居を過ぎ、手水舎の伏鹿を見て南門へ。ここから先が本殿の区域です。回廊に吊られた釣燈籠の数に圧倒されます。寄進者の名が刻まれているので、いくつか読んでみてください。武家の名も町人の名も混じっています。
特別参拝で中門の内側へ入ると、四つの本殿が並んでいるのが見えます。同じ形の社殿が四つ。鹿島、香取、枚岡から迎えられた神々がここに並んでいると思うと、この社が藤原氏の何であったかが実感できます。
帰りは若宮のほうへ回るのがおすすめです。おん祭の舞台となる場所で、本社の華やかさとは違う静けさがあります。そのまま歩けば興福寺まで二十分ほど。神社と寺が地続きであることが、歩くといちばんよく分かります。
興福寺の別当とは:大和を治めた寺のトップと、秀長が変えた年貢の集め方
争点は金額ではなく、年貢を誰がいったん集めるかでした。
この神木を担いで都へ上る動きを実際に取りしきったのも、門跡に仕える坊官でした。坊官とは:僧でありながら妻帯し、家を継いだ人びともどうぞ。

