天正十三年の論功行賞:四国攻めと北陸攻めのあと、誰が何をもらったのか

天正十三年(1585年)、秀吉は四国と北陸で二つの戦を終えました。第三十七回の冒頭で描かれるのが、そのあとの論功行賞です。誰に何を与えるかを決める場でしたが、実際にそこで起きていたのは、日本列島の大名配置をまるごと書き替える作業でした。秀長が大和を、筒井が伊賀を、蜂須賀が阿波を受け取る。その一つひとつがつながっています。

この記事のポイント
  • 四国攻めは六月から八月、北陸攻めは八月。同じ年に片がつきました
  • 四国は土佐・阿波・讃岐・伊予の四つに分けられ、長宗我部は土佐一国のみに
  • 北陸では佐々成政が降伏し、越中の大半は前田家へ渡ります
  • 畿内では秀長が大和・紀伊・和泉、秀次が近江、筒井が伊賀へ
  • 褒美を配ると同時に、外様を畿内の外へ出す配置換えが進みました
目次

二つの戦が、同じ年に終わった

この年の動きは早いものでした。三月に根来・雑賀を攻め、六月から四国攻め。総大将は秀長です。八月には長宗我部元親が降伏します。その同じ八月、秀吉は自ら北陸へ向かい、越中の佐々成政を攻めました。

そして七月、秀吉は関白になっています。武力で従わせる立場から、朝廷の官職を背負って命じる立場へ変わった直後の論功行賞でした。この順番は偶然ではありません。関白であれば、大名に国替えを命じる根拠が立ちます。

▶ 60秒でわかる動画

阿波一国を断った男と、大和を出された筒井|秀吉の論功行賞の本当の狙い

四国はこう分けられた

四国国分の結果は次のとおりです。

土佐は長宗我部元親に安堵されました。およそ十万石。四国四か国をほぼ手中にしていた元親にとって、もとの一国だけが残った形です。伊予は小早川隆景に三十五万石。毛利の一門でありながら、秀吉の直臣大名として扱われました。讃岐は仙石秀久に十万石。淡路五万石からの加増転封です。

阿波はおよそ十八万石。これを蜂須賀正勝に与えるという話でしたが、正勝は辞退し、子の家政が受けました。秀吉の側近として仕える道を選んだわけです。

北陸はこう終わった

越中の佐々成政は、秀吉の大軍に囲まれて降伏しました。剃髪して詫び、越中のうち新川郡だけを残されます。富山城を本拠とした成政の支配は、ここで実質的に終わりました。

越中の残りは前田家へ渡ります。すでに加賀と能登を持っていた前田は、これで北陸の三国にまたがる領国を手にしました。のちの加賀百万石の骨組みが、この年にできています。賤ヶ岳で退いたことから始まった前田の立場は、二年でここまで来ました。

畿内で起きた入れ替え

四国と北陸の褒美を配るだけなら、遠国の話で済みます。ところが秀吉は、同じ機会に畿内の配置も動かしました。

秀長には大和・紀伊・和泉。合わせておよそ百万石です。秀次には近江八幡。四国攻めの功によるもので、四十三万石とされます。八幡山城を築き、琵琶湖の水運と東国への道を押さえました。高山右近は高槻から播磨の明石へ。そして大和にいた筒井定次は伊賀へ移されます。

▽ よく語られる話
論功行賞は、戦で手柄を立てた者に褒美を配る場である。
▼ 史実ではこうです
それだけではありませんでした。この年の国替えを地図の上に置くと、畿内とその周りに弟の秀長、甥の秀次、古くからの家臣が並び、もとからそこにいた家が外側へ動かされているのが分かります。褒美を配る形をとりながら、同時に配置図を書き替えていました。石高を増やしてやれば、当人も断りにくい。筒井定次が二万石の加増を受けながら代々の土地を離れたのは、その典型です。

