浅井三姉妹のその後:茶々・初・江はなぜ敵味方に分かれたのか

北ノ庄城/アクセス・場所・地図 羽柴秀吉に攻められ城と最後を共にした柴田勝家・お市の方の北ノ庄城
この記事のポイント

  • 茶々・初・江は二度の落城を生き延びた姉妹。小谷城と北ノ庄城
  • 三人は豊臣・京極・徳川という、まったく違う家へ嫁いだ
  • 大坂の陣では姉と妹が敵味方に分かれ、次女の初が両者の間を取り持った
  • 豊臣の血も徳川の血も、この三姉妹から続いている

📺 NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第33回「北庄城の別れ」は2026年8月30日(日)放送。賤ヶ岳に敗れた柴田勝家が越前へ退き、お市の方とともに最期を迎える回です。

▽ よく語られる話
三姉妹は数奇な運命に翻弄された悲劇の姉妹である。
▼ 史実ではこうです
翻弄された面はありますが、三人とも自分の家で重い役割を果たしています。茶々は豊臣の後継を産み、江は徳川三代将軍の母となり、初は大坂の陣で両家の交渉の窓口になりました。受け身の被害者ではなく、それぞれが政治の当事者でした。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第33回「北庄城の別れ」で、三姉妹は北ノ庄城を出る。この三人が、そのあとどうなったか。結論から言えば、日本史でこれほど極端に分かれた姉妹はそういない。

北の庄城址に立つ三姉妹の像。茶々・初・江。ここを出たあと、三人の道は大きく分かれた

茶々が父のために建てた京都の養源院については、養源院とは ─ 茶々が父・浅井長政のために建てた寺で紹介しています。

目次

二度、城が落ちている

まず前提を押さえたい。この三人は、子どものうちに二度の落城を経験している。一度目は天正元年(1573)、小谷城。父・浅井長政が自害し、母・お市とともに城を出た。二度目は天正十一年(1583)、北ノ庄城。継父・柴田勝家と母・お市が自害し、三人だけが城を出た。

このとき茶々はおよそ十五歳、初は十四歳前後、江は十歳ほど。父を二人、母を一人、城を二つ失っている。

長女・茶々 ― 豊臣へ

茶々はのちに豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産む。淀殿と呼ばれた。父を滅ぼしたのは伯父の信長だが、母を死なせた側にいたのは秀吉である。その相手のもとへ入った。秀吉の死後は秀頼の後見として大坂城に君臨し、大坂の陣では徳川と戦って、秀頼とともに自害する。慶長二十年(1615)のことだ。

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茶々(淀殿)はなぜ仇・豊臣秀吉の側室になったのか

年の差およそ32歳。なぜ茶々はそれを受け入れたのか。

次女・初 ― 京極へ

三人のなかでいちばん知られていないが、いちばん難しい立場に立ったのが初だと思う。初は京極高次に嫁いだ。京極家は近江源氏の名門で、浅井家のかつての主筋にあたる家である。のちに大津城主となり、関ヶ原では東軍について籠城戦を戦った。

やがて京極家は小浜城へ移る。初は夫の死後、出家して常高院と名乗った。そして大坂の陣。姉・茶々は大坂城にいる。妹・江は徳川将軍の妻である。そのあいだに立って、和議の使者を務めたのが初だった。

姉と妹が戦う。その交渉役を、真ん中の姉妹がやる。これほど過酷な役回りもない。冬の陣の和議は成立したが、翌年の夏の陣で豊臣家は滅びる。

三女・江 ― 徳川へ

江は三度嫁いでいる。最後の相手が徳川秀忠―二代将軍である。そして三代将軍・徳川家光の母となった。崇源院と呼ばれる。豊臣を滅ぼした家の、将軍の母。姉が大坂城で死んだとき、江は江戸城にいた。

なぜ、ここまで分かれたのか

三人がばらばらの家へ行ったのは、偶然ではない。この姉妹には、織田信長の血が流れている。母・お市は信長の妹である。系図を持たない秀吉にとっても、天下を固めたい徳川にとっても、織田の血は喉から手が出るほど欲しいものだった。

だから三人は、それぞれ違う勢力に配られた。血統が価値を持つ時代に、価値のある血を持って生まれたということである。そして結果として、豊臣の血も徳川の血も、この姉妹から続いた。茶々の子が豊臣を継ぎ、江の子が徳川を継いだ。

浅井長政とお市の娘たちが、天下を二分した両家の母になっている。戦国のどんな合戦より、この事実のほうが劇的かもしれない。

大河ドラマで描かれない話

徳川家光の血をたどると、こうなる。母は江。江の母はお市。お市の兄は織田信長。江の父は浅井長政。三代将軍の体には、信長と浅井長政の血が流れている。信長に滅ぼされた家と、滅ぼした家の血が、徳川の将軍で合流したことになる。

そして現在の皇室にも、江の血筋は伝わっているとされる。北ノ庄城を出た三人の娘は、そこまで届いた。

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よくある疑問

Q. 三姉妹の生年は?
A. 茶々が永禄十二年(1569)ごろ、初がその翌年ごろ、江が天正元年(1573)ごろとされます。いずれも諸説あります。

Q. 初はなぜ子を産まなかったのですか?
A. 実子は確認されていません。京極家は側室の子が継いでいます。初はその子を養育したと伝わります。

Q. 大坂の陣で初はどちらの味方だったのですか?
A. 立場としては徳川方(京極家は東軍)ですが、姉のいる豊臣方との和議交渉にあたりました。どちらかの味方というより、両者の間に立った人です。

ゆかりの地をめぐる

  • 小谷城(滋賀県長浜市)… 三姉妹が生まれ、一度目の落城を経験した城
  • 北ノ庄城(福井県福井市)… 二度目の落城。ここで母と別れた
  • 柴田神社(北の庄城址)… 三姉妹の像が建つ
  • 大津城(滋賀県大津市)… 次女・初が嫁いだ京極高次の城
  • 小浜城(福井県小浜市)… 京極家がのちに移った城
  • 大阪城(大阪府大阪市)… 長女・茶々が最期を迎えた城

イラストで見る武将・姫たち

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まとめ

北ノ庄城を出たとき、三人はまだ子どもだった。そこから茶々は豊臣へ、初は京極へ、江は徳川へ。姉と妹が戦い、真ん中の姉妹がそのあいだを取り持った。二度の落城を生き延びた姉妹が、天下を二分した両家の母になった。母・お市が最後に城から出したのは、そういう三人だった。

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