第三十七回で、蜂須賀小六は阿波一国を断り、子の家政に譲りました。そしてそのおよそ九か月後、この世を去ります。なぜ自分で受けなかったのか。病を知っていたのか。答えは史料に一行だけ残っています。「すでに齢六十にして隠居の身」。断った理由も、その後の死も、この一行から読み解けます。あわせて、この人が積み上げてきた武功も並べておきます。
- 正勝の武功は槍働きより「調略」に集中しています。城を落とす前に、城を降ろす仕事です
- 墨俣、三木、鳥取、備中高松、賤ヶ岳、紀州、四国。節目ごとに名が出てきます
- 阿波一国を断った理由は「もう六十で隠居の身、大坂で秀吉のそばにいたい」というものでした
- 亡くなったのは天正十四年五月二十二日、大坂の邸宅。享年六十一です
- この年に病で臥せ、京都で養生して一度は回復したという記録が残ります
武功をたどる ── 落とす前に、降ろす
正勝の働きを年代順に並べると、ひとつの型が見えてきます。
永禄九年(1566年)、墨俣。築城に協力し、斎藤方への調略にあたりました。この功で五十余村と五百貫を得ています。一夜城の伝説で語られる場面ですが、実際の手柄は、敵方の村や土豪を切り崩す交渉のほうにありました。
天正七〜八年、三木城攻め。大村の合戦で小早川勢を退け、長水城では城主を討ち取ります。この功で播磨龍野に五万三千石。武功らしい武功はこのあたりです。
天正九年、鳥取城攻め。包囲戦に加わりつつ、吉岡・大崎・鹿野の三城を降伏に誘うことを進言し、成功させました。
天正十年、備中高松城。水攻めの現場で、清水宗治への使者を務めています。本能寺の変が起きると、秀吉の情報管理を支え、中国大返しを助けました。山崎でも戦功を挙げています。
天正十一年、賤ヶ岳のあと。尾山城の城兵を説得して降伏させ、滝川一益の投降を受け入れました。戦が終わったあとの後始末こそ、この人の本領です。
天正十二年、大坂城の普請。杉原家次が没して、秀吉の家臣団で筆頭の位置に立ちます。
天正十三年、紀州と四国。太田城では太田左近の降伏を仲介し、四国攻めでは目付として出陣、木津城で東条関之兵衛を降しました。
野盗の頭領だったのか
この見方に立つと、墨俣への築城で小六が果たした役割の意味が変わります。木材を川で流し、人足を集め、現地を押さえる。どれも川を握っている者にしかできない仕事です。大坂城の築城で石と材木を集めたときの動きも、この延長にあります。
秀吉が若い時分から小六を頼りにしたのは、腕っぷしではなく段取りの力を見ていたからでしょう。
蜂須賀家のその後 ── 徳島藩として幕末まで
- 家政 … 小六が辞退した阿波を受け、徳島城を築いて城下を整えました
- 至鎮(よししげ) … 関ヶ原で東軍につき、大坂の陣の功で淡路を加えられます
- 徳島藩 … 阿波と淡路をあわせて二十五万石余。外様の大藩として幕末まで続きました
- 藍 … 阿波の藍が藩財政を支え、江戸の需要を押さえます。米以外の収入源を持ったことが大きい
天正十三年の分配で小六が受け取っていたら、家の格はもっと上から始まったかもしれません。ただ、息子に継がせた形にしたことで、家政は最初から自分の国として阿波に向き合うことになりました。
大和大納言家が一代で絶えたのと比べると、この選択の重みが見えてきます。誰に、いつ渡すか。そこで家の寿命が決まりました。
なぜ阿波を断ったのか
四国攻めのあと、秀吉は前田玄以を遣わして、阿波一国を与える意向を伝えました。正勝はこれを辞退します。
阿波一国を断った男と、大和を出された筒井|秀吉の論功行賞の本当の狙い
理由として伝わるのは、すでに六十歳で隠居の身であること、そして大坂にいて秀吉の側近として仕えたいということでした。所領は子の家政に与えてほしいと願い出て、阿波十七万三千石は家政が受けています。
ここで多くの人が疑うのは、病を知っていたのではないか、ということです。この点は正直に書いておきます。正勝が病に臥せったという記録が現れるのは、辞退した翌年の天正十四年になってからです。辞退の時点で自分の死期を悟っていたと示す史料は見当たりません。
もっとも、六十という年齢は当時としては十分に老境です。国持大名になって阿波へ下れば、城と城下をつくり、国衆をまとめ直す仕事が待っています。それを一から背負うには遅すぎる。そう考えたとすれば、病の予感というより、体力と残り時間の計算だったことになります。
もうひとつ見落とせないのが、家の継承です。生前に子へ国を渡せば、代替わりの揉め事が起きません。実際、蜂須賀家は家政の代で阿波に根を下ろし、幕末まで徳島を治めました。徳島城を築いたのは家政です。辞退は、家を確実に残すための一手でもありました。
その死 ── 天正十四年五月二十二日
天正十四年(1586年)になると、正勝は病に臥せるようになります。京都で養生し、一度は回復して大坂へ戻りました。しかしその年の五月二十二日、大坂の楼岸にあった邸宅で亡くなります。享年六十一。
死因を明記した記録は見当たりません。病であったことは確かですが、何の病かまでは伝わっていません。年齢と経過から、老いにともなう病と考えるのが自然でしょう。
阿波を辞退してから、およそ九か月。秀吉のそばで働くことを選んだその時間は、思っていたよりずっと短いものでした。
小六が阿波を辞退したこの年、ほかの武将に何が与えられたのかは天正十三年の論功行賞で一覧にしています。
秀吉にとって、何を失ったのか
正勝が亡くなったのは、秀長が大和に入ったのと同じ時期です。豊臣政権が形を整えはじめた、まさにその年でした。
失われたのは、一人の老将ではありません。敵を降ろす仕事をする人間です。このあと秀吉は九州へ、小田原へ、そして朝鮮へと兵を出しますが、そこで前面に出るのは力攻めでした。海を渡った戦いで最も欠けていたのが、相手を降ろす交渉の回路だったことを思うと、この年の死は小さくありません。
もっとも、それは結果から見た話です。宴の席にいた人たちにとっては、長年の同僚が隠居を願い出て、子に国を譲ったというだけのことでした。
まとめ
蜂須賀小六の武功は、城を落とした数ではなく、降ろした城の数で測るべきものでした。阿波を断ったのは、病を悟ったからというより、六十という年齢と、家を確実に残すための判断だったと見るのが素直です。
そして辞退から九か月後、病で世を去ります。野盗の親分という嘘のほうは有名になりましたが、こちらの静かな最期を知る人は多くありません。

