多聞院日記とは:興福寺の僧・英俊が書き残した戦国と、秀長の大和

興福寺の僧坊で日記を書く老僧と猫のイメージ(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

『多聞院日記』は、奈良の興福寺の塔頭・多聞院の僧たちが、戦国時代から安土桃山時代にかけておよそ百年以上にわたって書き継いだ日記です。中心となった書き手は英俊という僧で、六十年以上も筆をとり続けました。松永久秀と筒井順慶の争い、本能寺の変の知らせ、豊臣秀長の大和入り、吉川平介の処刑、そして秀長の死まで、大和から見た戦国の出来事と噂が生々しく記され、この時代を知るための基礎史料として今も読まれています。

この記事のポイント
  • 興福寺多聞院の僧が書き継いだ日記。中心の書き手・英俊は六十年以上書き続けた
  • 松永久秀と筒井順慶の争い、本能寺の変など、大和から見た戦国が記される
  • 秀長の大和支配、吉川平介の処刑、秀長の死と莫大な蓄えも書き留められた
  • 噂や夢まで書かれた日記だからこそ、当時の人の本音が伝わる
目次

多聞院日記とは|奈良の僧が書き継いだ戦国の記録

多聞院は、奈良の興福寺にあった塔頭(子院)のひとつです。ここに住んだ僧たちが代々書き継いだのが『多聞院日記』で、室町時代の後半から豊臣秀吉の晩年まで、百年以上の出来事が記されています。興福寺は大和一国を支配するほどの力を持った大寺院で、衆徒と呼ばれる武装した僧や、国民と呼ばれる在地の武士を従えていました。その寺の内側から見た大和の政治と戦いが、日々の記録として残されたのです。興福寺と衆徒の力については衆徒とは何者かで詳しく書いています。

書き手・英俊|猫に戒名をつけた僧

日記の中心となった書き手は、多聞院の英俊(えいしゅん)です。永正十五年(1518年)に生まれ、大和の有力な一族である十市氏の出身とされます。英俊は若いころから文禄五年(1596年)に亡くなる直前まで、六十年以上にわたって日記をつけ続けました。英俊の日記には、政治や戦の話だけでなく、自分が見た夢の記録や、身のまわりの出来事も丹念に書かれています。かわいがっていた猫が死んだときには「妙雲禅尼」という戒名をつけて弔っており、これは記録に残る日本で最も古い猫の戒名ともいわれます。戦国の世を生きた一人の僧の素顔が、日記からそのまま伝わってきます。寺が武力と財力を持っていた戦国時代には、紀伊の根来衆のように鉄砲で武装した寺の勢力もありました。

松永久秀と筒井順慶|大和の戦国を内側から見る

英俊が生きた時代の大和は、松永久秀と筒井順慶が激しく争った土地でした。三好家の重臣として大和に入った久秀は、多聞山城や信貴山城を拠点に大和を押さえ、興福寺と結びついた筒井氏と長く戦います。やがて久秀は信長に背いて信貴山城で滅び、順慶が信長のもとで大和の支配者となりました。英俊はこうした戦いを、寺の目の前で起きる出来事として書き留めています。大和の戦国と、なぜ大和に大きな戦国大名が育たなかったのかは衆徒とは何者か、松永久秀の時代の大和は天正十九年に何が起きたのかでも触れています。

本能寺の変の知らせ|奈良に届いた京の異変

天正十年(1582年)六月、京で本能寺の変が起きると、その知らせはすぐに奈良にも届きました。日記には、京で起きた異変の噂や、明智光秀の動き、筒井順慶がどちらにつくのか揺れ動いた様子などが書き留められています。順慶は結局、光秀には味方しませんでした。遠く離れた場所ではなく、京のすぐ隣で事件の続報を待っていた人の記録だからこそ、当時の緊張がよく伝わります。本能寺の変については本能寺の変:なぜ明智光秀は天下を取れなかったのかをご覧ください。

秀長がやって来た|新しい支配者を見る目

天正十三年(1585年)、筒井氏は伊賀へ移され、代わって秀吉の弟・秀長が大和郡山に入りました。興福寺にとって、秀長は寺の特権や領地に手を入れてくる新しい支配者です。英俊の日記には、秀長の検地や寺社への命令、城下の様子などが記され、寺の側から見た秀長の姿が浮かび上がります。秀長がなぜ大和を任されたのかはなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのか、秀長を支えた家臣たちは豊臣秀長の家臣団とはで書いています。

吉川平介の処刑|「女・子供ハ不苦」

天正十六年(1588年)十二月、秀長の家臣で熊野の山奉行だった吉川平介が、材木の代金を着服したとして大和の西大寺で処刑されました。この事件を記録したのも『多聞院日記』です。日記は、平介が処刑されたこと、首が京に晒されたことに加えて、妻や子は「不苦(くるしからず)」、つまり罪に問わないとされたことまで書き留めています。主君の秀長が秀吉への正月の拝謁を許されなかったことも含め、平介の一件の多くは、この日記がなければわからなかった話です。詳しくは吉川平介とはをご覧ください。

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秀長の死|山のような金銀と、先行きへの不安

天正十九年(1591年)正月、秀長は大和郡山城で亡くなりました。英俊は日記に秀長の死を記し、秀長が城に残した金銀の蓄えがおびただしい量だったことを書き留めています。寺から見れば、厳しく年貢を取り立てた支配者の懐の深さに驚いたのでしょう。一方で、これから大和はどうなってしまうのかという不安もにじませています。その不安は的中し、跡を継いだ秀保も若くして亡くなって、秀長の家は絶えてしまいました。秀長の死のあと豊臣家に何が起きたのかは天正十九年に何が起きたのかで書いています。

▽ よく語られる話
日記に書かれていることは、その場にいた人の記録だからすべて事実だ。
▼ 史実ではこうです
『多聞院日記』は同時代の貴重な記録ですが、英俊が直接見聞きしたことだけでなく、奈良に伝わってきた噂もたくさん書かれています。人の生死や戦の結果が、あとで違っていたとわかる例もあります。何が起きたかだけでなく、当時の人が何を信じ、何を恐れていたかを知る史料として読むのがよいでしょう。

まとめ|寺の日記が伝える、もうひとつの戦国

『多聞院日記』は、天下人や大名の側ではなく、支配される寺の側から戦国を見た記録です。松永久秀、筒井順慶、そして豊臣秀長と、支配者が入れ替わるたびに、寺の僧たちは何を心配し、どう受け止めたのか。その答えが、六十年以上書き続けられた一人の僧の日記に残っています。秀長その人については豊臣秀長とはをどうぞ。

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