談山神社(多武峰):秀長が郡山へ移させた寺と、世界唯一の木造十三重塔

紅葉に包まれた多武峰の十三重塔のイメージ(イラスト)

談山神社は奈良県桜井市の多武峰にあります。もとは多武峰妙楽寺という寺で、藤原鎌足を祀り、僧兵を抱えて興福寺と争い続けてきました。天正十三年(1585年)に大和へ入った豊臣秀長は、この山の僧たちに武器を差し出させ、やがて社殿ごと郡山の城下へ移させます。ところが秀長が病に倒れると「大織冠のたたり」と噂され、鎌足の像は多武峰へ帰りました。山中には享禄五年(1532年)再建の十三重塔が立ち、木造の十三重塔としては世界で唯一のものです。

この記事のポイント
  • 中大兄皇子と中臣鎌足がここで談合したという伝承が、社号の由来です
  • 神仏分離までは多武峰妙楽寺という寺で、天台宗として興福寺と繰り返し争いました
  • 天正十三年、秀長は多武峰の僧たちに武器の提出を命じます
  • 天正十五年には郡山城下に社殿が建てられ、「新多武峰」と呼ばれました
  • 秀長の病と城中の怪異が「たたり」と噂され、天正十八年に鎌足の像は山へ帰ります
  • 十三重塔は享禄五年の再建。木造の十三重塔としては世界で唯一です
目次

談い山 ── 社号の由来

社名の「談山」は、この山で交わされた談合から来ています。中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我氏を倒す相談をここでしたと伝えられ、その場所が談峯、談い山(かたらいやま)と呼ばれるようになりました。

鎌足の没後、白鳳七年(678年)に長男の定慧が遺骨の一部を多武峰の山頂に改葬し、その上に十三重塔と講堂を建てて妙楽寺と称しました。大宝元年(701年)には神殿が建てられます。つまりこの場所は、最初から寺と神社が一体のものとして始まっています。明治まで千二百年近く、ここは寺でした。大和という国で寺社が力を持ちつづけた理由は、こうした古い由緒の積み重ねにあります。

寺だった時代 ── 興福寺と戦い続けた多武峰

多武峰妙楽寺は天台宗の寺で、比叡山延暦寺の末寺となりました。ところが奈良には法相宗の興福寺があります。同じ藤原氏ゆかりの寺でありながら宗派が違い、しかも隣り合っている。関係が悪くならないほうが不思議でした。

実際、多武峰は興福寺から繰り返し焼き討ちを受けています。承暦五年(1081年)と天仁元年(1108年)の焼き討ちが知られ、天仁のときには浄土院・食堂・経蔵・惣社・大温室・多宝塔などが焼かれました。承元二年(1208年)には金峰山寺からも攻められています。

つまり多武峰は、祈りの場であると同時に武装勢力でした。僧兵を抱え、寺領を持ち、近隣の寺と戦争をする。大和という国に守護が置かれず、寺社が実質の支配者だったというのは、こういう状態を指します。松永久秀が東大寺を焼いた話が有名ですが、焼くほうも焼かれるほうも武力を持っていたのがこの国の常態でした。

秀長はなぜ多武峰を郡山へ移したのか

郡山城の広間で僧たちと向き合う秀長のイメージ(イラスト)

郡山城での対面のイメージ(イラスト)。手前の畳には差し出された槍と鉄砲が横たわり、僧たちは巻物と箱を前にして向き合っている。縁の外には城下の町並みが広がる。

天正十三年(1585年)、豊臣秀長が大和に入ります。秀長の大和支配は、この寺社勢力をどう扱うかに尽きました。

秀長がまず行ったのが、多武峰への武器提出命令です。弓・槍・鉄砲・具足を差し出させました。寺から武力を取り上げる、つまり武装解除です。次に寺領に手を付けます。そして天正十五年(1587年)十一月、郡山城の城下に新しい社殿が建てられました。この新しい社は「新多武峰」と呼ばれます。翌年には綸旨を得て、藤原鎌足の像(大織冠)も郡山へ移されました。

▽ よく語られる話
秀長は温厚な人だったから、大和の寺社ともおだやかに折り合いをつけた。
▼ 史実ではこうです
秀長がやったことは、武器を出させ、寺領を削り、山ごと城下へ移させるという徹底したものでした。興福寺の寺領は入国前のおよそ五分の一まで減らされています。ただし、焼いてはいません。信長が比叡山を焼き、松永久秀が東大寺を焼いたのとは方法が違います。力ずくで壊すのではなく、武力と経済力を取り上げて城下に置く。おだやかだったのではなく、やり方が違ったと言うべきでしょう。

