※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第37回「秀長の国」では、大和に入った秀長が検地で年貢を改めようとします。その検地の現場を任された家臣として名前が挙がるのが、小堀正次(こぼり・まさつぐ)です。秀長と同い年で、茶人・作庭家として名高い小堀遠州の父でもあります。
この記事では、小堀正次が秀長のもとでどんな仕事をしたのか、そして秀長の死後にどう生き抜いたのかをたどります。
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小堀正次は第37回に登場するのか
第37回のあらすじでは、秀長が「新たな家臣」を加えて大和郡山城に入り、検地で年貢を適正に改めようとします。家臣の名前は放送前の時点では明らかにされていませんが、検地を担当した実務の家臣として、小堀正次は登場してもおかしくない人物です。
放送で登場したら、この記事に追記します。第37回の見どころ全体は第37回「秀長の国」あらすじ予想と史実にまとめています。
小堀正次とは:浅井家臣の子から秀長の家臣へ

小堀正次(イメージ)
小堀正次は近江国の出身で、天文九年(1540)の生まれとされます。これは秀長と同じ年です。父の正房は北近江の戦国大名・浅井家の家臣で、母も浅井一族の娘だったと伝わります。
浅井家が織田信長に滅ぼされたあと、北近江は秀吉の領地となりました。正次は、この地で秀吉・秀長の兄弟に仕えるようになったと考えられます。秀長の家臣団には、正次のように旧浅井家ゆかりの近江の武士が少なくありませんでした。
近江から秀長に従った家臣のひとりです。同じ近江出身の羽田正親とは同僚にあたります。
検地の専門家として
正次の名が史料に多く現れるのは、検地の奉行としてです。天正十一年(1583)ごろから播磨で検地にあたり、その後も但馬、紀伊、和泉と、秀長の領地が広がるたびに検地奉行として派遣されています。天正十三年(1585)には紀伊の検地にもあたりました。
そして大和です。秀長が大和に入ると、まず寺社に土地と取れ高を書き出させる指出が行われました。そのうえで天正十四年から十五年(1586〜87)ごろにかけて、正次は大和で田を実際に測る検地にあたったとされます。台帳の数字ではなく、実際の広さで年貢を決め直す作業です。村の庄屋が「田の広さに見合わない年貢」を寺に納めていたという第37回の設定は、まさにこの検地で問題になる部分です。
石川清兵衛とは:伊藤健太郎が演じる大和郡山の庄屋は実在? 村はなぜ寺に年貢を納めたのか
検地を受ける村の側から見た、寺と年貢の関係です。
正次は、横浜一庵とともに郡山の城下町づくりにもかかわったとされます。秀長の検地そのものの背景は太閤検地と刀狩とはで書いています。
秀長の死後:秀吉、そして家康へ
天正十九年(1591)に秀長が亡くなると、正次は跡を継いだ秀保に仕えました。文禄四年(1595)に秀保が急死すると、秀吉の直臣となり加増を受けています。同じ年、大和では増田長盛のもとで改めて検地が行われ、正次もその奉行をつとめたとされます。この文禄の検地で、興福寺と春日社の知行はあわせて二万一千石あまりと定められました。
秀吉の死後、正次は徳川家康に近づき、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍につきました。戦後、備中松山(いまの岡山県高梁市)の城を預かります。慶長九年(1604)、正次は相模の藤沢で急死しました。六十五歳だったとされます。
仕える家が消えたあと、羽田正親は関白秀次のもとへ移って秀次事件に連座しました。正次が徳川方で生き延びたのとは対照的です。
子・小堀遠州へ受け継がれたもの
正次の跡を継いだのが、子の政一、のちの小堀遠州です。遠州は江戸幕府の作事奉行として城や御所の造営にかかわり、茶人・作庭家としても名を残しました。父が秀長のもとで身につけた、土地を測り、工事を取り仕切る実務の力は、子の代で城と庭の技として花開いたといえるかもしれません。
検地を受ける村の側がどう動いたかは惣村とは:戦国の村がつくった自治と、乙名・村掟・自検断・地下請の仕組みで解説しています。
正次のあと、子の政一(遠州)が手を入れたのが備中松山城:天守が残る唯一の山城と、標高430メートルの日本三大山城です。
正次のあと ─ 備中で城を直した息子
正次は関ヶ原のあと備中代官となり、慶長九年(一六〇四)に世を去ります。その仕事をそのまま引き継いだのが子の政一、のちの小堀遠州です。
政一は慶長十一年(一六〇六)ごろから備中松山城の修築にあたりました。標高四百三十メートルの山上にある城で、いまも現存天守が建っています。父が秀長のもとで大和の田を測り、子が徳川の備中で山城の石垣を積み直す。二十年ほどで、同じ家の仕事の場所がこれだけ動きました。
遠州は茶と庭で知られますが、本業はこの普請です。わび茶の流れに名を残す人物が、日々やっていたのは石の勘定と人の手配でした。父の仕事を見て育ったからこその適性だったのでしょう。
検地奉行という役目
田を測るというのは、その土地で誰がいくら取れるのかを数字にすることです。数字が決まれば年貢が決まり、年貢が決まれば村の暮らしが決まります。
だから検地は、刀を抜くより深く人の生活に入り込みます。無理な年貢を課されて苗を詰めて植えていた村にとっては、測り直されることが救いにも脅威にもなりました。
大和では年貢が寺へ直接集まる仕組みになっていましたから、測り直しは寺の取り分に直接触ります。正次が寺側からの妨害に遭うのは、この仕事の性質上、避けようのないことでした。
正次が亡くなったあと、子の遠州が家をどう守り、子孫がなぜ改易されたのかは小堀家はどう生き残ったのか:秀長の死から関ヶ原、徳川の作事奉行・小堀遠州、そして天明の改易まででくわしく紹介しています。
まとめ
小堀正次は、秀長と同い年の近江の武士で、秀長の領地が広がるたびに検地奉行として働いた実務家でした。大和でも田を実際に測る検地にあたり、寺社の台帳に頼っていた年貢の仕組みを改める現場にいました。秀長の家が絶えたあとも秀吉・家康に仕えて生き抜き、その技は子の小堀遠州へと受け継がれます。
秀長の家臣たちについては豊臣秀長の家臣団とはで、同じく秀長の大和を支えた横浜一庵については横浜一庵とはで書いています。
なぜ村は苗を詰めて植えたのか:戦国の田んぼと年貢の重さ、肥料が足りない土地の話
詰めるのは欲ではなく、余裕のなさの表れでした。
