- 第44回「ある家臣の死」は11月15日(日)放送の予定です。秀長の家臣・吉川平介が、方広寺の大仏造営のための熊野の材木をめぐって死罪となる回になりそうです
- 史実では天正16年(1588)、平介は秀長の命で熊野の木を伐り出して大坂で売り、その代金を着服したとされます。それが秀吉の耳に入り、12月5日に大和の西大寺で処刑されました
- この事件で秀長は「天下の面目を失った」とされ、翌年の正月、秀吉への拝謁を許されませんでした。兄弟の間に、目に見える距離が生まれた出来事です
- 一方で、平介の妻子は罪に問われていません。処罰は平介一人にとどめられました
『豊臣兄弟!』第44回のサブタイトルは「ある家臣の死」です。その家臣とは、秀長に仕え、四国攻めでは船を差配し、紀伊・熊野では山の木を任された吉川平介(ドラマでは吉川平助、松岡広大さん)です。この記事では、第44回の舞台となる天正16年から17年の出来事を、四本の補助線でたどります。前回の第43回については第43回「殿下の刀狩り」あらすじ予想と史実をどうぞ。

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この回の舞台で実際に起きたこと
第44回の舞台は、刀狩令が出された天正16年の後半から、翌17年のはじめにかけてです(史実ではこの後どうなる?第38回以降の年表)。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 天正16年 | 方広寺の大仏造営が進み、諸国から材木が集められる |
| 天正16年 | 吉川平介が秀長の命で熊野の木を伐り出し、大坂で売る |
| 天正16年12月5日 | 平介が大和の西大寺で処刑され、首が京にさらされる |
| 天正17年正月 | 秀長が年頭の礼で秀吉への拝謁を許されない |
| 天正17年5月 | 茶々が鶴松を産む |
| 天正17年11月 | 北条方が名胡桃城を奪う(名胡桃城事件) |
補助線①:方広寺の大仏と材木
秀吉は京の東山に、奈良の大仏をしのぐ大仏を建てようとしていました。刀狩令で「取り上げた刀は大仏の釘に」とうたった、あの大仏です。巨大な大仏殿には大量の材木が必要で、諸国の大名に木を出させたほか、紀伊の熊野からも大量の木が伐り出されました(方広寺の大仏とは、熊野の木はなぜ豊臣政権に狙われたのか)。
補助線②:吉川平介とはどんな人だったのか
吉川平介は秀長の家臣で、四国攻めでは船の手配を担い、紀州攻めのあとは紀伊で山の木を管理する役目についたとされます。熊野の木を伐り出し、川に流して運ぶ仕事は、秀長の領国経営と豊臣家の大工事をつなぐ要でした(吉川平介とは、秀長は紀伊をどう治めたのか)。
補助線③:なぜ平介は死罪になったのか
天正16年、平介は秀長の命により熊野の木を伐り出して大坂で売りました。その数は二万本余りと伝わります。問題はその代金で、平介はこれを着服したとされます。この話は秀長を飛び越えて秀吉の耳に入り、平介は12月5日、秀長の領国・大和の西大寺で処刑されました。この事件は、奈良・興福寺の僧が書いた『多聞院日記』に記されています(吉川平介とは)。
補助線④:秀長はなぜ拝謁を許されなかったのか
家臣の不正の責めは、主君の秀長にも及びました。秀長は「天下の面目を失った」とされ、翌天正17年の正月、年頭のあいさつで秀吉に会うことを許されませんでした。正月の拝謁は、豊臣家の序列を目に見える形で確かめる場です。そこに出られなかったことは、弟の立場が一段下げて示されたことを意味しました。仲がよかったと伝わる兄弟の間に、はっきりとした距離が見えた出来事です。
次回以降に効いてくること
第45回「天下人の暴走」(11月22日放送予定)では、秀吉のふるまいがさらに強引になっていくようです。天正17年5月には茶々が鶴松を産み、秀吉は跡継ぎを得ます。そして11月には北条方が真田の名胡桃城を奪い、翌年の小田原攻めへと動いていきます(名胡桃城事件とは、豊臣鶴松はなぜ三歳で死んだのか)。
よくある疑問
Q. 第44回はいつ放送ですか?
A. 11月15日(日)の予定です。
Q. 「ある家臣」とはだれですか?
A. 秀長の家臣・吉川平介(ドラマでは吉川平助)と考えられます。
Q. 吉川平介はいつ処刑されたのですか?
A. 天正16年(1588)12月5日、大和の西大寺で処刑されました。
Q. 秀長は罰を受けたのですか?
A. 翌年正月の年頭の礼で、秀吉への拝謁を許されませんでした。
まとめ
第44回「ある家臣の死」の舞台は、方広寺の大仏造営のために熊野の木が大量に伐り出された天正16年です。その木の代金をめぐって秀長の家臣・吉川平介が処刑され、秀長も正月の拝謁を許されませんでした。家臣を守れなかった秀長と、弟にも示しをつけた秀吉。天下人となった兄と、それを支えてきた弟の関係に、初めて目に見えるひびが入った回として描かれそうです。
参考:『多聞院日記』/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書/和田裕弘『豊臣秀長』中公新書
