天正の陣とは:金子元宅が小早川隆景の大軍に挑んだ伊予の四国攻め、高尾城と野々市原の千人塚

炎上する城から槍を手に打って出る金子元宅のイメージイラスト

特集 ── もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶

この記事のポイント
  • 天正の陣(てんしょうのじん)は、天正13年(1585)の秀吉の四国攻めのうち、伊予東部(新居郡・宇摩郡)で行われた戦いです
  • 小早川隆景らの毛利勢三万余に対し、長宗我部方の金子元宅が二千ほどの兵で立ち向かいました
  • 7月17日、元宅は高尾城に火を放って野々市原へ打って出て、最後は十三人になるまで戦って討ち死にしたと伝わります
  • 小早川隆景は戦死者を弔う千人塚を建て、いまも西条市に残っています

秀吉の四国攻めというと、秀長が総大将として阿波へ攻め込んだ戦いがよく知られていますが、伊予では毛利の軍勢が別に上陸し、長宗我部方の国人たちと激しく戦いました。とくに伊予の東部、いまの新居浜市・西条市で行われた戦いを、地元では「天正の陣」と呼んでいます。NHKの特番『長宗我部兄弟!』でも、長宗我部の唯一の同盟者・金子元宅の最期として描かれました。この記事では、天正の陣がなぜ起き、どう戦われ、何が残ったのかをたどります。

目次

なぜ伊予東部が戦場になったのか

伊予の東部、新居郡と宇摩郡は、讃岐・阿波と土佐をつなぐ四国の十字路にあたる地域です。ここを治めていたのは、高峠城を本拠とする石川氏と、その重臣で金子城の城主・金子元宅でした。元宅は天正6年(1578)ごろ長宗我部元親に従い、嫡男を人質として土佐に送っていました。

一方で、瀬戸内海の対岸の毛利氏は、伊予中部の河野氏を支えていました。天正10年(1582)の本能寺の変のあと、秀吉と毛利が和睦したことで、伊予の東部は、秀吉方となった毛利と、長宗我部との境目になります。天正13年(1585)、元親が秀吉に「伊予の一部は残してほしい」と申し入れたのも、この地域を手放せば同盟者の金子を見捨てることになるからでした。秀吉はこれを認めず、四国攻めが始まります。交渉の経緯は長宗我部兄弟!(NHK)の内容と史実で詳しく書いています。

毛利勢の上陸と、金子城・高尾城

天正13年6月、秀長を総大将とする本隊が阿波へ、宇喜多秀家らが讃岐へ攻め込み、7月には毛利輝元の命を受けた小早川隆景・吉川元長らの軍勢三万余が、瀬戸内海を渡って新居郡の御代島と沢津の二手に分かれて上陸しました。三方から同時に攻め込まれた長宗我部には、伊予へ大軍を回す余力はありませんでした。

金子元宅は、降伏を勧める声に対し、「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて人に後ろ指を指されるのは、武士の本意ではない」という意味のことを言って、戦う道を選んだと伝わります。元宅は居城の金子城を弟の元春に任せ、自らは主家の石川氏の支城・高尾城(西条市)に兵を集めて全体の指揮をとりました。金子方の兵はおよそ二千でした。

前哨戦となった丸山城では、城主の黒川広隆が降伏して毛利勢の案内役となり、金子城も総攻撃を受けて落城します。7月12日、毛利勢は高尾城への攻撃を始めました。

7月17日、野々市原の最期

高尾城は、石川氏が享禄年間(1528〜1532)ごろに築いたとされる標高約240メートルの山城で、土塁や堀切で守られていました。数日にわたる攻防のすえ、7月17日、元宅は自ら城に火を放ち、六百余の兵とともに城外の野々市原へ打って出ます。長宗我部からの援軍二百ほども加わった八百余の金子勢が、一万五千を超える毛利勢と正面からぶつかりました。

金子勢は降伏することなく、最後は十三人になるまで戦い抜いたと伝わり、元宅は討ち死にしました(自害したとする説もあります)。三十五歳でした。番組では、元宅が最後に「長宗我部が降伏せぬかぎり、金子も降伏せぬ。長宗我部と金子は同じだ」と言い残したと描かれています。

▽ よく語られる話
秀吉の四国攻めは、大軍の前に四国勢がほとんど抵抗できず、二か月ほどであっけなく終わった。
▼ 史実ではこうです
全体としては短期間で終わりましたが、伊予東部の天正の陣では、金子元宅が降伏を拒み、兵がほとんど尽きるまで戦いました。敵将の小早川隆景が千人塚を建てて弔ったことからも、どれほどの激戦だったかがうかがえます。四国攻めが二か月で終わった理由は豊臣兄弟!第36回の解説でも取り上げています。

千人塚と、戦いのあと

戦いのあと、小早川隆景は野々市原に千人塚を建てて、敵味方の戦死者を弔ったといいます。千人塚はいまも西条市に残り、天正の陣の古戦場として石碑が立っています。また、戦いのなかで焼き討ちにあった一宮神社(新居浜市)は、のちに元和6年(1620)になって毛利家によって再建されたとされます。

伊予の要を失った長宗我部元親は、金子元宅の討ち死にからおよそ一か月後に降伏し、土佐一国だけを残されました。四国は秀吉によって分け直され、伊予は小早川隆景に与えられます(四国国分とは)。

一方、元宅の一族は長宗我部に保護され、土佐の長宗我部地検帳にも金子一族の名前が残っています。子孫は江戸時代には土佐山内家などに仕えて家を保ち、明治以降には鈴木商店の番頭・金子直吉も出ています。一族のその後は金子元宅とはにまとめています。

天正の陣をめぐる

  • 金子城跡(滝の宮公園):新居浜市。金子氏三百年の本拠で、本丸跡が展望台になっています(金子城)
  • 慈眼寺:新居浜市。金子氏の居館跡に弟の元春が建てた寺で、元宅・元春兄弟の碑があります
  • 高尾城跡:西条市。元宅が最後に立てこもった山城で、登山道の入口に駐車場があり、土塁や堀切の跡が残っています
  • 野々市原古戦場・千人塚:西条市。元宅が討ち死にした地で、専用の駐車場はありません
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よくある質問

天正の陣の読み方は?

「てんしょうのじん」と読みます。天正13年(1585)の四国攻めのうち、伊予東部での戦いを指す地元での呼び名です。

天正の陣で戦ったのは誰と誰ですか

毛利方(秀吉方)の小早川隆景・吉川元長らと、長宗我部方の金子元宅・石川氏の家臣たちです。

金子元宅はどこで討ち死にしたのですか

高尾城から打って出た先の野々市原(愛媛県西条市)です。千人塚と古戦場の石碑があります。

まとめ

天正の陣は、秀吉の四国攻めのうち伊予東部で行われた戦いで、長宗我部方の金子元宅が二千ほどの兵で小早川隆景らの三万余の大軍に立ち向かいました。金子城が落ち、7月17日に元宅は高尾城から野々市原へ打って出て討ち死にし、小早川隆景は千人塚を建てて戦死者を弔いました。長宗我部との約束を守って戦った元宅の一族は、そのあと長宗我部に守られて生き残り、天正の陣の記憶は、いまも新居浜と西条の史跡に刻まれています。

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