なぜ城下へ移すのか。山の上にあるから独立していられるのです。麓の城下に置けば、寺は大名の庇護と監視の下に入ります。城の周りに寺町をつくるのは戦国末期から江戸初期の定石でしたが、多武峰の場合はそれを一つの山ごと実行しようとしたことになります。

たたりと呼ばれたもの

ところが、この移転は完成しませんでした。郡山へ移されたあと、秀長の体調が悪化します。さらに郡山城中で鳴動などの怪異が起きたと伝えられ、これが大織冠のたたりだと噂されました。天正十八年(1590年)十二月二十八日、鎌足の霊像はもとの多武峰へ帰座します。秀長が亡くなるのは、その翌年の正月です。

もちろん、これは当時の人びとの受け止め方であって、因果関係を証明するものではありません。ただ、この噂が広まったこと自体が、秀長の政策がどれほど大きな摩擦を生んでいたかを示しています。寺社の側は力で押し返せない。押し返せないからこそ、たたりという形で語られました。第三十七回で描かれる大和の難しさは、ここにあります。

十三重塔と、いま残る建物

境内でいちばん目を引くのが十三重塔です。享禄五年(1532年)の再建で、木造の十三重塔としては世界で唯一とされます。藤原鎌足の墓の上に建てられたもので、神廟という位置づけです。屋根が十三段重なる姿は、写真で見るより実物のほうがずっと軽やかに見えます。

本殿は嘉永三年(1850年)の造替で、三間社隅木入春日造という珍しい形です。日光東照宮を造るときの手本になったと伝えられ、朱塗りに極彩色の装飾がほどこされています。拝殿・透廊・楼門は永正十七年(1520年)の再建。権殿は永正年間の再建ですが、もとは天禄元年(970年)に藤原伊尹が建てた三昧堂です。神廟拝所は寛文八年(1668年)の再建で、これはもとの講堂にあたります。

建物の名前を見ていくと、講堂・常行堂・三昧堂といった寺の呼び名が透けて見えます。明治二年(1869年)の神仏分離で僧は還俗して神職となり、妙楽寺は廃されて談山神社と改称されました。それでも建物の素性までは変えられなかったわけです。多聞山城のように跡形もなく消えた場所と比べると、ここは寺だった時代の形がそのまま残っている、めずらしい場所です。

駐車場と所要時間

拝観は午前八時半から午後四時半まで(最終受付は午後四時)。拝観料は大人六百円、小学生三百円、未就学児は無料です。

駐車場は三百台ほどあり、一部が有料です。観光バスは一台二千円で予約が必要になります。紅葉の時期は周辺の道が細く混雑するので、午前中に着くつもりで出かけてください。

公共交通なら、JR桜井駅または近鉄桜井駅の南口からコミュニティバス「談山神社」行きで二十五分、降りて徒歩五分です。車なら西名阪道の天理インターチェンジから国道一六九号と県道三七号を経由して十九キロ、五十分ほどかかります。山道なので時間に余裕を持ってください。

所要時間の目安は、十三重塔と本殿を見て四十五分ほど。けまりの庭や末社まで境内をひと回りするなら一時間半。大和郡山城とあわせて回るなら車で一時間ほどの距離なので、秀長の大和をたどる一日として組めます。

見学順 ── 十三重塔を見上げてから、けまりの庭へ

参道の石段を登ると、まず正面に拝殿と楼門が見えてきます。最初にここで全体の配置をつかんでください。斜面に沿って建物が段々に積み上がる構造で、平地の神社とは歩き方が違います。

つぎに十三重塔へ。下から見上げる角度がいちばん美しく、塔の背後に杉木立が入るように立つと、この場所が山の中であることが写真にも残ります。塔の足元が鎌足の墓所にあたることを思い出すと、見え方が変わります。

本殿は拝殿の奥です。朱塗りの回廊から眺めると、装飾の細かさがよく分かります。拝殿の内部からは、吊り灯籠ごしに紅葉が見える構図が知られています。十一月中旬から下旬がその時期です。

最後に、惣社拝殿の正面にある平地へ。ここがけまりの庭で、鎌足と中大兄皇子が出会ったという蹴鞠の故事にちなむ場所です。談い山の伝承の出発点がここになります。境内を一周して戻ってくると、寺として始まり、武装し、城下へ移されかけ、また山へ帰ってきたこの場所の千三百年が、一本の線でつながります。

同じ大和の札所では壺阪寺(南法華寺)もあわせて回れます。

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