表でみる、天正十三年の配置

この年に動いた主なところをまとめます。石高は概数で、史料によって幅があります。

国 誰に 石高の目安 立場
大和・紀伊・和泉 豊臣秀長 約百万石 弟
近江(八幡) 豊臣秀次 約四十三万石 甥
伊賀ほか 筒井定次 約二十万石 大和から移された外様
播磨(明石) 高山右近 約六万石 高槻から移された
阿波 蜂須賀家政 約十八万石 父が辞退して子へ
讃岐 仙石秀久 約十万石 淡路から加増転封
伊予 小早川隆景 約三十五万石 毛利一門から直臣へ
土佐 長宗我部元親 約十万石 四国の大半を失い一国のみ
越中の大半 前田家 ── 加賀・能登とあわせて北陸三国
越中新川郡 佐々成政 ── 降伏し、ここだけ残された

縦に読むと分かりやすくなります。上の二つが身内、次の二つが畿内から動かされた家、その下が四国の四か国、いちばん下が北陸です。身内には百万石級を、外様には一国を。この差が、そのまま豊臣政権の骨格になります。秀長と秀次という二人の身内を畿内に置けたことが、このあとの九州攻めを可能にしました。

なぜ長宗我部は土佐一国だけだったのか

元親は四国のほぼ全域を勢力下に置いていました。それが土佐一国に戻されたのですから、当人にとっては大きな後退です。

ただし滅ぼされてはいません。四国平定で秀吉が選んだのは、降伏した相手をもとの一国に戻して生かす形でした。信長のように根切りにするのではなく、家を残して政権の下に組み込む。総大将をつとめた秀長の交渉が効いたとも言われます。

この扱い方は、このあと九州でも繰り返されます。島津も本国の薩摩・大隅に戻されて生き残りました。天正十三年の四国国分は、豊臣政権が「降伏した大名をどう扱うか」の型を決めた場でもあったわけです。

この年、秀吉は何になったのか

天正十三年は、秀吉が関白になった年でもあります。武力で並ぶ者がいなくなったうえに、朝廷の位でも人臣の頂点に立ちました。論功行賞がこの年に集中したのは、偶然ではありません。

関白として諸大名に領地を配るという形をとることで、恩賞は私的な分け前ではなく公の裁定になります。誰にどこを与えるかを決める権利そのものが、この年に確立したことになります。

だからこそ、蜂須賀小六が阿波を辞退したことの意味が重い。公の裁定を断るという形になるからです。息子に譲るという受け方をしたのは、断りつつ受けるための作法でもありました。

配置から見える設計

▶ 誰をどこへ置いたか
  • 身内を畿内へ … 秀長に大和・紀伊・和泉、秀次に近江八幡山。都のまわりを血縁で固めます
  • 外様を畿内の外へ … 筒井定次を伊賀へ、長宗我部元親は土佐一国に押し込めます
  • キリシタン大名の扱い … 高山右近や明石らも配置替えの対象になりました
  • 四国は分割 … 阿波・讃岐・伊予を別々の大名に割り、四国をひとつにさせません

ひとつひとつは恩賞ですが、全体で見ると地図の塗り替えです。筒井定次が大和を出されたのも、個人への罰ではなく、この設計の一部でした。

大和のように寺社が強い国へ身内を入れるのは、いちばん面倒な仕事を身内にやらせるということでもあります。秀長が受け取ったのは、栄誉であると同時に難題でした。

断った男

この年の論功行賞で、一人だけ違う動きをした人物がいます。阿波一国を辞退した蜂須賀正勝です。

一国の主になるより、秀吉のそばで働くことを選んだ。子に継がせれば家は残ります。自分は身軽なまま、天下人の相談相手でいる。野盗の親分あがりと語られてきたこの男が、最後に見せた判断でした。正勝がなぜ阿波を断ったのかは、別の記事で詳しく書いています。

与えられた側の筒井定次と、断った側の蜂須賀正勝。同じ場で反対の選択をした二人を並べると、この論功行賞が何を試していたのかが見えてきます。

紀伊を現地で預かったのは桑山重晴でした。

まとめ

天正十三年の論功行賞は、四国と北陸の戦後処理であると同時に、関白になった秀吉が最初に行った全国規模の人事でした。

このあと秀吉は九州へ向かいます。同じやり方が、より大きな規模で繰り返されることになります。第三十七回で秀長が大和に入るのは、その最初の一手でした。

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