- 天正十三年(一五八五)、秀吉が関白になった年に、秀長は大和・紀伊・和泉の三か国、百万石余りを与えられた
- 秀長が入った郡山城は、もともと筒井順慶が築いた城。筒井家は伊賀へ移された
- 大和は興福寺など寺社の力が強い国。秀長は武装解除と指出で寺社の領地を大きく削った
- 奈良の商人を郡山に集め、寺の石まで使って城と城下町をつくり上げた

郡山城跡の堀。水際から立ち上がる石垣が水面に映ります。
この回の舞台で実際に起きたこと
天正十三年(一五八五)の七月、羽柴秀吉は関白に任じられました。その直後に四国攻めが片づくと、秀吉は領地の大きな組み替えを行います。弟の秀長には、大和・紀伊・和泉の三か国、あわせて百万石余りが与えられました。それまで大和を治めていた筒井定次(順慶の養子)は伊賀へ移され、秀長は閏八月、大和の郡山城に入ります。
ここから秀長は、天正十九年(一五九一)正月に亡くなるまでのおよそ六年、郡山を本拠に大和を治めました。この間に秀長は権大納言にのぼり、「大和大納言」と呼ばれるようになります。秀吉がなぜ関白の道を選んだのかは秀吉はなぜ関白になったのか、関白という地位そのものは関白とはで書いています。
補助線①:なぜ秀長に大和だったのか
大和は京都と大坂のすぐ南にあり、豊臣政権の足もとを固めるうえで欠かせない国でした。しかも、興福寺をはじめとする寺社の力が強く、並の大名では治めきれません。秀吉がこの国を、もっとも信頼できる弟に任せたのには理由がありました。紀伊と和泉もあわせて任されたことで、秀長は畿内の南半分をまとめて押さえる立場になります。この点はなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで詳しく書いています。
補助線②:郡山城は、もともと誰の城だったのか
郡山城を最初に本格的な城にしたのは、筒井順慶です。天正八年(一五八〇)、順慶はそれまでの本拠だった筒井城から郡山へ移り、壊された多聞山城の石を運んで城を築きはじめました。明智光秀が工事の見回りに来たとも伝わります。秀長はこの城に入ると、百万石の主にふさわしい城へと大がかりに造り替えました。石の少ない大和で石垣を積むために、寺の礎石や石地蔵まで集めたことはよく知られています。筒井家の城は筒井城跡、秀長の郡山城は大和郡山城で書いています。

堀端から見た郡山城跡の復元建物。横に長く延びる多門と櫓は、後年に復元されたものです。
補助線③:寺社の国をどう治めたのか
大和では、長く興福寺が実質的な支配者として振る舞い、国内の武士の多くは寺社に属する「衆徒」や「国民」でした。秀長は入国してすぐ、武装していた多武峰に武器を差し出させ、寺社や村々に持っている土地と年貢を書き出させます。これを「指出」といい、興福寺の領地はこの結果、入国前のおよそ五分の一にまで減らされました。寺社の力の源を一つずつ断っていくやり方です。詳しくは秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか、寺に属した武士の姿は衆徒とは何者かで書いています。
補助線④:検地と「仏罰」
寺社の領地に手を入れることは、当時の人びとにとって、ただの税の話ではありませんでした。寺社の土地は神仏のものであり、それを削れば罰が当たると信じられていたからです。寺社の側も、そうした信仰を背景に年貢を取り立て、人びとを従わせてきました。秀長の検地は、この信仰と結びついた支配の仕組みそのものに踏みこむものでした。検地が全国でどんな意味を持ったのかは太閤検地と刀狩とは、寺の側がこの時代をどう見ていたかは多聞院日記とはで紹介しています。
奈良の町と郡山の町
秀長は入国した年の十月、奈良の町での商売を禁じ、商人や職人を郡山へ移しました。興福寺の門前町として栄えてきた奈良ではなく、城下の郡山に経済の中心を置くためです。郡山の町には、町ごとに特定の商売を許す「箱本」という仕組みが整えられ、城下町は短い期間で大きく育ちました。いまの大和郡山の町並みの骨格は、このときにできています。甥の秀次が近江八幡で同じように商人を集めた話は八幡山城で書いています。
次回以降に効いてくること
大和での秀長は、寺社の力を削ぎ、城と城下町をつくり、豊臣政権の足もとを固めました。しかし秀長に残された時間は長くありません。郡山に入ってから六年足らずで病に倒れ、天正十九年の正月に亡くなります。同じ年には千利休が切腹し、秀吉の跡継ぎだった鶴松も幼くして亡くなりました。秀長を失った豊臣家がどう変わっていったのかは天正十九年に何が起きたのか、秀長を支えた家臣たちとその後は豊臣秀長の家臣団とはで書いています。
現地はいま
大和郡山城跡は近鉄郡山駅から歩いてすぐで、堀と石垣、復元された追手門や櫓を見ることができます。石垣のなかには、逆さに積まれた地蔵が残っています。城の近くには、秀長ゆかりと伝わる源九郎稲荷神社もあります。奈良の町の興福寺とあわせて歩けば、寺の町と城の町、二つの中心を比べることができます。郡山城の見どころは大和郡山城をご覧ください。

郡山城跡の石垣と石段。形のそろわない石をかき集めて積み上げた野面積みです。
よくある疑問
Q. 郡山城は秀長が築いたのですか?
もとは筒井順慶が築いた城で、秀長はそれを大規模に造り替えました。いま見られる城跡の多くは、その後に入った柳沢家の時代に整えられたものです。
Q. 秀長の石高はどれくらいでしたか?
大和・紀伊・和泉の三か国をあわせて百万石余りとされます。豊臣一門のなかでも最大級の領地でした。
Q. 「大和大納言」とはどういう意味ですか?
秀長が朝廷から権大納言の官位を与えられ、大和を本拠にしていたことからついた呼び名です。秀長その人については豊臣秀長とはで書いています。
まとめ
第37回の舞台となる大和は、寺社が数百年にわたって力をふるってきた国でした。秀長はそこに郡山城という武家の拠点を打ち立て、武器を取り上げ、土地を調べ、商人を城下に集めて、わずか数年で寺社の国を武家の国へと作り替えます。そのやり方は、秀吉が全国で進める検地と刀狩の先駆けでもありました。前回の四国攻めについては第36回「姫若子と鬼若子」史実解説をどうぞ。

