一宮城(阿波):青石で積まれた石垣と竪堀が残る山城、秀長の本隊が取りついた城

一宮城(阿波)/アクセス・場所・地図 長宗我部元親軍と豊臣秀長との間で激戦地となった一宮城

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この記事のポイント
  • 一宮城は、阿波で石垣が残る数少ない山城です。
  • 積まれているのは阿波の青石。平たく割れる土地の石をそのまま使っています。
  • 城主の一宮成祐は、味方だったはずの長宗我部元親に謀殺されました。
  • 四国攻めでは、秀長の本隊がこの城を正面から攻めています。
  • 蜂須賀氏が最初に入った城で、のちに徳島城へ移りました。

一宮城は徳島市一宮町、標高百四十四メートルの山にあります。阿波の城のなかで、本丸まで石垣が残っている珍しい城です。積まれているのは平たく割れる青石で、この土地の石をそのまま使っています。城主だった一宮成祐は、味方についたはずの長宗我部元親に謀殺されました。そして四国攻めでは、秀長の本隊が正面からこの城に取りついています。

目次

阿波の青石で積まれた石垣

一宮城本丸に残る青石の石垣

本丸の石垣。平たく割れる阿波の青石が、そのまま横に寝かせて積まれています。

一宮城跡に残る青石の石垣

一宮城跡に残る青石の石垣(写真AC)

この城の石垣を見ると、使われている石が薄く平たいことに気づきます。緑泥片岩、いわゆる阿波の青石です。層状に割れる性質があり、板のような形で採れます。

丸い石を積むのとは勝手が違うので、横に寝かせて重ねる積み方になります。結果として、この地方でしか見られない表情の石垣ができました。

戦国の阿波では、石垣を持つ城自体が多くありません。三好氏の本拠だった勝瑞にいたっては土塁さえ持っていませんでした。

勝瑞城跡・勝瑞城館跡:土塁を持たなかった三好氏の館と、庭園から出た茶道具

竪堀と石段 ― 山城としての造り

一宮城跡に残る竪堀の標識と登城道

登城道のわきに立つ「竪堀」の標識。斜面を縦に切って、横移動を封じています。

一宮城跡の石垣と石段

石垣に沿って続く一宮城跡の石段(写真AC)

登っていくと「竪堀」と書かれた標識が立っています。竪堀とは、斜面を縦方向に掘り下げた堀のことです。

攻め手は斜面を横に移動できなくなり、決まった道を通るしかなくなります。山城の守りの基本で、一宮城にはこれが複数残っています。

そして本丸の直下には石段があります。

一宮城本丸へ登る石段

本丸へ登る石段。両側を石垣で固めた、狭い通路になっています。

両側を石垣で固めた狭い登り口です。ここを一列で登らせるための構えで、土の城から石の城へ切り替わっていく途中の姿が見てとれます。

同じ阿波でも、前の支配者だった三好氏の勝瑞城館は平地にあり、土塁すら持たない館だった。守る造りを持つ一宮城と、持たなかった勝瑞。阿波という国の中で、城の考え方がまるで違っている。

城主・一宮成祐は、味方に殺された

一宮氏は阿波の有力な国人で、細川氏や三好氏に従いながら、この城を守ってきました。

長宗我部元親が阿波へ入ってくると、一宮成祐は長宗我部に従います。ところがそのあと、元親によって謀殺されました。

▽ よく語られる話

元親は四国の国人たちを次々に従えて、人望で四国を統一した。

▼ 史実ではこうです

従えたあとに当主を消す、という手を繰り返しています。一宮成祐だけではありません。牛岐城の新開実綱も、元親に謀殺されたと伝わります。降した相手をそのまま残すと、背中を突かれる恐れが消えない。だから消しました。短期間で広い範囲を押さえた代償として、阿波にも讃岐にも恨みが残ります。四国攻めのとき、旧国人たちが長宗我部のために死ぬ気にならなかった理由の一つがここにあります。

牛岐城:長宗我部元親が新開実綱を謀殺して弟の親泰を配置した城

天正十三年、秀長の本隊が取りついた

四国攻めのとき、豊臣方は三方向から海を渡ってきました。阿波へ入った秀長の本隊が向かった先の一つが、この一宮城です。

城には長宗我部方の将が入り、防戦しています。山は険しく、石垣もある。正面から力押しするには手間のかかる城でした。

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一宮城の攻防を含め、十万がどう動いたのかを追っています。

