特集 ── もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶
- 金子元宅(かねこ もといえ)は、伊予国新居郡(いまの愛媛県新居浜市)を治めた国人で、金子城の城主です
- 金子氏のルーツは武蔵国入間郡(いまの埼玉県入間市)。源平の戦いの功で伊予の地頭職を得て、鎌倉時代に一族が新居郡へ移りました
- 伊予の守護・河野氏ではなく、細川氏、ついで宇摩・新居郡の石川氏に仕え、戦国時代には石川家中の実権を握りました
- 長宗我部元親と結び、天正13年(1585)、小早川隆景の大軍を相手に高尾城で戦って野々市原で討ち死にしました
- 一族は長宗我部に保護され、江戸時代には土佐藩士などとして続き、子孫から鈴木商店の番頭・金子直吉が出ています
NHKの特番『長宗我部兄弟!』で、長宗我部元親・親泰兄弟の唯一の同盟者として描かれたのが、伊予の国人・金子元宅です。番組では、元親が宛名を自分と同じ高さに書いた書状や、二千の兵で二万の小早川勢に挑んだ最期が紹介されました(番組の内容は長宗我部兄弟!(NHK)の内容と史実にまとめています)。この記事では、元宅その人と、三百年以上にわたって新居浜の地を治めた金子一族の歩みを、先祖から幕末まで順にたどります。
金子氏の先祖は武蔵国の武士団
金子氏のルーツは、四国ではなく関東にあります。武蔵国入間郡金子郷(いまの埼玉県入間市)を本拠とした武士団で、武蔵七党のひとつ村山党の一族です。よく知られているのが金子十郎家忠で、保元・平治の乱で源氏方として戦い、のちに源義経に従って一ノ谷・屋島の戦いで武功を挙げたと伝わります。入間市の瑞泉院には家忠の屋敷跡とされる地があり、一族の宝篋印塔が残っています。
この源平の戦いの功によって、金子氏は伊予国新居郡の地頭職を与えられたとされます。関東の武士が、恩賞として遠く西国の所領を得ることは鎌倉時代にはよくあったことで、こうして西へ移った武士は「西遷御家人」と呼ばれます。
いつから新居浜に?金子城を築いた広家
地頭職を得たあと、実際に一族が伊予へ移り住んだのは鎌倉時代の中ごろ、建長年間(1249〜1256)とされ、家忠の子孫にあたる広家が新居郡に入り、金子城を築いたと伝わります。弘安5年(1282)には金子頼広の名が記録に見え、このころには新居郡に根を下ろしていたことが分かります。ただし、伊予金子氏の始祖や系譜は資料によって記述が異なり、はっきりしない部分もあります。
金子城は、国領川の左岸に広がる平野を見下ろす標高約80メートルの金子山の山頂にあった山城です。西側に谷が入り込み、北側と東側は急な斜面で、天然の要害でした。山の麓に居館を構え、山上の城を詰めの城とする、中世の国人らしい造りです。小さいながらも、金子氏はこの城を拠点に、天正13年(1585)に落城するまで三百年以上この地を治めました。いまも曲輪や堀切の跡が残り、城跡は滝の宮公園として整備されています。
金子氏は河野氏の家臣だったのか
伊予といえば守護の河野氏が知られていますが、金子氏は河野氏の家臣ではありませんでした。伊予の東部、宇摩郡と新居郡(いわゆる東予)は、瀬戸内を挟んだ讃岐・阿波とつながりの深い地域で、室町時代には四国に大きな勢力を持った細川氏の影響下に入っていました。金子氏も南北朝時代の終わりごろには細川氏の配下になったとされます。
その後、東予で力を持ったのが、高峠城(西条市)を本拠とした石川氏です。金子氏は石川氏の有力な家臣となり、石川家を支えながら勢力を伸ばしていきました。戦国時代、元宅の父・元成と元宅の代には、主家の石川氏をしのぐほどの力を持ち、宇摩・新居の二郡を事実上取り仕切る立場になります。元宅の妻も石川家の出でした。
