- 黒田官兵衛(孝高)は、天正17年(1589)5月ごろ、44歳で家督を嫡男の長政に譲り、隠居しました。このあと出家して「如水」と名のります
- 隠居の理由としてよく語られるのが、秀吉に才能を警戒されたため、という話です。ただしこれは江戸時代の逸話集に出てくるもので、そのまま史実とは言えません
- 実際には、豊前の領国が落ち着いたこと、有岡城の幽閉で体が不自由になっていたこと、そして官兵衛自身は秀吉のそばで働き続けたいと考えたことなど、いくつかの事情が重なったと考えられます
- 隠居後も官兵衛は秀吉の側近として、小田原攻めでは北条氏との交渉にあたり、朝鮮出兵にも加わりました。隠居は引退ではありませんでした
『豊臣兄弟!』第45回「天下人の暴走」では、秀長を遠ざけた秀吉に、黒田官兵衛が「それは間違いだ」と意見する場面があるようです。この天正17年(1589)は、官兵衛自身にとっても節目の年でした。44歳の若さで家督を長政に譲り、隠居したのです。まだ働き盛りの名軍師が、なぜこの年に身を引いたのでしょうか。この記事では、よく語られる「秀吉に恐れられたから」という話と、史実から見える事情を見くらべます(黒田官兵衛とは)。

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豊前12万石の大名になった官兵衛
天正15年(1587)の九州攻めのあと、官兵衛は豊前国の6郡、およそ12万石を与えられ、中津に入りました。秀吉の天下取りを支えた功績から見ると、決して大きな領地ではありません。
しかも入国してまもなく、豊前では国人たちの一揆が起こります。中でも城井谷の城井鎮房は手ごわく、黒田家は苦戦しました。最後は天正16年、長政が中津城で鎮房を討ち、城井氏の一族も滅ぼされて、ようやく豊前は落ち着きを取りもどします。官兵衛の隠居は、その翌年のことでした。
「秀吉に恐れられたから」という話
官兵衛の隠居について、もっともよく知られているのが次のような話です。あるとき秀吉が近臣に「自分の次に天下を取るのはだれか」とたずね、家康や前田利家の名前が挙がる中、秀吉は「官兵衛だ」と答えた。それを伝え聞いた官兵衛は、秀吉に疑われることを恐れ、すぐに隠居を願い出た、というものです。
官兵衛の才覚と、秀吉の猜疑心をよく表した話ですが、これは江戸時代に書かれた逸話集に出てくるもので、同時代の史料で確かめられるわけではありません。12万石という領地の小ささも「秀吉が官兵衛を警戒したから」と説明されることがありますが、これも後の時代の見方です。
史実から見える隠居の事情
では、実際にはどのような事情があったのでしょうか。はっきりした理由を書いた史料はありませんが、いくつかの事情が考えられます。
| 考えられる事情 | 内容 |
|---|---|
| 領国が落ち着いた | 城井鎮房を討って豊前の一揆がおさまり、長政に国をまかせられるようになった |
| 体の不自由 | 天正6年から有岡城に一年近く幽閉され、足が不自由になったと伝わる |
| 中央での仕事 | 官兵衛は秀吉のそばで軍事や交渉にあたることが多く、領国の経営は長政にまかせたほうが動きやすかった |
| 家を守る | 早めに家督を譲り、長政を当主として秀吉に認めさせることで、黒田家の行く末を固めた |
とくに大きいのは、官兵衛の役割です。官兵衛は大名であると同時に、秀吉の側近として各地の戦や交渉に駆り出される立場でした。中津で国を治めながら秀吉のそばに仕えるのは、もともと無理があります。当主の座を長政に譲れば、官兵衛は身軽になって中央で働き続けられ、長政は豊前の大名として経験を積むことができます。隠居は、黒田家にとって理にかなった役割分担だったともいえるでしょう。

隠居しても第一線にいた如水
隠居した官兵衛は出家して如水と名のりますが、その後も表舞台から退いたわけではありません。翌天正18年の小田原攻めでは、小田原城に入って北条氏直に降伏をすすめる交渉にあたりました(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。文禄・慶長の朝鮮出兵でも海を渡っています。
そして秀吉の死後の関ヶ原の戦いのときには、九州で兵を集めて独自に戦いました。隠居から十年以上たっても、官兵衛は戦国の策士であり続けたのです。
秀長と官兵衛 ─ 秀吉に意見できた二人
天正17年は、秀長が正月の拝謁を許されず、兄弟の間に距離が生まれた年でもあります。秀長と官兵衛は、四国攻めや九州攻めでともに戦った間柄で、どちらも秀吉に直言できる数少ない人物でした(秀吉と秀長は仲たがいしたのか)。ドラマで官兵衛が秀吉に意見する場面は、天下人のまわりから物を言える人が減っていく、この年の空気を映したものといえそうです。
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よくある質問
Q. 黒田官兵衛はいつ隠居しましたか?
A. 天正17年(1589)、44歳のときに家督を嫡男の長政に譲りました。
Q. 官兵衛はなぜ隠居したのですか?
A. はっきりした理由は残っていませんが、豊前が落ち着いたこと、体の不自由、秀吉の側近としての仕事などが考えられます。
Q. 秀吉に恐れられて隠居したというのは本当ですか?
A. 江戸時代の逸話集に出てくる話で、同時代の史料では確かめられません。
Q. 隠居後の官兵衛は何をしていましたか?
A. 如水と名のり、小田原攻めの交渉や朝鮮出兵などで活躍しました。
まとめ
黒田官兵衛は天正17年、44歳で家督を長政に譲って隠居しました。「秀吉に恐れられたから」という話は有名ですが、江戸時代の逸話にもとづくもので、実際には豊前の安定や体の不自由、秀吉の側近としての役割など、いくつかの事情が重なったと考えられます。隠居後も如水として第一線で働き続けたことを見れば、それは引退ではなく、黒田家の役割分担だったといえるでしょう。
参考:『黒田家譜』/諏訪勝則『黒田官兵衛』中公新書/小和田哲男『黒田如水』ミネルヴァ書房

