北条氏政は秀長に下剋上を勧めたのか|『豊臣兄弟!』第45回の場面と史実 ─ 天正17年の北条氏、沼田の裁定から名胡桃城事件まで

小田原城:北条早雲に始まり北条家5代にわたり関東を支配した名城 小田原城
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第45回では、北条氏政が秀長に「兄を見限って立つなら北条は力を貸す」と、兄への下剋上を勧める場面があるようです
  • 史実では、北条氏政が秀長にそのような話を持ちかけたことを示す史料は見つかっていません。ドラマならではの創作と考えてよいでしょう
  • ただし天正17年(1589)は、北条氏が秀吉への従属をめぐってゆれ、沼田の裁定から名胡桃城事件、小田原攻めへと突き進んでいく年でした
  • 秀長は大和・紀伊・和泉を治める大大名で、豊臣政権の重鎮でした。北条が豊臣家の内側にくさびを打ちこもうとする筋書きには、それなりの下地があったともいえます

『豊臣兄弟!』第45回「天下人の暴走」の予告では、秀長が北条氏政から「見限られる前に見限ってはどうか。あなたが立つなら北条は力を貸す」と、兄・秀吉への下剋上を勧められる場面があると伝えられています。吉川平介の死をめぐって兄と距離を置いていた秀長に、関東の雄が手を差しのべる。ドラマとしては目の離せない展開ですが、史実ではどうだったのでしょうか。この記事では、天正17年の北条氏と豊臣政権の関係をたどりながら、この場面の背景を考えます。

目次

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結論:氏政が秀長に下剋上を勧めた記録はない

先に結論をいうと、北条氏政が秀長に謀反を持ちかけたことを示す史料は見つかっていません。氏政と秀長が直接やりとりをした記録も、確かなものは知られていません。北条氏と豊臣政権のあいだをつないだのは、おもに徳川家康や、秀吉の家臣の富田一白・津田盛月らでした(北条氏政とは)。

ですからこの場面は、ドラマが兄弟の葛藤を描くために用意した創作と考えるのが自然です。ただ、まったく根拠のない話でもありません。このころの北条氏の置かれた立場を見ていくと、豊臣家の内側に手を伸ばしたくなる事情は十分にありました。

▽ よく語られる話
北条氏政は、秀吉と仲たがいした秀長に謀反を勧め、豊臣家を内側から崩そうとした。
▼ 史実ではこうです
そうした働きかけを伝える史料はありません。北条氏は天正16年に一族の北条氏規を上洛させ、秀吉への従属を探る道を選んでいました。氏政が秀長に下剋上を勧める場面は、ドラマの創作と考えられます。
小田原城で関東の絵図を囲む北条家の評定のイメージイラスト
小田原城で関東の絵図を囲む北条家の評定のイメージ(イラスト)

天正16年から17年の北条氏 ─ 従うか、戦うか

天正16年(1588)4月の聚楽第行幸で、全国の大名は秀吉への忠誠を誓いました。しかし関東の北条氏は、その場に姿を見せていません。秀吉は北条氏に上洛をうながし、北条氏はようやく8月、氏政の弟・氏規を京に送りました(北条氏規とは、聚楽第行幸とは)。

北条氏の中では、秀吉に従うべきだという考えと、関東の大国として誇りを守るべきだという考えがぶつかっていたといわれます。北条氏が従う条件として持ち出したのが、真田昌幸と争ってきた上野国の沼田の問題でした(徳川と真田がもめた沼田はどんな土地だったのか)。

時期 できごと
天正16年4月 聚楽第行幸。諸大名が秀吉への忠誠を誓うが、北条氏は加わらず
天正16年8月 北条氏規が上洛し、秀吉に会う
天正17年7月ごろ 秀吉が沼田を裁定。沼田の三分の二を北条、名胡桃をふくむ三分の一を真田とする
天正17年10月 北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を奪う(名胡桃城事件)
天正17年11月24日 秀吉が北条氏に宣戦を告げる書状を出す
天正18年 小田原攻め。7月に北条氏が降伏し、氏政は切腹
名胡桃城事件のイメージイラスト(利根川をはさむ名胡桃城と沼田城)
利根川をはさむ名胡桃城と沼田城のイメージ(イラスト)

