※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第37回「秀長の国」のあらすじには、大和郡山城に移った秀長のもとに「新たな家臣も加わり」とあります。誰が加わるのかはまだ発表されていませんが、大和の武将でいちばんの有名人といえば島左近でしょう。「三成に過ぎたるもの」と言われた、あの島左近です。
実は島左近には、石田三成に仕える前に、秀長やその跡継ぎの秀保に仕えたという説があります。本当なのでしょうか。この記事では、大和の国人だった島左近が、筒井家を離れて三成のもとへ行くまでの道のりを、確かな史料と後世の伝えを分けてたどります。
- 島左近の実名は「清興(きよおき)」。大和国平群郡(いまの奈良県平群町)を本拠とした国人で、筒井家に仕えた
- 秀長が大和に入った天正十三年(1585)、筒井家は伊賀へ移された。このとき左近はまだ筒井家の家臣だった
- 左近は天正十六年(1588)ごろ筒井家を離れた。その後、秀長・秀保に仕えたという説があるが、江戸時代の書物に見える話で、確かな史料では確かめられない
- 遅くとも天正十八年(1590)には石田三成に仕えていたことが、書状から確かめられる
島左近は第37回に登場するのか
第37回のあらすじでは、四国攻めの恩賞として大和一国を与えられた秀長が大和郡山城に拠点を移し、「新たな家臣も加わり」とされています。ただ、その家臣が誰なのかは、放送前の時点では明らかにされていません。
秀長の大和入りの時点では、島左近はまだ筒井家の家臣です。登場するとしても、秀長の家臣としてではなく、大和を去る筒井家の側の武将として描かれる可能性もあります。放送で登場したら、この記事に追記します。第37回の見どころ全体は第37回「秀長の国」あらすじ予想と史実にまとめています。
島左近とは:大和の国人・島清興

島左近の実名は、「勝猛(かつたけ)」の名で知られることもありますが、正しくは「清興」とされます。左近は通称です。大和国の平群郡、いまの奈良県平群町のあたりを本拠とした在地の武士で、椿井城などを拠点にしていたと伝わります。
確かな史料での初見は、天正五年(1577)に春日社へ寄進された灯籠です。そこに「嶋左近丞清興」と刻まれています。大和の武士が春日社に灯籠を納めるのは、興福寺・春日社が大和の支配者だったこの国らしい姿です。
筒井家の家臣として
左近が仕えたのは、大和の有力な国人から戦国大名へのし上がった筒井家です。興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、天正十一年(1583)ごろ、筒井家の武将として伊賀方面で戦う左近の姿が見えます。筒井順慶の葬儀の場面にも、左近の名が記されています。
順慶が天正十二年(1584)に亡くなると、養子の筒井定次が跡を継ぎました。そして翌天正十三年、秀長が大和の国主として入ってくると、定次は伊賀へ移されます。大和で何代も続いた筒井家は、秀長に国を明け渡すかたちで大和を離れたのです。
大和の戦国時代とは:守護のいない国に、木沢長政・松永久秀・原田直政・筒井順慶が入れ替わり、秀長の国になるまで
筒井家が大和の主になり、秀長に国を譲るまでの流れをまとめています。
なぜ左近は筒井家を離れたのか
左近は、天正十六年(1588)ごろ筒井家を離れたとされます。理由としてよく語られるのは、跡を継いだ定次の政治に不満をもったという話です。
もう少し具体的な理由として、島家の領地の農民と、同じ筒井家臣・中坊秀祐の領地の農民とのあいだで水をめぐる争いが起き、定次が中坊に有利な裁定をしたことが挙げられています。大和の村にとって、田に引く水は命綱です。領主として自分の村を守れなかったことが、左近にとって筒井家を去る決め手になったのかもしれません。
筒井家を離れた左近は、しばらく興福寺の塔頭に身を寄せていたといわれます。
秀長・秀保に仕えたという説
ここで出てくるのが、左近が秀長や、その跡継ぎの秀保に仕えたという説です。江戸時代の軍学者・山鹿素行の『武家事紀』には、左近が秀長、ついで秀保に仕えたという話が見えます。大和の武士だった左近が、大和の新しい国主に召し抱えられたとしても不自然ではありません。
ただし、これは左近の時代から八十年ほど後に書かれた書物の記述で、同時代の確かな史料では確かめられていません。蒲生氏郷に仕えたという説もあり、筒井家を離れてから三成に仕えるまでの数年間は、はっきりしないのが実情です。
秀長の家臣団には、大和の検地や実務を担った横浜一庵・小堀正次、高取城を預かった本多利久などがいました。秀長の家臣たちについては豊臣秀長の家臣団とはで書いています。
石田三成のもとへ:「三成に過ぎたるもの」は本当か

確かな史料で左近の次の居場所がわかるのは、天正十八年(1590)です。この年の書状から、左近がすでに石田三成の家臣として、東国の大名との交渉や年貢の取りまとめにあたっていたことがわかります。文禄元年(1592)には、左近の妻が三成の佐和山城にいたことが『多聞院日記』に書かれています。
有名なのが、三成が自分の知行の半分を与えて左近を迎えたという話や、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という言葉です。ただし、これらも江戸時代以降の書物に見える話で、同時代の記録にはありません。書状からうかがえる左近は、勇猛な武将であると同時に、交渉や年貢の実務をこなす有能な役人でもありました。
左近は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、三成の軍の先鋒として戦い、討死したとされます。ただ遺体が見つからなかったことから、生き延びたという伝えも各地に残っています。関ヶ原での三成については石田三成:なぜ嫌われ、なぜ敗れたのかで書いています。
まとめ
島左近(島清興)は、大和の国人として筒井家に仕えた武将でした。秀長が大和に入った天正十三年にはまだ筒井家の家臣で、天正十六年ごろに筒井家を離れ、遅くとも天正十八年には石田三成に仕えています。そのあいだに秀長・秀保に仕えたという説は、江戸時代の書物に見えるもので、確かな史料では確かめられていません。
とはいえ、筒井家が去り、秀長が新しい主となった大和で、地元の武士たちがどう身を振るかは、第37回以降の大和郡山編の見どころのひとつです。島左近が秀長の前に現れるのかどうか、放送を楽しみに待ちましょう。
同じ第37回の登場人物については、石川清兵衛とは、盤覚とは、才蔵とは、末(すえ)のモデルは誰?でも解説しています。
