- 天正17年(1589)は、秀吉が天下統一の仕上げにかかった年です。豊臣家の中では、跡継ぎの鶴松が生まれる一方、秀長が正月の拝謁を許されないなど、のちの変化の芽が見えはじめます
- 春には聚楽第の落書事件で多くの人が処刑され、5月には同じ聚楽第で金銀をばらまく金賦りが行われました。天下人の力が、恐れと恩の両面で示された一年でした
- 外では、伊達政宗が会津の蘆名氏を滅ぼし、北条氏は名胡桃城を奪います。秀吉は11月、北条氏に宣戦を告げ、翌年の小田原攻めが決まりました
- 秀長・鶴松・利休を一度に失う「天正十九年」の二年前。天正17年は、豊臣政権がもっとも勢いにあふれ、同時にゆがみを抱えはじめた年といえます
『豊臣兄弟!』第45回「天下人の暴走」の舞台は、天正17年(1589)です。この年、豊臣家では待望の男子・鶴松が生まれ、秀吉の権勢は頂点に向かいます。その一方で、聚楽第の落書事件や秀長の拝謁拒否など、天下人の「暴走」とも見えるできごとが続きました。この記事では、天正17年の一年を月ごとにたどり、豊臣政権がどのような転機を迎えていたのかを整理します。当サイトの「天正十九年に何が起きたのか」と対になる記事です。
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天正17年の年表
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 正月 | 秀長、前年の吉川平介の事件の責めを負い、年頭の拝謁を許されない |
| 正月末 | 秀長が、身ごもった茶々のために淀城の改修にあたる |
| 2月25日 | 聚楽第の白壁に秀吉を批判する落書が見つかる |
| 3月 | 尾藤道休が本願寺で自害。番衆や天満の町の人びとが処刑される |
| 5月20日 | 聚楽第で金賦り。大名や公家に金銀を配る |
| 5月27日 | 茶々が淀城で鶴松を産む |
| 5月ごろ | 黒田官兵衛が隠居し、家督を長政に譲る |
| 6月 | 伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を破り、会津を手に入れる |
| 7月ごろ | 秀吉が沼田を裁定し、北条と真田の領分を分ける |
| 秋 | 諸大名の妻子を京に住まわせるよう命じる |
| 10月 | 北条方が真田方の名胡桃城を奪う |
| 11月24日 | 秀吉が北条氏に宣戦を告げる |

春 ─ 秀長の拝謁拒否と、聚楽第の落書事件
天正17年は、秀長にとって苦い正月から始まりました。前の年、秀長の家臣・吉川平介が熊野の材木の代金を着服したとして処刑され、その責めを負った秀長は、秀吉への年頭のあいさつを許されなかったのです。それでも秀長は、まもなく茶々のための淀城の改修を任されており、兄弟の関係が断ち切られたわけではありませんでした(秀吉と秀長は仲たがいしたのか)。
2月25日の夜、聚楽第の白壁に、秀吉を批判する落書が書かれます。犯人はわからず、秀吉はその夜の番衆を処刑し、容疑者をかくまった本願寺を追及して、天満の町の人びとまで磔にしました(聚楽第の落書事件とは)。

初夏 ─ 金賦りと鶴松の誕生
5月20日、秀吉は聚楽第に一族や公家、大名を集め、山のように積んだ金銀を配りました。金賦りです。正月に拝謁を許されなかった秀長が、ここでもっとも多くの金銀を与えられたと伝わります(秀吉の金賦りとは)。
その一週間後の5月27日、茶々が淀城で男子を産みました。のちの鶴松です。53歳の秀吉にとって初めての確かな実子で、秀吉はこの子を跡継ぎに定めます。ただ、長く子のなかった秀吉に子ができたことには、当時から疑いの声もありました(鶴松の父は本当に秀吉なのか、淀城:茶々が鶴松を産んだ城)。
鶴松の誕生は、それまで跡継ぎの候補と見られていた秀次の立場を変えました(天正17年の豊臣秀次は何をしていたのか)。また同じころ、黒田官兵衛が44歳で家督を長政に譲っています(黒田官兵衛はなぜ天正17年に隠居したのか)。
夏から秋 ─ 東国の火種
このころ、天下統一の残る相手は東国の大名たちでした。6月、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を破り、会津を手に入れます。秀吉が出していた惣無事、つまり大名どうしの私戦を禁じる命令に背く行いで、秀吉は政宗の動きに強い不満を抱きました(豊臣平和令とは)。
関東の北条氏とは、上野国の沼田をめぐる問題の決着がはかられました。秀吉は沼田の三分の二を北条氏、名胡桃城をふくむ三分の一を真田氏とする裁定を下し、北条氏は氏政の上洛を約束します。また秋には、諸大名の妻子を京に住まわせるよう命じ、大名たちを豊臣政権のもとに強くつなぎとめようとしました。

冬 ─ 名胡桃城事件と北条への宣戦
ところが10月、北条方の猪俣邦憲が真田方の名胡桃城を奪います。裁定を覆すこの事件に秀吉は激怒し、11月24日、北条氏に宣戦を告げる書状を出しました。こうして翌天正18年の小田原攻めが決まります(名胡桃城事件とは)。
ドラマの第45回では、北条氏政が秀長に兄への下剋上を勧める場面があるようですが、これは史料に見えない創作と考えられます(北条氏政は秀長に下剋上を勧めたのか)。
天正17年から天正19年へ
翌天正18年、秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼし、奥州も従えて、天下統一をなしとげます。しかしその正月には、家康に嫁いでいた妹の旭姫が京都で亡くなりました(旭姫はなぜ駿府ではなく京都で亡くなったのか)。そして天正19年、秀長、千利休、鶴松が相次いでこの世を去ります。
天正17年にまかれた種、つまり跡継ぎをめぐる問題、秀吉に直言できる人の減少、力による支配は、その後の豊臣家の歩みに大きな影を落としていきました。
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- 豊臣秀長の死因は何だったのか
よくある質問
Q. 天正17年は西暦何年ですか?
A. 1589年です。
Q. 天正17年に生まれた秀吉の子はだれですか?
A. 茶々が5月27日に産んだ鶴松です。
Q. 聚楽第の落書事件はいつですか?
A. 天正17年2月25日の夜に落書が見つかりました。
Q. 小田原攻めが決まったのはいつですか?
A. 天正17年11月24日、秀吉が北条氏に宣戦を告げました。
まとめ
天正17年は、鶴松の誕生や金賦りなど豊臣家の勢いが頂点に向かう一方、秀長の拝謁拒否や聚楽第の落書事件のように、天下人の力が身内や庶民にまで厳しく向けられた年でした。外では伊達と北条が火種となり、年末には小田原攻めが決まります。『豊臣兄弟!』第45回「天下人の暴走」は、この転機の年を描く回になりそうです。
参考:『多聞院日記』/『鹿苑日録』/『言経卿記』/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書/柴裕之『羽柴秀長』角川選書