金子元宅の生涯──長宗我部と結んだ理由
金子元宅は天文20年(1551)、金子元成の子として新居郡に生まれました。官途名は備後守で、「金子備後守元宅」とも呼ばれます。弟に元春・家綱がいました。
元宅が生きた時代の東予は、西からは毛利氏とその後ろ盾を得た河野氏、南からは土佐の長宗我部氏がせまる、大勢力のはざまにありました。天正6年(1578)ごろ、元宅は阿波の大西氏の仲介で長宗我部元親に従い、嫡男を人質として土佐に送ったと伝わります。一方で毛利氏とも通じており、小さな国人が生き残るためには、どちらにも道を残しておく必要がありました。
それでも元宅が最後に選んだのは長宗我部でした。番組では、元親が元宅への書状で宛名を自分の名前と同じ高さに書き、対等に扱っていたことが紹介されました。四国のほとんどを押さえる大名が一国人をこう扱うのは異例で、元宅は「自分を対等に扱ってくれたのは元親だけだ」と語ったと描かれています。金子家に伝わった書状は、天正10年(1582)から天正12年(1584)にかけて、本能寺の変、秀吉と毛利の国境交渉、小牧・長久手の戦いという激動の時期のものです。
天正の陣──高尾城と野々市原の最期
戦いの全体の流れは天正の陣とはで詳しく書いています。
天正13年(1585)、秀吉は弟の秀長を総大将に四国攻めを始め、伊予へは毛利の小早川隆景・吉川元長らが攻め込みました。伊予では「天正の陣」と呼ばれる戦いです。兵力は、番組では小早川勢二万としていましたが、史料によっては三万余ともいわれます。これに対し、元宅のもとに集まったのは二千ほどでした。
降伏を勧める声もありましたが、元宅は「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて、人に後ろ指を指されるのは武士の本意ではない」という意味のことを言って、戦う道を選んだと伝わります。土佐には人質として送った嫡男がいました。元宅は主家の石川氏の高峠城や、西条の高尾城を拠点に守りを固め、7月12日から高尾城で激しい戦いが続きます。
7月17日、元宅は自ら城に火を放ち、六百余の兵とともに城外の野々市原へ打って出ました。長宗我部からの援軍二百ほども加わって戦いましたが、最後は十三人になるまで戦い抜いたと伝わり、元宅は討ち死にしました(自害したとする説もあります)。三十五歳でした。金子城も同じ7月に落ち、再建されることはありませんでした。戦いのあと、小早川隆景は野々市原に千人塚を建てて戦死者を弔ったといい、いまも西条市に千人塚が残っています。
元宅の死後、金子一族はどうなったのか
元宅は四男一女をもうけていました。当主を失った一族は、長宗我部氏に保護されます。番組では、元親が晩年に作らせた土佐の「長宗我部地検帳」に金子一族の名前が載っていて、兄弟が金子一族に土地を与えていたことが紹介されました。元宅が生前に元親へ送った誓約で頼んだ「もしものときは子どもたちや家をお引き立てください」という願いに、兄弟は応えていたわけです。
子どもたちのその後は、次のように伝わっています。
- 嫡男・宅明:人質として土佐で暮らし、のちに加藤嘉明に仕えて会津移封にも従ったあと、伊予へ戻り、さらに土佐の山内氏に仕えました
- 次男・元雅:長宗我部氏に仕え、大坂夏の陣で討ち死にしました。長宗我部盛親とともに豊臣方として戦ったことになります
- 三男・基宅:浪人ののち、加藤明友に仕えました
- 四男・新発智丸:馬場甚右衛門の養子となり、馬場甚介と名乗りました
元宅の弟・元春は出家し、元和4年(1618)ごろ、金子氏の居館の跡に慈眼寺(新居浜市)を建てて住職となりました。本堂の裏手の石段を上ると、元宅と元春の兄弟をしのぶ碑があります。
