和歌山城:豊臣秀長が虎伏山に築いた紀州の城と、三つの時代が層になった石垣

和歌山城:徳川御三家の一つにして将軍徳川吉宗の出身地 紀州和歌山城

和歌山城を築いたのは、豊臣秀長である。天正十三年、兄の秀吉が紀伊を平定したあと、秀長は自分で城地を選び、自分で縄張りを引いた。普請奉行をつとめたのは藤堂高虎で、およそ一年で城が立ち上がっている。この城の値打ちは、天守よりも石垣にある。秀長が積んだ青石、浅野が積んだ石、徳川が積んだ石が、いまも同じ城のなかに並んで残っているからだ。石垣を見て歩くだけで、三つの時代を通り抜けられる城である。

この記事のポイント
  • 天正十三年、豊臣秀長が紀伊平定のあとに築いた城
  • 秀長が自ら城地を選び、縄張りを引いた。普請奉行は藤堂高虎、およそ一年で完成
  • このとき地名が「若山」から「和歌山」に改められた
  • 城が建つのは標高およそ四十九メートルの虎伏山
  • 石垣は秀長期=緑色片岩の野面積み/浅野期=打込ハギ/徳川期=熊野の花崗斑岩の切込ハギと、時代で積み方が変わる
  • 刻印はおよそ百七十種類、二千百個以上が確認されている
  • 城主は桑山 → 浅野幸長 → 徳川頼宣と替わり、紀州徳川家の城になった
  • 天守は落雷で一度、戦災でもう一度焼け、昭和に鉄筋で再建された
目次

秀長が、自分で城地を選んだ

豊臣秀長という人は、兄から任された土地に必ず城を置いた。大和では郡山城、そして紀伊ではこの和歌山城である。

特筆すべきは、この城の選地と縄張りを秀長自身が行っていることだ。家臣に丸投げしていない。どこに城を置けば紀伊を押さえられるかを、自分で歩いて決めている。四国攻めの総大将をつとめるより前から、この人は城と土地を見る目で仕事をしてきた。

普請奉行には藤堂高虎が就いた。のちに築城の名手と呼ばれる人物が、まだ若い時期にここで腕を振るっている。そして高虎は翌年、阿波の一宮城を攻める側にまわる。城を建てる技術と、城を落とす技術は、同じ人間のなかにあった。

「若山」が「和歌山」になった

この築城のとき、地名が変わっている。もともと「若山」と呼ばれていた土地が、「和歌山」に改められた。

近くに和歌の浦があり、その名を取ったと伝わる。福井が北ノ庄から改められたように、新しい主が土地の名を変えるのは珍しいことではない。城を建てるだけでなく、土地の呼び名まで書き換えた。いま県名にまでなっている「和歌山」は、この城から始まっている。

なぜ紀伊に、これだけの城が要ったのか

丘の上に建つ和歌山城の連立式天守を遠くから望む

緑に覆われた虎伏山の上に、天守と櫓が並ぶ。低い山だが、紀ノ川の河口と海に面した平野をひとまとめに見下ろせる位置にある。

紀伊は、それまで大名が治めてきた国ではない。根来衆や雑賀衆といった、鉄砲を持つ集団がそれぞれの力で立っていた土地である。秀吉はこれを太田城の水攻めなどで押さえ込んだ。

押さえ込んだあとが難しい。誰の城もなかった国に、誰の国かを示す城を置く必要があった。

もうひとつ、紀伊は海の国である。ここから船を出せば、淡路を経て四国に届く。この城が立ち上がっていく同じ年に、四国攻めが行われた。熊野の材木を預かった山奉行が秀長の下にいたのも、八百艘とも伝わる船を集めるのも、すべてこの紀伊という足場があってのことだった。

和歌山城は、紀伊を治めるための城であると同時に、海の向こうへ出ていくための城でもあった。

紀州の青石は、阿波の青石と同じ石である

秀長が積んだ石垣には、緑色片岩が使われている。地元で紀州青石と呼ばれる、平たく割れる青緑色の石だ。

ここで気づいてほしいことがある。阿波の一宮城の石垣も、阿波の青石で積まれている。呼び名は違うが、どちらも緑色片岩という同じ種類の石である。紀伊半島から四国へ、同じ帯のような地質が続いているためだ。

▽ よく語られる話
紀州の青石と阿波の青石は、名前が違うのだから別の石である。
▼ 史実ではこうです
名前が違うのは産地が違うからで、石そのものは同じ緑色片岩である。紀伊半島の南部から四国の中央部へ、同じ地質の帯が海を挟んで続いている。秀長は紀伊でこの石を積み、その翌年、同じ石で積まれた城を四国で攻めた。海は人を隔てるが、石は隔てられていなかった。

