桑山重晴(くわやま しげはる)は、豊臣秀長を支えた家老のひとりです。大永四年(一五二四)に尾張で生まれ、丹羽長秀の与力から秀吉の奉行衆、そして秀長の配下へと移りました。賤ヶ岳の戦いでは山頂の砦を守り、紀州攻めのあとは和歌山城を任されます。秀長・秀保が相次いで世を去ったあとも生き残り、関ヶ原では東軍について家を残しました。慶長十一年(一六〇六)、八十三歳で没しています。

和歌山城の門と石垣。大きさも形もそろわない自然石を積んだ古い積み方が、下半分に残っています。
丹羽長秀の与力から、秀吉の奉行衆へ
重晴は尾張の生まれで、はじめ織田家に仕えました。所属は丹羽長秀の与力です。信長のもとで長秀は築城や兵站を担う実務型の武将でしたから、その下にいた重晴も、戦うより差配する側の経験を積んだと考えられます。
本能寺のあと、清須会議を経て秀吉の力が伸びていくなかで、重晴は秀吉の奉行衆に入ります。秀長の家臣団に実務型の人材が多いのは、こうした経歴の者を集めたからです。
天正十年ごろには但馬の竹田城主になっています。山名氏の押さえとして、但馬の要地を任されたことになります。
竹田城を預かっていた時期
天正十年ごろ、重晴は但馬の竹田城主になっています。いまは雲海に浮かぶ城として知られる、あの山城です。
但馬は山名氏の国で、秀吉が中国攻めの過程で押さえた土地でした。竹田城はその要にあたります。ここを任されたということは、最前線の押さえを託されたということです。高取城や竹田城のような山城は、守るだけでなく街道をにらむ役割を持っていました。
重晴は長男をこの竹田城で亡くしています。城主としての在任は長くなく、その後、紀伊へ移っていきました。いまの竹田城の総石垣は後任の赤松広秀の時代に整えられたとされますから、重晴が見た竹田城は、もう少し素朴な姿だったはずです。
賤ヶ岳の砦 ── 退いたことが、時間を稼いだ
天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳の戦いで、重晴は山頂の賤ヶ岳砦を守っていました。佐久間盛政の奇襲で大岩山が落ち、中川清秀が討たれたあと、次に危なくなったのがこの砦です。
重晴は砦を放棄して退きます。守り抜いたのではなく、下がったのです。ただ、この退却が結果として時間を稼ぎました。秀吉が美濃から戻ってくるまで、戦線を壊さずに持ちこたえたことになります。やがて丹羽長秀の軍と合流し、反撃に加わりました。
四月二十七日に加増を受けていますから、秀吉はこの動きを評価したことになります。玉砕を求めず、退いて生き残ることを咎めない。蜂須賀小六のような古参とはまた違う、実務家の生き方です。
紀州攻めのあと、和歌山城を任される

木立ごしに見える和歌山城。手前の石垣と白壁は、時代の違う部分が重なっています。
天正十三年(一五八五)、秀吉は紀州を攻めます。根来衆が焼かれ、高野山は降伏して焼かれずに済みました。この平定のあと、論功行賞で秀長が大和・紀伊・和泉の三か国を得ます。
紀伊の拠点として築かれたのが和歌山城で、重晴がその城主(城代)となりました。秀長は郡山城にいますから、紀伊は重晴が現地で預かる形です。藤堂高虎が郡山城の普請を担ったように、重晴は紀伊を担当しました。
紀州は一向宗と鉄砲を持つ雑賀・根来の土地です。力で押さえつけるだけでは収まりません。八十歳近くまで現役でいられた重晴の粘り強さは、この土地との付き合いで鍛えられた面もあるでしょう。
和歌山城を築いたのは誰なのか
秀長は郡山城にいて大和を見ていますから、紀伊は誰かに任せるしかありません。根来衆と雑賀衆を平定したばかりの土地です。鉄砲を持った集団が消えたわけではなく、そこへ据えられたのが重晴でした。
桑山家のその後
- 孫・一晴 … 関ヶ原のあと和歌山二万石を継ぎ、のちに大和へ移されます
- 次男・元晴 … 一万石を分知されました
- 清晴 … 谷川藩の二代目。幕府の勘気を受けて廃藩となり、所領は本家に吸収されています
- 大和での存続 … 桑山家は大和の小藩として江戸時代を通じて続きました
華々しい加増はありません。かわりに、家が消えなかった。大和大納言家が一代で絶えたのと並べてみると、この差がはっきりします。仕える家が消えても実務の腕がある者は使い道があった、という話でもあります。
重晴が八十三まで生きたことも大きい。秀長は五十二、秀保は十七で世を去りました。家を継がせるだけの時間があったかどうかが、そのまま結果に出ています。
秀長・秀保の死と、生き残った家
天正十九年(一五九一)に秀長が没し、跡を継いだ秀保も十七歳で亡くなります。大和大納言家は絶えました。仕える家が消えるというのは、家臣にとって最大の危機です。
重晴は秀吉の直臣となって生き延びました。文禄四年(一五九五)には和泉の谷川へ移り、一万六千石を領します。石高は減りましたが、家は残りました。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原では東軍につき、和歌山城を守っています。畿内にいて東軍を選ぶのは危ない賭けでしたが、これも当たりました。孫の一晴が和歌山二万石を継ぎ、桑山家は江戸時代へ続きます。
もし秀長があと十年生きていたらという話をするとき、重晴のような家臣がどうなったかは考えどころです。主家が消えても実務の腕がある者は使い道があった、ということでもあります。
千利休に学んだ茶人でもあった
重晴は茶人としても知られ、千利休に学んでいます。戦国の武将にとって茶は趣味ではなく、交渉と社交の場でした。秀吉が利休を切腹させたあとも、利休門下の人脈は豊臣政権のなかで生きています。
実務を担い、茶席に出て、八十三まで生きる。派手な武功で名を残す型ではありませんが、秀長という人の下で働いた者には、こういう顔ぶれが揃っていました。
よくある疑問
主君より長生きした家臣が、その家の記憶を後世へ渡すことがあります。重晴はまさにその位置にいました。
まとめ
- 桑山重晴は大永四年(一五二四)尾張の生まれ。丹羽長秀の与力から秀吉の奉行衆、秀長の配下へ進みました
- 天正十年ごろ但馬竹田城主。賤ヶ岳の戦いでは山頂の砦を守り、退却して時間を稼ぎました
- 紀州平定のあと和歌山城を任され、秀長の紀伊支配を現地で支えました
- 秀長・秀保の死後は秀吉の直臣となり、和泉谷川で一万六千石
- 関ヶ原では東軍につき、孫の一晴が和歌山二万石を継ぎました。慶長十一年に八十三歳で没しています
武功で語られる武将ではありません。ただ、仕える家が二度消えてなお家を残したという点では、戦国を生き抜いた型のひとつです。
