※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
豊臣水軍とは、秀吉が天下統一と朝鮮出兵のために組織した海の軍勢です。中心になったのは、信長の鉄甲船で知られる九鬼嘉隆、賤ヶ岳の七本槍の脇坂安治と加藤嘉明、そして藤堂高虎や村上水軍の流れをくむ来島通総らでした。四国攻めの大船団、小田原攻めの伊豆の海、そして朝鮮の海へと戦いの場を広げましたが、朝鮮では李舜臣の水軍に苦しめられ、海の補給線が秀吉の戦いの弱点になりました。
- 豊臣水軍の将は九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明・藤堂高虎・来島通総ら
- 四国攻めでは吉川平介が大船団を差配し、海を渡る速さが勝負を決めた
- 海賊停止令で「海の武士」を大名の水軍に組みこみ、村上水軍の時代が終わった
- 朝鮮出兵では閑山島で大敗、漆川梁で勝利、鳴梁で来島通総が戦死
豊臣水軍とは|秀吉はなぜ海の軍勢を必要としたのか
秀吉の天下統一は、陸だけでは終わりませんでした。四国も九州も海の向こうにあり、大軍を短い日数で送りこむには船が欠かせません。さらに小田原の北条氏を攻めるときは伊豆の海から城を囲み、最後は朝鮮半島へ十数万の兵を渡します。秀吉はもともと水軍を持たない尾張の出身でしたが、信長の時代から海の戦力を持つ武将を配下に加え、大名たちに船を出させる仕組みを整えていきました。四国攻めで長宗我部元親がなぜ海で秀吉を止められなかったのかはなぜ長宗我部元親は海で秀吉を止められなかったのかで書いています。
四国攻めの大船団|吉川平介が差配した渡海
天正十三年(1585年)の四国攻めで、秀長の本隊は淡路を経て阿波へ、宇喜多・小早川の軍勢は讃岐と伊予へと、いくつもの方面から一斉に海を渡りました。これだけの兵を短期間で運ぶには、船の数をそろえ、港と日程を割り振る奉行が必要です。その役を担ったのが、秀長の船奉行・吉川平介でした。平介は信長の時代に伊勢大湊で船を扱ったとも伝わる、船と物資の実務に通じた人物で、その腕が四国攻めの速さを支えます。平介のその後は吉川平介とは、四国攻めのあとの領地の分け方は四国国分とはをご覧ください。
九鬼嘉隆|鉄甲船で毛利を破った海の大名
豊臣水軍の筆頭と言えるのが、志摩の九鬼嘉隆です。信長のもとで大きな安宅船を造り、天正六年(1578年)の木津川口の戦いで毛利水軍を破ったことで知られます。この船は鉄の板で覆われていたと伝わり、「鉄甲船」と呼ばれてきました。秀吉の時代も水軍の将として重んじられ、朝鮮出兵では大型の安宅船「日本丸」を率いたとされます。関ヶ原では西軍につき、東軍についた息子の守隆と敵味方に分かれ、戦後に自害しました。九鬼氏の志摩の城は波切城跡や田城城で書いています。
脇坂安治と加藤嘉明|七本槍から海の将へ
賤ヶ岳の戦いで名を上げた七本槍のうち、脇坂安治と加藤嘉明はのちに淡路に領地を与えられ、水軍を率いる大名になりました。淡路は大坂と四国、瀬戸内を結ぶ海の要で、ここに信頼できる子飼いの武将を置いたところに、秀吉の海への意識が表れています。二人はその後の九州攻め、小田原攻め、朝鮮出兵で水軍の将として戦いました。七人それぞれのその後は賤ヶ岳の七本槍とはで書いています。
海賊停止令|村上水軍の時代が終わった
天正十六年(1588年)、秀吉は刀狩と同じ年に海賊停止令を出しました。海の上で通行料を取ったり船を襲ったりすることを禁じ、それまで瀬戸内の海を自由に支配してきた村上水軍などの「海の武士」は、大名の家臣として組みこまれるか、海を離れるかを迫られます。早くから秀吉に従った来島村上氏の来島通総は大名として取り立てられ、豊臣水軍の一翼を担いました。海の城の姿は来島城跡で、刀狩との関係は太閤検地と刀狩とはで書いています。
小田原攻めと伊豆の海|下田城を囲んだ水軍
天正十八年(1590年)の小田原攻めでは、陸の大軍と並んで水軍が伊豆の海に回りこみ、北条方の水軍の拠点だった下田城を囲みました。九鬼嘉隆や脇坂安治、長宗我部元親らが加わったとされ、城は長い籠城の末に開城します。陸と海の両方から相手を締め上げる、秀吉らしい戦い方でした。攻められた側の城は下田城で書いています。
朝鮮出兵|海で勝てなかった豊臣水軍
朝鮮出兵では、陸の軍勢が一気に北上した一方で、海では苦戦が続きました。文禄元年(1592年)、脇坂安治が閑山島の沖で李舜臣の朝鮮水軍に大敗し、海の補給線が脅かされます。慶長の役では、藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治らが漆川梁の海戦で朝鮮水軍を破りますが、続く鳴梁の海戦では李舜臣に敗れ、来島通総が戦死しました。陸では勝っても海を押さえきれなかったことが、秀吉の朝鮮出兵を行き詰まらせた理由のひとつです。戦いの全体像は朝鮮出兵をわかりやすく解説をご覧ください。
藤堂高虎とは:七度主君を替えた男が、最初に築いたのは秀長の和歌山城だった
陸の築城名人は、海でも戦った。漆川梁の海戦から海城・今治城まで。
まとめ|豊臣水軍が残したもの
豊臣水軍は、海の武士を大名の軍勢に組みこみ、天下統一の戦いを海の上まで広げました。四国攻めの大船団から朝鮮の海まで、その歩みは秀吉の天下の広がりそのものです。水軍の将たちの経験は、藤堂高虎の今治城のような海城にも生かされ、江戸時代の城と港のかたちにつながっていきました。

