秀吉が関白になれたのは、近衛前久が猶子として受け入れたからです。関白は藤原氏の血筋にしか許されない職で、秀吉にはその血がありません。前久が「自分の子ということにする」と署名したことで、その壁が越えられました。ではこの公家は、なぜそんなことを引き受けたのか。前久という人は、そもそも京にじっとしている関白ではありませんでした。
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関白のまま、越後へ下った人
近衛家は五摂家の筆頭です。その当主が関白をつとめるのは当たり前ですが、関白のまま関東や越後へ下った人は、前久のほかにいません。
前久は上杉謙信を頼って越後へ下向し、義兄弟の契りを結んだと伝わります。関東の情勢にも深く関わりました。公家の最上位にいながら、武家の世の中へ自分から入っていったわけです。
この行動力は、当時の公家の常識からすると異様です。応仁の乱以降、公家の多くは所領を失い、都で細々と暮らしていました。前久は逆に、外へ出ていきました。
謙信との縁は深く、越後の御館や飯山城といった上杉の拠点は、この人が関東へ動いた時期と重なる場所にある。
図でみる|京にいなかった関白
図|公家でありながら、武家の世に深く入りこんだ人でした。
京を離れていた期間の長さは、のちに秀吉が京で地歩を固めていく過程と並べると際立つ。片方は都にいながら動けず、片方は外から来て積み上げた。
信長とは、鷹狩の仲間だった
前久は織田信長とも親しく交わりました。石山本願寺と信長の講和を取りもったのも前久です。
二人をつないだものの一つが鷹狩でした。前久は鷹に詳しく、信長に鷹を贈り、ともに狩りに出ています。京で行われた馬揃えにも列しました。
武家の棟梁と、公家の頂点が、鷹を飛ばして一日を過ごす。これは当時としても珍しい光景です。
信長という人は、家柄で人を区別しなかった。公家の最高位にある相手と鷹の話で付き合えたのは、そのためでもある。
本能寺のあと、疑われた
本能寺の変のとき、前久の屋敷は二条御新造の隣にありました。
信長の嫡男・信忠が立てこもった二条御新造へ、隣接する建物の屋根から明智勢が矢を射かけたと伝わります。そのため前久が明智に加担したのではないかという疑いがかかりました。
前久は京を離れ、しばらく身を隠しています。のちに疑いは解けて戻りますが、この一件は「本能寺の変の黒幕は近衛前久だった」という説が語られる根拠の一つになりました。
明智光秀との関わりを疑われた、という形である。本能寺のあと、京にいた者はみな身の証を立てなければならなかった。
五摂家とは何か ─ 関白になれる五つの家
前久の立場を理解するには、まず五摂家という枠組みを押さえておく必要がある。
摂政と関白は、誰でもなれる役ではない。藤原氏の嫡流にあたる五つの家からしか出ないと決まっていた。その五家が、近衛・九条・二条・一条・鷹司である。
もとは一つの家だった。藤原北家の嫡流が鎌倉時代に近衛と九条に分かれ、近衛からさらに鷹司が、九条から二条と一条が分かれて、五つになった。以後この五家が順番に摂政・関白をつとめる形が続く。七百年ほど、この枠の外から関白が出たことはなかった。
近衛家は、その五家の筆頭である。前久はその当主だった。
だから「秀吉が関白になった」という一行は、見た目より重い。百姓の子が偉くなった、という話ではない。藤原氏でない人間が、七百年動かなかった枠を破ったということである。枠を破るには、枠の内側に入れてくれる人が要った。それが前久だった。
この枠がどれだけ重いものだったかは、秀吉が将軍ではなく関白を選んだ理由を見ると分かりやすい。
関白相論の発端は、「右大臣は縁起が悪い」だった
もうひとつ、あまり知られていない事実がある。この争いのきっかけを作ったのは秀吉自身だ、という点である。
秀吉は朝廷から右大臣に推されたが、これを断っている。理由は、信長が右大臣を最後の官職として本能寺で討たれたからだった。縁起が悪い、というわけである。
そこで秀吉は、右大臣を飛ばして左大臣を望んだ。ところが左大臣の席には、すでに近衛信輔が座っている。秀吉を左大臣にするには、信輔にどいてもらわなければならない。
信輔は当然、ただでは動かない。左大臣を譲る前に関白になっておきたいと言い出した。一方、現職の関白だった二条昭実は「二条家では、関白が一年以内に辞めた例がない」と主張して譲らない。信輔のほうは「近衛家では、前官の身で関白になった例がない」と返す。
