於義丸(おぎまる)は、徳川家康の次男で、のちの結城秀康(ゆうき ひでやす)です。「於義伊(おぎい)」とも書かれ、「おぎまる」「おぎい」と「結城秀康」は同じ人物です。小牧・長久手の講和で、十一歳のときに秀吉のもとへ送られました。ただし肩書きは人質ではなく「養子」でした。実態は人質です。それでも養子と呼んだことで、家康は頭を下げずに済み、秀吉は跡継ぎを迎えた形になりました。名は言い換えられます。けれども言い換えられた立場は、事情が変われば真っ先に要らなくなります。秀康の生涯は、この一点をめぐって動きました。
- 於義丸は家康の次男。母は於万の方
- 小牧・長久手の講和で秀吉のもとへ。名目は養子、実態は人質
- 名は羽柴秀康。秀吉の「秀」と家康の「康」を一字ずつ
- 秀頼が生まれると養子の席は要らなくなり、下総の結城家へ二度目の養子に出される
- 関ヶ原では戦場に出ていません。宇都宮に残って上杉景勝を抑えた
- その功で越前六十八万石。福井城を築き、三十四歳で没した
- 子の忠直、孫の光長は、いずれも改易された
於義丸(結城秀康)の子と孫は、なぜ二度も改易されたのか
大坂の陣の大手柄から豊後へ流された忠直と、越後騒動で家を失った光長。秀康が遺した家のその後です。
於義丸とは誰か ─ 家康の次男
於義丸は永禄七年(1564)、徳川家康の次男として生まれました。母は於万の方。長兄に松平信康がいます。この信康が織田信長の命で自刃したあと、於義丸は家康の実質的な長子の位置に立つはずでした。ところが家督は三男の秀忠が継ぎます。のちに浅井三姉妹の末娘・江を正室に迎えるのが、この秀忠です。於義丸は、生まれた順でも家督の順でも、どこにも収まらない場所に置かれ続けた人です。
幼名の読みは「おぎまる」。於義伊(おぎい)とも書かれ、史料によって字が揺れます。ドラマや書物で「おぎ」「おぎい」「おぎまる」と呼ばれているのは、すべてこの人です。
人質ではなく「養子」と呼んだ理由|於義丸(結城秀康)
於義丸、於義伊 ─ 名前の読み方と書き方
この人の幼名は、書物によって字が違います。よく見るのは次の二つです。
- 於義丸(おぎまる)
- 於義伊(おぎい)
どちらも同じ人物を指します。単に「おぎ」と呼ばれることもあります。
戦国期の人名は、書き手によって当てる字が揺れます。豊臣秀次が「三好信吉」と書かれたように、名そのものが変わる例もあれば、この人のように音は同じで字だけ違う例もあります。
「於義伊」については、魚のギギに似た顔つきから付けられたという話が伝わります。ただしこれは後世の書物に見える逸話で、確かめようがありません。名前の由来として語られる話ほど、あとから作られやすいものです。
読み方は「おぎまる」「おぎい」。成人して羽柴秀康(ひでやす)、のちに結城秀康(ゆうき ひでやす)となります。三つの名を持つ人だが、幼名で呼ばれる場面がいちばん多いのは、この人の一生が「送られた子」として語られてきたからでしょう。
「人質」ではなく「養子」と呼ばれた理由
天正十二年(1584)、秀吉と家康は小牧・長久手の戦いで正面からぶつかりました。戦場では家康が勝っています。しかし戦線はそこで止まり、秀吉は海から尾張へ入る道も断たれました。力ずくでの決着は、双方にとって割に合わなくなっていました。
そこで結ばれたのが講和です。このとき家康が差し出したのが、十一歳の於義丸でした。
ここが肝心なところで、於義丸は「人質」として送られていません。「秀吉の養子」として送られています。秀吉にはこのとき実子がいませんでした。だから跡継ぎを迎えるという名目が立ちました。
この言い換えは、両方の顔を立てます。人質を出したとなれば、家康は秀吉に屈したことになります。だが養子を出したのであれば、家同士が結びついただけです。秀吉の側も、勝ちきれなかった戦のあとで跡継ぎを得たという形になります。実態は同じでも、呼び方ひとつで負けが消えます。
ただし言い換えには代償があります。人質なら、役目が終われば帰されます。養子は、跡継ぎが要らなくなった時点で行き場を失います。
