熊野の木はなぜ豊臣政権に狙われたのか:大坂城と京の大仏殿を支えた紀州材、熊野川の筏流しと吉川平介|『豊臣兄弟!』

熊野の峡谷の川を材木の筏が下るイメージ(イラスト)

紀伊の熊野は、昔から良い木材の産地でした。紀州攻めで紀伊を手に入れた豊臣政権は、大坂城や京の大仏殿を建てるために熊野の木を伐り出させます。伐った木は筏に組まれ、北山川や熊野川を下って河口の新宮に集められ、海を渡って大坂へ運ばれました。熊野の山を秀長のもとで預かったのが山奉行の吉川平介で、その木をめぐる不正が、平介と秀長の運命を変えることになります。

この記事のポイント
  • 紀伊山地は杉や檜などの良材の産地で、昔から上方の市場へ木を出していた
  • 秀吉は紀州攻めのあと、大坂城や京の大仏殿のために熊野の木を伐り出させた
  • 木は筏に組まれて北山川・熊野川を下り、河口の新宮に集められた
  • 熊野の山を預かった山奉行・吉川平介は、木の売り上げをめぐる不正で失脚した
  • 江戸時代には紀州藩が木の伐採を厳しく管理し、徳川家康も江戸城の修築に熊野の木を使った
目次

熊野の木は、なぜ求められたのか

紀伊半島の南部、熊野の山々は雨が多く、杉や檜がよく育つ土地です。昔から良い木材が伐り出され、上方の市場へ送られてきました。大きな建物を建てるには、太くまっすぐな木が欠かせません。熊野は、その条件を満たす数少ない産地のひとつでした。

天正十三年(1585)の紀州攻めで、紀伊は秀長の領国になりました。それは同時に、豊臣政権が熊野の山を手に入れたということでもありました。紀伊の国づくりはなぜ秀吉は太田城を水攻めにしたのかと、紀州攻めのあと秀長が家臣をどう置いたかを扱った秀長は紀伊をどう治めたのかで紹介しています。

大坂城と京の大仏殿 ── 豊臣の大普請

このころの豊臣政権は、次々と大きな普請を進めていました。天正十一年(1583)に始まった大坂城の築城に続き、天正十四年(1586)には京に大仏を造る計画が立てられます。大仏殿は高さ約四十九メートルという巨大な建物で、天正十九年(1591)に柱が立ち、文禄四年(1595)ごろに完成しました。

秀吉は諸大名に、大仏殿の建材にふさわしい巨木を差し出すよう命じました。徳川家康は富士山麓の巨木を運ばせ、島津家は屋久島の杉を伐り出したと伝わります。熊野の木もまた、大坂城や大仏殿のために伐り出されました。大仏の造営で材木の値打ちは大きく上がったと考えられます。京の大仏の歩みは方広寺の大仏とはで紹介しています。

山から海へ ── 北山川・熊野川の筏流し

山で伐った木は、どうやって大坂まで運ばれたのでしょうか。道の険しい熊野では、川が道でした。伐り出した丸太はいかだに組まれ、北山川や十津川(熊野川の上流)を下ります。二つの川は合流して熊野川となり、河口の新宮で海に出ます。新宮に集められた木は、そこから船で大坂や京へ運ばれました。

北山川の筏流しは室町時代にさかのぼるともいわれ、江戸時代には材木の筏流しや炭の運搬がいっそう盛んになりました。熊野川の筏流しは、道路やダムができる昭和三十年代まで続いています。木曽川で材木を運んだ人びとについては川並衆とは何者だったのかでも紹介しています。

▽ よく語られる話
秀吉の時代に、熊野で初めて大がかりな伐採が始まった。
▼ 史実ではこうです
熊野の木は、それ以前から上方の市場に出されていました。豊臣政権が新しく持ち込んだのは、大坂城や大仏殿という巨大な普請のための需要と、それを領主が一手に握る仕組みでした。江戸時代になると紀州藩が山の木を厳しく管理し、許しのない伐採を禁じています。

熊野の山を預かった吉川平介

秀長のもとで熊野の山と木を預かったのが、山奉行の吉川平介でした。紀伊湊の代官として四国攻めの船を手配した平介は、木の値打ちと運び方を知る実務の人でした。その平介が、天正十六年(1588)、熊野の木二万余本を大坂で売り、その代金を着服したとされます。

この不正は秀吉に知られ、平介は失脚しました。責めは主君の秀長にまで及び、秀長は翌年の正月の礼で秀吉への拝謁を許されなかったと、興福寺の僧の日記『多聞院日記』は伝えています。大普請で木の値打ちが跳ね上がっていたことが、この一件の背景にあったと考えられます。秀吉の処罰が主君や家族にまで及んだ例は秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのかで扱っています。

熊野の山と、北山一揆

熊野の山をめぐっては、もうひとつの問題がありました。天正十四年(1586)、奥熊野の北山で地侍たちが蜂起した北山一揆です。原因は検地への反発とされますが、山を暮らしの場としてきた人びとにとって、新しい領主が山と木を握ろうとすることは大きな変化でした。藤堂高虎は山中に赤木城を築いて一揆を鎮めています。

江戸時代の熊野の木と炭

豊臣の時代が終わっても、熊野の木の値打ちは変わりませんでした。徳川家康は江戸城の修築のために熊野から大量の木を取り寄せています。紀州藩はクス・カヤ・ケヤキ・スギ・ヒノキ・マツを守るべき木として指定し、許しのない伐採を禁じました。熊野で焼かれた炭も名産となり、新宮から江戸へ送られて、紀州みかんより名高かったといわれます。紀州藩の城は和歌山城で紹介しています。

『豊臣兄弟!』では

ドラマでは、松岡広大さんが演じる吉川平助が、第36回「姫若子と鬼若子」で紀伊湊の代官として登場しました。史実の平介は、このあと熊野の山奉行として木を扱い、その木で失脚します。ドラマが熊野の木をめぐる一件まで描くのかは、これからの見どころです。描かれれば、秀長が兄の秀吉から叱責を受ける、兄弟の物語の大きな場面になるかもしれません。平助の歩みは吉川平介とはで詳しく紹介しています。

▶ 熊野の木の話が描かれるとしたら(予想)
  • 吉川平助が山奉行として熊野の木を差配する場面
  • 大仏殿の普請で、各地から巨木が集められる場面
  • 平助の不正が明るみに出て、秀長が秀吉の前で頭を下げる場面

ドラマではこう描かれています

▷ 大河ドラマではこう描かれました
第36回「姫若子と鬼若子」で、吉川平助(松岡広大)が紀伊湊の代官として四国攻めの船を手配する新しい家臣として登場しました。四国攻めの回の史実は第36回「姫若子と鬼若子」史実解説で、大和郡山編の史実は第38回「和を以て、大和をなす」で解説しています。
▶ あわせて読みたい

まとめ

熊野の木は、豊臣政権が大坂城や京の大仏殿を建てるために求めた、紀伊の大きな財産でした。筏に組まれて北山川・熊野川を下り、新宮から大坂へ運ばれた木の流れを握ったのが、山奉行の吉川平介です。木の値打ちが上がるなかで起きた平介の不正は、秀長にまで責めが及ぶ一件になりました。秀長の生涯は豊臣秀長とはからどうぞ。

参考

  • 『多聞院日記』
  • 和歌山県教育委員会「わかやま発見」紀州の木材と熊野炭
  • 国土交通省「熊野川(新宮川)の舟運の歴史」
  • 京都市「都市史 大仏殿」
  • URLをコピーしました!
目次