沼田の裁定と名胡桃城事件

天正17年、秀吉は沼田の領有について裁定を下し、沼田の三分の二を北条氏に、名胡桃城をふくむ三分の一を真田氏に与えました。北条氏は氏政が上洛することを約束し、話はまとまったかに見えました。

ところが同じ年の10月、北条方の沼田城代・猪俣邦憲が、真田方の名胡桃城を奪ってしまいます。秀吉が出した惣無事の命令に正面から背くこの事件を受けて、秀吉は11月、北条氏に宣戦を告げました(名胡桃城事件とは、豊臣平和令とは)。

小田原城:北条早雲に始まり北条家5代にわたり関東を支配した名城 小田原城
北条氏の本拠・小田原城(小田原城)

なぜドラマは「北条が秀長を誘う」筋にしたのか

ドラマがこの場面を入れた理由は、いくつか考えられます。ひとつは、秀長という人物の重さです。秀長は大和・紀伊・和泉の三か国を治め、従二位の大納言にまでのぼった、豊臣政権のナンバー2でした。秀吉に不満を持つ者から見れば、秀長は豊臣家を割る鍵になりうる存在です(豊臣秀長とは)。

もうひとつは、北条氏が実際に追いつめられていたことです。秀吉と正面から戦えば勝ち目は薄く、秀吉の足もとを崩せるならそれに越したことはありません。天正17年の正月、秀長は吉川平介の事件の責めを負って秀吉への年頭のあいさつを許されず、兄弟の間に距離が生まれていました。その「すきま」に北条がつけこむという筋は、史実の流れをふまえた、よくできた創作といえるでしょう(秀吉と秀長は仲たがいしたのか)。

ドラマでは秀長が年頭の儀を自分から欠席したように描かれるようですが、史実では秀吉の側が拝謁を許さなかったとされます。そのちがいも見どころです。

史実の秀長は最後まで兄を支えた

史実の秀長は、兄にそむくことはありませんでした。天正18年の小田原攻めには病のため出陣できませんでしたが、秀吉は寺社に秀長の回復を祈らせています。そして天正19年正月、秀長は郡山城で亡くなりました。下剋上を勧める誘いがあったとしても、秀長がそれに乗ることはなかった、というのがドラマの描き方にもなりそうです(豊臣秀長の死因は何だったのか、小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第45回「天下人の暴走」は11月22日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、秀長は北条氏政から下剋上を勧められて葛藤するようです。秀長がこの誘いにどう答えるのか、そして北条との対決に秀吉がどう動くのかが、小田原攻めへの入り口になりそうです。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 北条氏政は秀長に謀反を勧めたのですか?
A. そうした記録は見つかっておらず、ドラマの創作と考えられます。

Q. 北条氏と豊臣政権をつないだのはだれですか?
A. おもに徳川家康と、秀吉の家臣の富田一白・津田盛月らでした。

Q. 名胡桃城事件はいつ起きましたか?
A. 天正17年(1589)10月です。

Q. 北条氏はいつ滅びましたか?
A. 天正18年(1590)7月、小田原城を開いて降伏し、氏政は切腹しました。

まとめ

『豊臣兄弟!』第45回で描かれる「北条氏政が秀長に下剋上を勧める」場面は、史料には見えないドラマの創作と考えられます。ただ天正17年の北条氏は、秀吉への従属をめぐってゆれ、名胡桃城事件を経て小田原攻めへと追いこまれていく最中でした。兄弟の間に生まれた距離に北条がつけこむという筋は、そうした史実の流れの上に組み立てられたものといえるでしょう。

参考:黒田基樹『北条氏政』ミネルヴァ書房/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書/柴裕之『羽柴秀長』角川選書

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