石垣を見れば、どの時代かが分かる

和歌山城の門と、粗く積まれた石垣

石垣の上に白壁の建物を載せた門。足元の石は大きさも形もまちまちで、割らずにそのまま積んだ古い積み方が残る。

和歌山城の面白さは、ここに尽きる。城主が替わるたびに石垣の積み方が変わり、それが壊されずに残った。

秀長の時代は、緑色片岩の自然石を切り出してそのまま積んだ野面積み。石の形を加工しないので、表面はでこぼこで、隙間に小石を詰めてある。

浅野の時代になると、石を打ち欠いて形を整え、合わせて積む打込ハギに変わる。隙間が減り、線がそろってくる。

徳川の時代には、熊野産の花崗斑岩を使い、切石を精密に積む切込ハギになる。石と石のあいだに紙も入らないほど詰まっている。

興味深いのは、徳川期の石が熊野から運ばれていることだ。秀長の時代に熊野の材木を預かった山奉行がいたように、この国は熊野という山と海をつねに使ってきた。木を出し、石を出す。紀伊という国の値打ちは、山の中にあった。

刻印が二千百個 ── 石を運んだ人びとの記録

石垣をよく見ると、石の表面に記号が刻まれているものがある。これを刻印という。北ノ庄城など、同じ時期の城でも見られるものだ。

和歌山城では、およそ百七十種類、二千百個以上が確認されている。大半は和泉砂石に刻まれたものだ。

刻印は、どの組がどの石を出したかを示す印だと考えられている。つまりこれは作業の記録である。天守や櫓は焼けても、石に彫った印は残る。城に名前が残るのは殿様だが、石に印を残したのは運んだ者たちだった。

城主は三度替わった ── 桑山、浅野、徳川

秀長は大和郡山にいたため、和歌山には城代が置かれた。桑山重晴が三万石で入り、のちに子の一晴が継いでいる。

関ヶ原のあと、浅野幸長が三十七万六千石で紀州に入る。そして元和五年、徳川頼宣が五十五万五千石で入り、紀州徳川家が始まった。御三家のひとつである。のちに八代将軍となる吉宗は、この家から出た。

結城秀康が越前で六十八万石を得たのと同じころ、徳川の一族が紀伊にも置かれた。秀長が紀伊に城を建てた理由と、家康が紀伊に息子を置いた理由は、たぶん同じである。ここは押さえておかなければならない国だった。

二度焼けた天守

天守は連立式で、大天守と小天守、櫓を渡櫓でつないだ形をしている。秀吉・秀長ゆかりの城めぐりで扱った城のなかでも、この形は数が少ない。

弘化三年、落雷によって本丸の主要な建物が全焼した。石垣は焼けても残るが、木の建物は一夜で消える。嘉永三年に再建されている。江戸も末期のこの時期に天守を建て直せたのは、御三家だったからでもある。

そして昭和二十年、和歌山大空襲によって、指定建造物十一棟がすべて焼けた。二度目は、再建した天守もろとも失われている。いま建っている天守は、昭和三十三年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。

いま残っているもの

和歌山城の門と石垣、木の間から見える天守

手前の石垣と門は空襲を越えて残ったもの。木々の向こうに見える天守は、戦後に建て直された姿である。

焼け残ったものは多くない。太田城のように跡すら分かりにくい場所と比べれば、残ったほうではある。だが岡口門と土塀は残り、国の重要文化財になっている。追廻門も残る。二の丸の大楠は県の天然記念物である。

そして石垣は、ほとんどが残っている。建物は二度焼けたが、石は焼けなかった。秀長が積んだ青石も、浅野の打込ハギも、徳川の切込ハギも、いまそこにある。

御橋廊下は平成に、大手門と一之橋は昭和に復元されたものだ。

まとめ

和歌山城は「徳川御三家の城」「吉宗の城」として語られることが多い。それは間違いではないが、この城を選び、縄張りを引き、最初の石を積ませたのは豊臣秀長である。

秀長という人の仕事は、いつもこの形をしている。大和郡山でも紀伊でも、兄から任された土地に城を置き、町を整え、次の戦の足場を作った。そして本人の名は、あとから来た人の名に上書きされていく。

四国国分で四国が分けられたのも、この城が立ち上がっていく同じ年のことだった。城を建てながら、十万の兵を海の向こうへ送っていたことになる。

いま石垣の前に立つと、下のほうに青緑の平たい石が見える。四百年以上、誰も外さなかった石である。

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