豊臣秀次は、若い頃「三好信吉」と名のっていました。豊臣でも羽柴でもなく、三好。なぜ秀吉の甥が、阿波の名族の姓を名のっていたのか。理由をたどると、意外な名前に行き当たります。長宗我部元親です。清須会議のあと、織田信孝は土佐の元親と手を結んで秀吉を南から包囲しようとしました。秀吉はこれに対抗するため、阿波の三好康長と誼を通じ、その証しとして甥を養子に出したのです。「三好信吉」という名前そのものが、四国をめぐる外交の産物でした。
- 三好信吉は、のちの豊臣秀次。実父は三好吉房、実母は秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀尼)
- 秀次は二度養子に出されている。宮部継潤の養子、次いで三好康長の養子
- 三好家への養子入りは、織田信孝と長宗我部元親の連携に対抗する政略だった
- 「信」は織田信長から、「吉」は羽柴秀吉から一字ずつ取られたと考えられている
- 秀吉が秀次と養子縁組した明証は確認されていない
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三好信吉とは、豊臣秀次のことである
まず名前の整理から。白山林で大敗した三好信吉と、秀次事件で切腹させられた豊臣秀次は同一人物です。
この人は生涯で名を四回変えています。名前が変わるたびに、立場も変わっている。逆に言えば、名前を追えば秀吉の戦略の変化がわかるのがこの人物の面白いところです。
父は三好吉房、母は秀吉の姉
実父は三好吉房。もとは弥助と呼ばれた尾張の人で、のちに常閑と号しました。実母は瑞竜院日秀尼、すなわち秀吉の姉の「とも」です。
つまり秀次は秀吉の甥にあたります。秀吉には実子が長く生まれませんでしたから、姉の子であるこの甥は、早くから政治の駒として使える存在でした。実際そのとおりになります。
ちなみに父の吉房も「三好」を名のっています。息子が三好家に入ったことにともなう改姓で、もとから三好一族だったわけではありません。
一度目の養子 ― 宮部家へ
最初の養子入りは、元亀二年(一五七一)ごろでした。相手は宮部継潤。当時は浅井長政の家臣です。
これは秀吉が、宮部継潤を織田方へ寝返らせるために打った手でした。甥を差し出すことで本気を示す。もっとも実態としては人質の意味合いが強いものです。このとき秀次は「宮部次兵衛尉吉継」と名のっていました。
長浜城を与えられて秀吉が大名になっていく時期、北近江の調略はその足場づくりでした。甥はその代価として差し出されたことになります。
二度目の養子 ― 三好康長へ
宮部家にいたのは天正十年(一五八二)までです。この年、秀次はもう一度養子に出されます。行き先が三好康長でした。以後、名は「三好孫七郎信吉」となります。
天正十年といえば本能寺の変の年であり、清須会議の年でもあります。養子入りは六月から十月ごろとされますから、まさに織田家の後継争いのただ中のことでした。
なぜ三好だったのか ― 長宗我部包囲網
ここが核心です。
清須会議ののち、羽柴秀吉と柴田勝家・織田信孝の対立が激化した。織田信孝は土佐の長宗我部元親と友好関係を結び、秀吉を畿内の南から包囲しようと画策。秀吉は阿波の三好康長と誼みを通じることでこれに対抗した。
地図で見るとわかりやすい。秀吉の本拠は畿内です。北に柴田勝家、東に織田信孝(岐阜)。そこへ南の四国から長宗我部元親が加わると、三方から挟まれます。
そこで秀吉は、四国の内側に楔を打ちました。阿波には三好という古い勢力がいる。元親に押されて衰えてはいるが、名は残っている。その家と組めば、元親の背後を騒がせることができる。甥を養子に入れるというのは、その同盟をいちばん強い形で示す方法でした。
だから「三好信吉」という名前は、単なる改姓ではありません。長宗我部元親に対する宣戦の看板だったのです。のちに秀長を総大将とする四国攻めで長宗我部が屈服させられるまで、この構図は続きます。元親と弟たちが四国を切り取っていたちょうどその裏側で、こうした手が打たれていました。
三好康長とは何者だったのか
養父となった三好康長は、三好一族の長老格にあたる人物です。笑岩とも号しました。
興味深いのは、この人が武辺一辺倒ではなかったことです。織田信長も一目置くほどの当代一流の文化人で、茶会や連歌会に名を連ねる人物でした。秀吉が組む相手として、格式という点でも申し分なかったわけです。
長宗我部元親が阿波へ攻め込んでいた時期ですから、三好にとっても秀吉と組む理由がありました。利害が完全に一致した縁組です。
「信」は信長から、「吉」は秀吉から
「信吉」という名も、よく考えられています。「信」は織田信長から、「吉」は羽柴秀吉から一字ずつ取られたと考えられています。
織田家の権威と、秀吉個人の後ろ盾。その両方を名前一つで背負わせている。当時の秀吉はまだ織田家中の一武将にすぎませんから、信長の字を使うことには意味がありました。
ちなみに同じころ、長宗我部元親の嫡男も信長から一字を受けて信親と名のっています。信長は四国をめぐって両方に字を与えていたことになります。もっともその関係はのちに崩れ、織田家は長宗我部討伐を決めました。それを止めたのが本能寺の変です。
三好の名を捨てたとき
三好を名のっていた期間は、そう長くありません。天正十二年(一五八四)の三月から六月ごろ、秀次は羽柴孫七郎信吉と改めます。養家を離れ、羽柴の一門に戻ったのです。
ここで注意したいことがあります。白山林の戦いは天正十二年四月九日。ちょうど改名の時期に重なります。そのためこの戦いの敗将を「三好信吉」と呼ぶ資料と「羽柴信吉」と呼ぶ資料があり、どちらが正確かは断定しにくいところです。
さらに翌天正十三年(一五八五)三月、紀州攻めのころには羽柴孫七郎秀次となります。ここでようやく「秀次」が登場しました。のちに豊臣姓を与えられ、関白となり、そして秀次事件で命を落とします。
秀吉の養子だったのか
この違いは小さく見えて重要です。養子でないなら、秀次の地位は制度に支えられていない。秀吉の気持ち一つで動く立場だったことになります。鶴松の死と拾(秀頼)の誕生が、そのまま秀次の運命を決めてしまった理由も、ここから理解できます。
三好信吉・豊臣秀次ゆかりの城
- 八幡山城 天正十三年に近江を与えられて築いた居城。安土城の遺構を多く取り入れている
- 聚楽第 関白となった秀次が居所とした。秀次事件ののち破却された
- 小牧山城 小牧・長久手で家康が本陣を置いた城
- 岩崎城 白山林の直前、秀次軍の進路上にあった徳川方の城
- 長浜城 秀吉が初めて城主となった城。宮部家への養子入りはこの時期にあたる
- 安土城跡 八幡山城に遺構が移されたとされる城
このほか、天正十八年に尾張・伊勢を与えられて入った清洲城、そして晩年に秀吉から詰問を受けた伏見城も、この人の生涯に深く関わっています。
まとめ
「三好信吉」という名前は、秀吉が四国をどう見ていたかの記録です。織田信孝と長宗我部元親が組んで南から迫る。それに対して阿波の三好と手を結び、甥を送り込む。名前が政治そのものでした。
そして名前が変わるたびに、この人の立場も変わっていきます。人質としての宮部吉継、同盟の証しとしての三好信吉、羽柴一門としての秀次、そして関白。自分で選んだ名前が一つもないのが、豊臣秀次という人の生涯を言い当てているようにも見えます。
