- 天正17年(1589)2月25日の夜、秀吉の政庁・聚楽第の門の番所の白壁に、秀吉を批判する落書(落首)が書かれているのが見つかりました
- 犯人は見つからず、秀吉はその夜の警備にあたっていた番衆十数人を処刑しました。『多聞院日記』は、3月18日に番衆17、8人が磔にされたと伝えています
- 容疑者とされた牢人・尾藤道休は大坂天満の本願寺に逃げこんでいましたが、本願寺は道休を自害させて首を差し出しました。それでも処罰は終わらず、天満の町は焼かれ、60人あまりが京の六条河原で磔にされました
- 落書の中身は記録に残っていません。茶々の懐妊を当てこすったものだったという話は、のちの書物にもとづくもので、確かなことはわかっていません
『豊臣兄弟!』第45回「天下人の暴走」では、茶々の懐妊を揶揄する壁の落書きが見つかり、秀吉が激怒する場面があるようです。これは天正17年(1589)に実際に起きた聚楽第の落書事件がもとになっています。犯人がわからないまま、警備の番衆や関係のない町の人びとまでが命を奪われたこの事件は、天下人となった秀吉の怖さを伝える出来事として知られています。この記事では、事件の流れと、秀吉がなぜここまで厳しく罰したのかを、史料に沿ってたどります。

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天正17年2月25日、聚楽第の白壁に書かれた落書
聚楽第は、秀吉が京都の内野に築いた関白の政庁です。前の年の天正16年4月には後陽成天皇を迎え、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた、豊臣政権の顔ともいえる場所でした(聚楽第行幸とは)。
その聚楽第の門の番所の白壁に、2月25日の夜、秀吉を批判する落書が書かれました。落書は短歌の形をとった「落首」だったとされます。見つけた者が消したともいわれますが、うわさはたちまち広がり、秀吉の耳にも届きました。奈良の興福寺の僧が書いた『多聞院日記』は、その日のうちに番衆10人が牢に入れられたと記しています。
警備の番衆を処刑した秀吉
犯人はわかりませんでした。そこで秀吉が責任を問うたのは、その夜に門を守っていた番衆たちです。『多聞院日記』によると、3月18日、番衆17、8人が磔にされました。鼻や耳を削いだうえで処刑したとも伝わります。
番衆は、大名の家から出されて聚楽第の警備にあたる者たちでした。落書を書いた本人ではなく、見逃した者を罰したことになります。犯人を捕まえられないときに、見張りの落ち度を重く罰するのは、二度と同じことをさせないための見せしめでした。
容疑者・尾藤道休と天満の本願寺
やがて容疑者として名前が挙がったのが、尾藤道休という牢人です。道休は秀吉の怒りを買って勘当された身で、大坂天満の本願寺に身を寄せていました。『多聞院日記』は、関白の勘当人が本願寺にかくまわれていたことに、秀吉が大いに腹を立てたと記しています。
当時本願寺に身を寄せていた公家・山科言経の日記『言経卿記』によると、石田三成と増田長盛が本願寺に道休の引き渡しを迫りました。本願寺の顕如は、3月1日に道休と、道休をかくまった願得寺顕悟を自害させ、首を差し出します。
なお、同じころ本願寺には、九州攻めの失敗で秀吉に追放された尾藤知宣も身を寄せていたといわれます。名字が同じ道休と知宣が親族だったかどうかは、はっきりしません(尾藤知宣とは)。
天満の町と、六条河原の磔
道休が死んでも、秀吉の怒りはおさまりませんでした。道休たちの家があった天満の町は焼き払われ、住人が捕らえられます。そして3月、道休の妻子をふくむ60人あまりが、京の六条河原で磔にされました。老人や幼い子どもまでがふくまれていたと伝わります。
さらに秀吉は本願寺に対し、秀吉の勘気を受けた牢人をかくまわないことなどを定めた掟を出しました。信長と十年にわたって戦った本願寺は、この事件をきっかけに、豊臣政権の厳しい監視のもとに置かれることになります。
| 日付(天正17年) | できごと |
|---|---|
| 2月25日 | 聚楽第の番所の白壁に落書が見つかる。番衆10人が牢に入れられる |
| 2月末 | 尾藤道休をかくまったとして、石田三成・増田長盛が本願寺に引き渡しを迫る |
| 3月1日 | 本願寺が道休と願得寺顕悟を自害させ、首を差し出す |
| 3月2日 | 道休らの家と、まわりの天満の町が焼かれる |
| 3月13日 | 本願寺に、勘気の牢人をかくまわないことなどを命じる掟が出される |
| 3月18日 | 番衆17、8人が磔にされる(『多聞院日記』) |
| 3月 | 道休の妻子ら60人あまりが六条河原で磔にされる |
落書には何が書かれていたのか
いちばん気になる落書の中身は、じつは同時代の記録には残っていません。『多聞院日記』や『言経卿記』、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』も事件にふれていますが、落書の文句は書き留めていないのです。
よく「茶々(淀殿)の懐妊をからかう落首だった」といわれます。たしかにこのころ茶々は身ごもっており、5月27日に鶴松を産みました。ただ、その落首として知られる歌は、のちの時代の書物に出てくるもので、聚楽第に書かれたものと同じだという確かな証拠はありません。秀吉には長く子がなかったことから、そうした中身だったと想像されてきた、と考えるのがよいでしょう(秀吉に実子はいたのか)。
秀吉はなぜここまで厳しく罰したのか
落書は、名前を出さずに権力者を批判する手段でした。だれが書いたかわからないからこそ、世の中の声とも受け取られます。天下人の政庁の壁にそれが書かれたことは、秀吉の威信を正面から傷つけるものでした。
しかもこのころの秀吉は、北条氏や伊達氏がまだ従わず、天下統一の仕上げにかかっている最中です。政権の足もとで批判を許せば、従わない者を勢いづけかねません。犯人がわからなくても、だれかに責任を負わせて重く罰することで、政権に逆らえばどうなるかを示そうとしたのでしょう。前の年の吉川平介の処刑でも、秀吉は家族にまで罰を広げています(秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのか)。
とはいえ、落書とかかわりのない町の人びとまで磔にしたこの事件は、のちの秀次事件と並んで、秀吉の晩年の残酷さを語るときに必ず挙げられる出来事となりました(秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか、秀吉に処刑・切腹させられた人びと)。
よくある質問
Q. 聚楽第の落書事件はいつ起きましたか?
A. 天正17年(1589)2月25日の夜です。
Q. 落書を書いた犯人はわかったのですか?
A. わかっていません。容疑者とされた尾藤道休は、本願寺で自害させられました。
Q. 何人が処刑されたのですか?
A. 番衆17、8人と、天満の町の60人あまりが磔にされたと伝わります。
Q. 落書は茶々の懐妊をからかったものですか?
A. そういわれることが多いものの、同時代の記録に中身は残っておらず、確かではありません。
まとめ
天正17年2月25日、聚楽第の白壁に秀吉を批判する落書が書かれました。犯人はわからず、秀吉は警備の番衆を処刑し、容疑者の尾藤道休をかくまった本願寺を追及して、天満の町の人びとまで磔にしました。落書の中身は記録に残っていませんが、この事件は天下人となった秀吉が、批判を力でおさえこんだ出来事として記憶されています。第45回の「暴走」がどう描かれるのか、史実と見くらべながら見てみてください。
参考:『多聞院日記』/『言経卿記』/ルイス・フロイス『日本史』/黒田基樹「大河ドラマ『真田丸』ワンポイント解説(17)」駿河台大学