家康に疎まれたというのは本当か
秀康については、父に愛されなかったという話がよく語られます。
もっとも、逸話がこれだけ残ったこと自体には意味があります。この人は当時から「割を食った人」として見られていました。織田信雄が実際以上に無能と語られたのと、手つきが似ています。後の世が物語をほしがると、人物はその形に削られていきます。
越前松平家はなぜ二度も改易されたのか ─ 秀康の子・忠直と、孫・光長
父に疎まれたと語られた秀康の家は、子の代でも孫の代でも、徳川から領地を取り上げられました。
羽柴秀康 ─ 二人から一字ずつもらった名
秀吉の養子となった於義丸は、元服して羽柴秀康と名のります。秀吉の「秀」と、家康の「康」。両方から一字ずつ取った名です。
ただしこの時期、秀吉のまわりには似た立場の若者が何人もいました。甥の秀次がそうだし、他家から迎えた養子もいます。秀吉は跡継ぎ候補を一人に絞らず、複数を手元に置いていました。秀康は「唯一の後継者」ではなく「候補の一人」でした。この差が、のちに効いてきます。
秀頼が生まれ、養子の席は要らなくなった
天正十七年(1589)、秀吉に実子・鶴松が生まれます。鶴松は幼くして亡くなるが、のちに秀頼が生まれました。
実子ができた瞬間、養子たちの意味は変わります。跡継ぎを確保するための存在ではなく、実子の前に立ちはだかる存在になるからです。関白を継いでいた秀次が切腹に追い込まれたのも、根はここにあります。
秀康はそこまで追い詰められてはいません。だが、羽柴の家に置いておく理由もなくなりました。
秀次事件 ─ 豊臣秀次はなぜ切腹させられたのか
実子が生まれたあと、養子がどう扱われたか。秀康が置かれた場所の輪郭が見えてきます。
結城家へ ─ 二度目の養子
天正十八年(1590)、秀康は下総の結城晴朝の養子となります。ここで結城秀康となりました。
結城氏は下総の名門で、家臣の多賀谷氏が主家を凌ぐ勢力を持つほどの家でした。晴朝には跡継ぎがなく、秀吉の養子を迎えることは結城家にとっても後ろ盾になります。話としては筋が通っています。
しかし秀康の側から見れば、六年のあいだに二度、他家へ養子に出されたことになります。徳川から羽柴へ、羽柴から結城へ。どちらも本人が望んだ移動ではありません。
関ヶ原で、秀康は戦っていない
秀吉が没したあと、家康は会津の上杉景勝を討つと称して東へ軍を進めました。その留守を狙って石田三成が挙兵します。家康は軍を返して西へ向かうが、ここで問題が起きます。背後に上杉が残っています。西へ全軍を向ければ、後ろから突かれかねません。
この後ろを預かったのが秀康でした。下野の宇都宮に留まり、上杉を抑え続けました。
つまり秀康は関ヶ原の戦場にいません。一度も刀を合わせていません。それでも家康は、この働きを高く評価しました。後ろが崩れなかったからこそ、家康は西へ行けました。同じころ那須の黒羽城には家康から鉄砲が送られています。東の備えが、どれだけ本気で組まれていたかが分かります。
越前六十八万石と福井城
関ヶ原の翌年、秀康は越前六十八万石を与えられ、北庄へ入りました。

福井城跡に立つ結城秀康公の像(筆者撮影)

秀康が築いた福井城の石垣と堀(筆者撮影)
福井城跡:結城秀康が北ノ庄城の上に築いた越前六十八万石の城と、天守台の「福の井」
秀康が築いた城を、石垣と天守台「福の井」の写真とともに。
北庄はもともと柴田勝家の城下です。勝家が九層とも伝わる天守を上げ、賤ヶ岳の敗北とともに焼け落ちた土地です。秀康はその跡に新しい城を築き、城下町を作り直しました。およそ六年をかけています。これがのちの福井城であり、今日の福井市の原形になりました。

福井城址に立つ碑文。関ヶ原の後に越前六十八万石を得た秀康が、柴田勝家にはじまる城下町を大改造し、六年かけて城下を完成させたと刻まれています。
六十八万石は、大大名です。戦場に出なかった男が、実際に戦った多くの大名より大きな国をもらいました。家康がどこを評価したかが、この数字に出ています。
三十四歳の死