江戸時代から幕末、そして明治へ
江戸時代、金子一族は四国を離れた者も含めていくつかの家に分かれ、土佐山内家の家臣や、近江水口藩の藩士などとして続きました。主家の長宗我部氏は関ヶ原の戦いのあと改易され、大坂の陣ののちに大名としての家は絶えましたが、長宗我部が守った金子の家は、長宗我部に代わって土佐に入った山内家のもとで幕末まで生き残ったのです。
明治になると、宅明の流れをくむ金子宅利が、板垣退助らの立志社の創立にかかわりました。また、四男・新発智丸の子孫はのちに金子姓に戻り、その家から出たのが、神戸の鈴木商店を日本有数の総合商社に育てた番頭・金子直吉です。直吉は晩年、先祖の元宅を深く敬い、没後三百五十年の法要に多額の寄付をして元宅の研究や顕彰を支えました。金子城跡の滝の宮公園には、直吉が詠んだ「天正の矢叫びを啼け時鳥」の句碑が立っています。
元親が元宅に送った書状などの金子家文書(四十一点)は、埼玉県の指定有形文化財となり、埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)に寄託されています。武蔵から伊予へ移った一族の文書が、いまは先祖の故郷である武蔵の地で守られているのです。
長宗我部兄弟!(NHK)の内容と史実:金子元宅との約束、起請文と地検帳
元親はなぜ、一国人にすぎない元宅の名を自分と同じ高さに書いたのか。家を潰さずに四国へ広がった長宗我部兄弟の外交を、番組の場面とともにたどります。
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よくある質問
金子元宅の読み方は?
「かねこ もといえ」と読みます。官途名をつけて「金子備後守元宅(かねこ びんごのかみ もといえ)」とも呼ばれます。
金子氏はもともと誰に仕えていたのですか
伊予の守護・河野氏ではなく、室町時代には細川氏、その後は東予の石川氏に仕えました。戦国時代には石川家中の実権を握り、長宗我部元親と同盟を結びました。
金子城はどこにありますか
愛媛県新居浜市の金子山(標高約80メートル)にありました。城跡は滝の宮公園になっていて、麓には金子氏の居館跡に建てられた慈眼寺があります。
金子元宅の子孫はいますか
子どもたちは土佐藩の山内家や近江水口藩などに仕えて家を残し、子孫からは明治の立志社にかかわった金子宅利や、鈴木商店の番頭・金子直吉が出ています。
ゆかりの地をめぐる
- 金子城跡(滝の宮公園):愛媛県新居浜市。曲輪や堀切の跡と、金子直吉の句碑があります
- 慈眼寺:愛媛県新居浜市。金子氏の居館跡に弟の元春が建てた寺で、元宅・元春の碑があります
- 野々市原古戦場・千人塚:愛媛県西条市。天正の陣で元宅が討ち死にした地です
- 瑞泉院:埼玉県入間市。金子十郎家忠の屋敷跡とされ、一族の宝篋印塔があります
長宗我部氏の本拠は岡豊城跡、東予と土佐・阿波を結ぶ要地は白地城で紹介しています。長宗我部関連の記事は長宗我部氏特集にまとめています。
まとめ
金子氏は、源平の戦いの恩賞で伊予の地頭職を得た武蔵の武士団が、鎌倉時代に新居郡へ移り住んだ一族で、金子山の小さな城を拠点に三百年以上この地を治めました。河野氏ではなく細川氏・石川氏に仕え、戦国時代には元宅が石川家中の実権を握って長宗我部元親と結びました。天正13年の天正の陣では、二千ほどの兵で小早川の大軍に挑み、土佐の人質と長宗我部との約束を守って野々市原で討ち死にしましたが、一族は長宗我部に保護され、土佐藩士などとして幕末まで家を保ち、子孫から金子直吉が出ています。長宗我部との約束は、元宅の死後も、四百年先まで家を残す形で守られたのです。

