石川清兵衛のような大和の村人が仏罰を恐れたのは、洗脳されていたからではありません。興福寺は大和の荘園領主であると同時に、罪人を裁く役所であり、武装した衆徒を抱える軍事力であり、春日の神と仏の権威の持ち主でもありました。罰は心の中の脅しにとどまらず、寺の呪い、裁き、武力による制裁として本当に下ったのです。恐れには、はっきりした裏付けがありました。
- 石川清兵衛はドラマの人物。モデルとなる実在の人物は確認されていない
- 興福寺は大和で年貢を取るだけでなく、裁判と警察の権限(検断権)も握っていた
- 寺は衆徒という武士を抱え、春日の神木を担いで朝廷にまで要求を通した
- 年貢を納めない者には、名前を堂に納めて災いを祈る「名を籠める」呪いがかけられた
- 村の約束も神仏に誓う起請文で結ばれ、破れば神罰・仏罰を受けると書かれた
興福寺は大和の「国の主」だった
大和には鎌倉時代から武家の守護がほとんど置かれず、興福寺が事実上の国の主として振る舞ってきました。興福寺は国じゅうに荘園を持ち、年貢を集めるだけでなく、罪人を捕らえて裁く「検断」の権限まで握っていました。いまでいえば、地主と税務署と警察と裁判所が一つになったような存在です。
その頂点に立つのが別当で、寺の運営と荘園の差配は坊官と呼ばれる役人たちが担いました(興福寺の別当とは・坊官とは)。ドラマの磐覚は、この坊官として描かれています(磐覚とは)。
寺には武士がいた ── 衆徒と国民
興福寺には「衆徒」と呼ばれる武装した僧が属し、春日社には「国民」と呼ばれる武士たちが仕えていました。筒井氏も越智氏も、もとはこの衆徒や国民です。寺の命令に背けば、こうした武士たちが村に押し寄せることもありえました。
衆徒がどんな人びとだったのかは衆徒とは何者かで詳しく書いています。仏罰の背後には、いつでも動かせる武力があったのです。
朝廷さえ動かした「神木動座」
興福寺と春日社は一体の存在でした。寺は要求を通すとき、春日の神が宿るとされる榊(神木)を担いで京へ上り、朝廷に訴えました。これを神木動座といいます。神木が京にとどまるあいだ、春日を氏神とする藤原氏の公家たちは出仕を控えなければならず、政務が止まりました。逆らう公家を藤原氏から外す「放氏」という罰もありました。
都の貴族でさえ従わせた神の力を、大和の村人が軽く見られるはずがありません。春日社と興福寺の関係は春日大社で紹介しています。
名を籠める ── 寺がかけた呪い
興福寺には「名を籠める」という制裁がありました。罪状と名前と日付を紙に書いて包み、寺の堂に納めて、その者に災いが降りかかるよう僧たちが祈るのです。歴史家の清水克行さんが『室町は今日もハードボイルド』で紹介し、知られるようになりました。
文明十八年(1486)には、荘園の年貢を横領した箸尾為国が名を籠められています。翌月、箸尾の支配地では悪い病がはやり、百三十人が亡くなったと記録されました。本人は無事でしたが、寺の側はこれを呪いの効き目として書き留めています。名前を取り出してもらうには、謝罪して横領した分を弁償しなければなりませんでした。
年貢を納めない者には、本当に呪いがかけられ、その後に起きた不幸は罰として語られる。村人が罰を恐れたのは、こうした出来事を目の前で見聞きしていたからです。寺の記録が大和のようすをどう伝えているかは多聞院日記とはでも紹介しています。
村の約束も神仏に誓った ── 起請文
中世の人びとは、大事な約束を「起請文」という誓いの文書で結びました。末尾には「もしこれに背いたら、梵天・帝釈天や春日大明神などの神罰・仏罰をこうむる」といった罰文が書かれます。村どうしの取り決めも、村の掟も、こうした誓いで縛られていました。
村が自分たちで決まりをつくり、ときには罪人を裁いた仕組みは惣村とはで書いています。神仏の罰は、村の暮らしそのものを支える約束の重しでもあったのです。
年貢は神仏への供え物だった
寺社に寄せられた土地とその実りは「仏物」「神物」とされ、人が取り戻してはならないものと考えられていました。寺社領の年貢は、ただの税ではなく供え物に近いものです。年貢を減らしてほしいと願うことは、仏から物を奪う行いに見えました。この考え方は石川清兵衛とはでも取り上げています。
だから庄屋は罰を恐れた
庄屋は村を代表して年貢を納める立場です。村が年貢を出し渋れば、名を籠められ、検断で裁かれ、衆徒が押し寄せるかもしれない。疫病や不作が起きれば、それは罰だと語られる。庄屋の判断ひとつで、村全体が罰を受けることになります。田の広さに見合わない年貢でも払い続けるほうが、村にとっては安全に見えたのでしょう。
秀長の入国でこの仕組みがどう崩れていったのかは、石川清兵衛のその後と大和はなぜ貧しい国だったのかで続きを書いています。
秀長は罰を恐れなかったのか
秀長は寺社の武具を取り上げ、寺領を削り、寺の石まで郡山城の石垣に使いました。多武峰を郡山へ移させたあと、秀長の病はそのたたりだという噂も立っています(秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか)。石仏や五輪塔が石垣に積まれた理由は転用石とはで書きました。同じように寺の石を城に使い、大仏殿炎上の十年後の同じ日に死んだ松永久秀が「罰」としてどう語られたかは松永久秀は仏罰を恐れなかったのかで取り上げています。
よくある質問
Q. 石川清兵衛は実在の人物ですか。
A. モデルとなる実在の人物は確認されていません。ただ、寺社領の村で年貢を差配した庄屋や村の有力者は各地にいました(石川清兵衛とは)。
Q. 名を籠められた人は必ず死んだのですか。
A. いいえ。箸尾為国の例でも本人は無事でした。その後に起きた疫病や不幸を、寺の側が罰として結びつけて記録したのです。
Q. 興福寺はいつまで大和を支配したのですか。
A. 戦国時代には松永久秀や筒井順慶が力を伸ばしましたが、寺社の取り分の仕組みが大きく崩れたのは、天正十三年(1585)に秀長が入ってからです(大和の戦国時代とは)。
まとめ
大和の村人が仏罰を恐れたのは、迷信に縛られていたからではありません。興福寺は年貢を取り、罪を裁き、衆徒を動かし、春日の神木で朝廷さえ従わせる力を持っていました。年貢を納めない者には名を籠める呪いがかけられ、その後の不幸は罰として語られます。村の約束も神仏に誓って結ばれていました。庄屋が重い年貢を払い続けたのは、村を守るためのぎりぎりの判断でもあったのです。寺と村の関係は磐覚の地位や坊官とはからもたどれます。