慶長十二年(1607)、秀康は北庄で没しました。三十四歳。城下の完成を見届けてまもない死でした。
越前は、勝家とお市が最期を迎えた土地でもあります。二人の墓と伝わる西光寺は、いまも福井市内に残ります。秀康が入った国は、そういう記憶の上にありました。
子と孫は、二度とも改易された
秀康の家は、越前松平家として続きます。しかしその後が穏やかではありません。
跡を継いだ長男の松平忠直(まつだいら ただなお)は、大坂の陣で真田信繁の陣を破る働きを見せました。ところが恩賞への不満などから幕府との関係が悪化し、元和九年(1623)に領地を取り上げられて豊後へ移されます。秀康の子は改易されました。越前は忠直の弟・忠昌が継ぎ、石高は減らされました。
忠直の子、つまり秀康の孫にあたる松平光長(まつだいら みつなが)は越後高田へ移されるが、この家も家中の内紛(越後騒動)で改易されます。二代続けて、家が取り上げられました。
家康の血を引き、六十八万石を与えられた家です。それでも、幕府が大名を取り潰すときの基準は情に左右されませんでした。四国で国を失った長宗我部や、戸次川の敗戦で改易された仙石秀久と比べると、事情はまったく違います。だが「家が消えるのは、負けたときだけではない」という点では同じでした。
仙石秀久はなぜ改易され、なぜ大名に戻れたのか
取り潰された家が戻る場合と、戻らない場合。その分かれ目を追っています。
越前松平家はなぜ二度も改易されたのか:松平忠直と光長
真田信繁を討った子・忠直は豊後へ、孫・光長は越後騒動で改易。それでも家は福井・松江・津山で続きました。
秀吉の養子で家康の実子という立場から、もし於義丸(秀康)が茶々と結ばれていたら ─ そんな想像を【筆者のもしも】茶々は本当は誰に嫁ぐはずだったのかで書いています。
まとめ
於義丸から羽柴秀康、そして結城秀康。この人は三つの名を持ち、三つの家を渡りました。どれも本人が選んだものではありません。
いちばん重いのは、最初の移動に付けられた「養子」という呼び方だったと思います。人質と呼べば家康の負けが残り、養子と呼べばそれが消えます。大人たちは消すほうを選びました。おかげで講和は成り、戦は止まりました。言い換えは、たしかに役に立ちました。
ただし役に立ったのは大人たちであって、呼び方を背負ったのは十一歳の子どもです。養子である以上、実子が生まれれば席はなくなります。事実そうなりました。
それでも秀康は、越前で六年をかけて城と町を作りました。福井城址に行くと、本丸の石垣と「福の井」が残っています。戦場の手柄ではなく、動かなかったことで得た国に、この人は町を置いていきました。

福井城址に立つ結城秀康の騎馬像。台座に「結城秀康公」と刻まれ、背後は城址の石垣にあたります。
- 於義丸(結城秀康)の子と孫は、なぜ二度も改易されたのか
松平忠直の豊後配流と、松平光長の越後騒動 - 於義丸(結城秀康)が築いた福井城
越前六十八万石の城と城下町 - 於義丸(結城秀康)が治めた越前に眠る、柴田勝家とお市
西光寺の墓には、遺骨がありません - 於義丸(結城秀康)が養子に入った結城家の城
結城氏朝が幕府軍と戦った結城城 - 於義丸(結城秀康)が上杉を抑えた宇都宮
関ヶ原のあいだ秀康が留まった宇都宮城 - 於義丸が秀吉のもとへ送られた小牧・長久手の戦い
秀吉と家康、どっちが勝ったのか - 於義丸が送られる前、蟹江城を奪った滝川一益
信長の重臣はなぜすべてを失ったのか - 於義丸と同じ「秀吉の養子」だった秀次
甥、人質、そして跡継ぎ候補のひとり - 於義丸の立場を変えた、秀吉の実子・鶴松
この子が生まれて、養子たちの意味が変わりました - 於義丸(結城秀康)が戦わなかった関ヶ原
なぜ西軍は有利な布陣で負けたのか - 於義丸(結城秀康)の父・家康が天下を握るまで
秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのか - 於義丸を養子にした秀吉は、身内をどう罰したのか
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