どちらも先例を盾にしている。七百年続いた持ち回りの順番は、こういう理屈で動いてきた。だから止まると、誰にも動かせなくなる。
秀吉がこの時期、京で何を積み上げていたかは別の記事で時系列に追っている。官位は、いきなり飛びつけるものではなかった。
動かした人 ─ 菊亭晴季という仕掛け人
止まった争いを動かしたのは、当事者ではなかった。
公家の菊亭晴季(きくてい はるすえ)である。晴季は秀吉に、いっそ自分が関白になってはどうかと勧めた。そして前久のもとへは、秀吉を猶子に迎えて関白を継がせ、将来は信輔に譲らせるという案を持ち込んだ。秀吉側では京都での差配にあたっていた前田玄以が動いている。
前久は、秀吉と特別に仲が良かったわけではない。藤原氏でない者へ関白を渡すのは、屈辱でもあったはずだ。それでも受けたのは、秀吉があくまで「近衛家の一員として」継ぐ形になること、争いが長引けば近衛家の面目がつぶれること、そして将来は息子に戻ると約束されたことによる。断れる相手でもなかった。
天正十三年七月十一日、秀吉は関白となる。争っていた二条昭実、近衛信輔、そして仕掛けた菊亭晴季には、いずれも従一位が与えられた。近衛家には千石、ほかの摂家にも五百石が加増されている。もめごとの当事者全員に、褒美が配られた。
将来は信輔に返す、という約束も、形のうえでは果たされた。ただし実際に信輔が関白になったのは、この争いから二十一年目である。間には薩摩への流罪があった。
秀吉を猶子に迎える
そして天正十三年、秀吉が関白の座を求めます。
ここで問題になるのが血筋でした。関白は藤原氏の流れをくむ五摂家─近衛・九条・二条・一条・鷹司─の者しか就けない職です。尾張の農民の子に、その血はありません。
解決の形が、猶子でした。前久が秀吉を猶子として受け入れる。これで秀吉は藤原の姓を名のれるようになり、関白への道が通ります。
猶子という言葉の意味は、次の節で詳しく見る。千利休のように、身分の違う者が関白のそばに立てた時代でもあった。
猶子と養子は、どう違うのか
ここは混同されやすいところです。
養子は家に入り、財産や家督を継ぐ立場になります。実の親子と同じ扱いです。
猶子はもっと軽い結びつきで、名字や家格を借りるための形式的な親子関係です。財産も家督も動きません。「なお子のごとし」という言葉のとおり、子のようなもの、という意味です。
秀吉が欲しかったのは近衛家の財産ではなく、藤原の血筋という資格でした。だから猶子で足りたのです。
なお、秀吉の甥は二度とも「養子」として他家へ出されています。こちらは本当に家を継ぐ話でした。
豊臣秀次はなぜ「三好信吉」と名のっていたのか:長宗我部包囲網と、二度養子に出された甥
代償を払ったのは、息子だった
この話には、あまり語られない続きがあります。
秀吉が関白を望んだとき、近衛家では前久の実子・信輔が関白の座を目前にしていました。二条昭実との間で順番を争っていたのが、いわゆる関白相論です。
秀吉はこの争いに割って入り、自分が関白になりました。父が猶子の形を差し出したことで、実の息子が座を逃したことになります。
信輔はのちに信尹と名を改め、朝鮮出兵に加わろうとして秀吉の怒りを買い、薩摩へ流されました。関白になれたのは、それからさらに後のことです。
関白就任の全体像は、こちらで詳しく扱っています。
この人がいなければ、豊臣政権はなかった
秀吉の関白就任は、武力ではなく手続きで成し遂げられています。その手続きの要に、近衛前久の署名がありました。
前久が引き受けた理由を、史料は語っていません。ただ、この人が若いころから武家の世に出入りしていたことを思えば、公家の枠にこだわらない判断ができた人だったとは言えます。関白のまま越後へ下り、信長と鷹を飛ばした人です。
身分の壁を、壊さずにくぐる。秀吉が選んだこの方法は、前久という前例のない公家がいたから成り立ちました。
関白とは ─ 摂政・太閤との違いと、就任できた五つの家
七百年、五摂家の外から関白は出ませんでした。その枠の中身を解説しています。
関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣の序列
どれがいちばん偉いのか。清盛・信長・秀吉・家康はどの位まで上ったのか。
秀吉が猶子として名のった藤原氏をはじめ、源・平・橘を含む四つの氏の由来は源平藤橘とはでまとめています。

