- 天正17年(1589)の秀次は22歳。近江八幡山城を本拠に、近江で43万石ともいわれる大領を治める大名で、「近江中納言」と呼ばれていました
- 秀次の領国には、田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らの宿老がつけられ、若い秀次を支えていました。八幡山の城下町づくりは、いまの近江八幡の町並みにつながっています
- 秀吉に実子がいなかったこの時期、秀次は秀長とならぶ跡継ぎの候補と見られていました。ところが5月に鶴松が生まれ、その立場は大きく変わります
- 翌天正18年の小田原攻めで山中城を落とした秀次は、尾張・北伊勢へ移り、天正19年には関白を継ぎます。天正17年は、その手前の「待機」の一年でした
『豊臣兄弟!』第45回「天下人の暴走」では、年頭の儀に姿を見せない秀長に代わって、秀次が式を取り仕切り、秀吉にほめられる場面があるようです。一方で、茶々の懐妊を知って動揺する秀次の姿も描かれるといいます。では史実の天正17年、秀次はどのような立場にいたのでしょうか。この記事では、近江八幡の大名としての秀次と、跡継ぎ問題の中での秀次を整理します(なぜ秀長は「秀次には殿下の器はない」と言ったのか)。

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近江八幡43万石の大名
秀次は永禄11年(1568)の生まれで、秀吉と秀長の姉・ともの長男です。若いころは三好康長の養子となって三好信吉と名のり、小牧・長久手の戦いでは大敗を喫しましたが、四国攻めで功をあげ、天正13年(1585)に近江で大きな領地を与えられました(三好信吉(豊臣秀次)の兄弟はどうなったのか)。
本拠としたのは、琵琶湖の東、八幡山に築いた八幡山城です。秀次は城下に町を開き、琵琶湖とつながる八幡堀を整えて、商人を集めました。いまも残る近江八幡の町並みは、このときの町づくりがもとになっています。
若い秀次の領国経営を支えたのが、秀吉がつけた宿老たちです。田中吉政、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊らが近江の各地に城を持ち、秀次を補佐しました。のちに土佐の大名となる山内一豊も、このころは秀次の宿老の一人だったのです。
| 年 | 秀次のできごと |
|---|---|
| 天正12年(1584) | 小牧・長久手の戦いで大敗し、秀吉に叱責される |
| 天正13年(1585) | 四国攻めで活躍。近江八幡山城を本拠に大領を与えられる |
| 天正16年(1588) | 聚楽第行幸に加わる。このころ「近江中納言」と呼ばれる |
| 天正17年(1589) | 5月、鶴松が生まれる。秀次の立場が変わる |
| 天正18年(1590) | 小田原攻めで山中城を落とす。尾張・北伊勢へ移る |
| 天正19年(1591) | 鶴松の死後、秀吉の養子となり、12月に関白を継ぐ |
| 文禄4年(1595) | 高野山で切腹(秀次事件) |
跡継ぎ候補としての秀次
天正17年のはじめ、秀吉にはまだ実の子がいませんでした。豊臣家の跡を継ぐ者として名前が挙がっていたのは、弟の秀長と、甥の秀次です。秀長は秀吉より3歳下で、跡継ぎというより兄とならぶ存在でした。年齢を考えれば、次の世代を担うのは秀次と見られていたはずです。
秀次は大名として、領国の経営にもまじめに取り組んでいました。大名にお金を貸していた記録も残っており、豊臣一門として諸大名との関係を築く役目も果たしていたようです(秀次はなぜ大名に金を貸していたのか)。
鶴松の誕生で変わった立場
ところが天正17年5月27日、茶々が鶴松を産みます。秀吉はこの子を跡継ぎと定め、秀次は跡継ぎの候補から、豊臣家を支える一門の大名へと立場を変えることになりました(淀城:茶々が鶴松を産んだ城)。
秀次がこれをどう受け止めたのかを記した史料はありません。ドラマが描く「茶々の懐妊に動揺する秀次」は、その心の内を想像したものです。ただ、のちに秀頼が生まれたあと、秀次が切腹に追いこまれたことを思えば、実子の誕生が秀次の運命を左右したことは確かです(秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか)。
年頭の儀を仕切る秀次 ─ ドラマと史実
ドラマでは、秀長が欠席した年頭の儀を秀次が取り仕切り、席次をめぐって加藤清正が「なぜ三成が先なのか」と異を唱える場面があるようです。史実で天正17年の年頭の儀を秀次が仕切ったという記録は確かめられませんが、秀長が拝謁を許されなかったこの正月、豊臣一門で秀吉のそばにいたのは秀次でした(秀吉と秀長は仲たがいしたのか)。
清正と三成の対立は、のちの関ヶ原につながる豊臣家臣団の亀裂として知られています。ドラマはその芽を、この年頭の儀に置いているのかもしれません(加藤清正・福島正則と石田三成はなぜ不仲だったのか)。
よくある質問
Q. 天正17年の秀次は何歳でしたか?
A. 永禄11年(1568)生まれなので、22歳(数え年)です。
Q. 秀次の本拠はどこでしたか?
A. 近江の八幡山城です。城下町はいまの近江八幡の町並みのもとになりました。
Q. 秀次の宿老にはだれがいましたか?
A. 田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らです。
Q. 秀次はいつ関白になりましたか?
A. 鶴松が亡くなった天正19年(1591)の12月です。
まとめ
天正17年の秀次は、近江八幡山城を本拠とする22歳の大名で、宿老たちに支えられながら領国を治めていました。秀吉に実子のないあいだは跡継ぎの有力な候補でしたが、5月に鶴松が生まれたことで、その立場は大きく変わります。翌年の小田原攻め、さらに関白就任へと続く秀次の歩みの中で、天正17年は運命が静かに動きはじめた一年でした。
参考:『多聞院日記』/『鹿苑日録』/藤田恒春『豊臣秀次』吉川弘文館/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書