寄せ手は秀長の軍勢五万。筒井定次、藤堂高虎、蜂須賀正勝、増田長盛といった顔ぶれが並んだ。対する城には谷忠澄と江村親俊が入り、城兵は九千とも五千とも伝わる。

ところが秀長は、この城を正面から攻めていない。

まず兵糧を絶った。そのうえで坑道を掘り、水の手を断った。山城の強みは、登りにくさと水である。その二つを外から奪えば、城の高さは意味を失う。石垣がいくら固くても、飲む水がなければ人は残れない。

七月中旬、一宮城は開城する。この城は攻め落とされたというより、保てなくなって開いた。

この城の落城が、元親を折れさせた

開城した谷忠澄は、白地城へ戻った。元親が本陣を置いていた城である。

忠澄が説いたのは、兵力の差と武器の質の差だった。前線で実際に見てきた人間の報告である。元親はこれに激怒し、罵倒して切腹を申し渡した。それでも忠澄は引かず、重臣を説き伏せ、家臣連名の嘆願という形にまで持っていく。そこで元親が折れた。

講和の仲介にあたったのは蜂須賀正勝で、八月六日までに話はまとまった。この城を攻めた側にいた人物が、そのまま交渉役になっている。

降伏の場所は、史実と大河で違う

▷ 大河ドラマではこう描かれました
大河ドラマでは、降伏の場面がこの一宮城に置かれています。元親が美しい着物をまとって現れ、戦に明け暮れる自分の中の「鬼」を、この着物を着ることで抑えてきたのだと語ります。姫若子と呼ばれた少年が鬼若子になり、その鬼を自分で御してきた、という筋立てです。

これはドラマが与えた解釈であり、史料に出てくる話ではない。元親が降伏のときに何を着ていたか、どんな顔をしていたかを伝える記録はない。分かっているのは、切腹を申し渡すほど抵抗した末に受け入れた、という経緯だけである。

姫若子・鬼若子の由来についても、伝わっているのは「色白でおとなしく、挨拶も返事もしない少年だった」という話までで、着物は出てこない。

▽ よく語られる話
長宗我部元親は一宮城で秀長と会い、そこで降伏した。
▼ 史実ではこうです
元親は一宮城にいない。本陣は終始、阿波と土佐の境に近い白地城だった。一宮城で戦ったのは谷忠澄と江村親俊であり、降伏が決まったのも白地城である。物語としては一つの城にまとめたほうが分かりやすい。ただ地図の上では、二つの城は四十キロ以上離れている。その距離こそが、忠澄が戻って主君と向き合うまでの時間でもあった。

蜂須賀氏が最初に入った城

一宮城跡の曲輪と登城道

一宮城跡。いまは登山道が整えられ、遺構をたどって歩けます。

四国攻めのあと、阿波を与えられたのは蜂須賀家政でした。家政が最初に入ったのが、この一宮城です。

ただし山城は政治の拠点には向きません。家政はほどなく平地へ下り、徳島城を築いてそちらへ移りました。一宮城はそのあと阿波の支城の一つとして残りますが、江戸幕府が一国一城を命じたことで廃城になります。

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登ってみると分かること

この城は、ふもとから本丸まで歩いて登れます。

一宮城跡の本丸へ向かう岩の山道

本丸へ向かう岩がちな山道(写真AC)

一宮城跡の本丸に立つ標柱

一宮城跡の本丸に立つ標柱(写真AC)

一宮城跡の曲輪から徳島平野を望む

一宮城跡からの眺め(写真AC)

登りながら竪堀を見て、石段を上がり、本丸の石垣の前に立つと、なぜ秀長の本隊がここで手間取ったのかが体で分かります。阿波の平野を押さえるには、この山を越えるか、回り込むしかありません。

石垣も天守もない城跡が多い四国のなかで、ここは「積まれたもの」が見られる数少ない場所です。

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一宮城跡へのアクセス

徳島県徳島市一宮町西丁。ふもとに一宮神社があり、その脇から登城道が始まります。

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