石川数正はなぜ出奔したのか:家康を裏切り秀吉に寝返った理由と五つの説 ─ 『豊臣兄弟!』迫田孝也が演じる徳川の重臣、天正13年の謎

夜明け前の薄闇の中、提灯を手に城門を出ていく武将と家族・家来の一行の後ろ姿
この記事のポイント
  • 石川数正は、家康が今川家の人質だったころからそば近くに仕え、酒井忠次と並ぶ徳川家の重臣でした。その数正が、天正13年(1585)11月13日、妻子や家臣を連れて岡崎城から秀吉のもとへ出奔します
  • 出奔の理由を記した数正自身の言葉や確かな史料はなく、本当の理由はいまも分かっていません。秀吉の誘い、徳川家中での孤立、信康事件のわだかまりなど、いくつもの説が並んでいます
  • 徳川家の内情を知り尽くした重臣が去ったことで、家康は軍制を武田流に改めたと伝わります。直後の天正地震で秀吉の家康攻めが立ち消えになり、旭姫と大政所をめぐる駆け引きへと進みます
  • 数正は秀吉から「吉輝」の名を与えられ、のちに信濃松本の城主となりました。いまの国宝・松本城の整備は、数正と子の康長の代に進められたとされます
【結論】石川数正はなぜ出奔したのか(裏切り・寝返りの理由)
本人の言葉が残っていないため、確かな理由はわかっていません。有力なのは、秀吉との和睦を説いて徳川家中で孤立したという説と、交渉で大坂に通ううちに秀吉から好条件で誘われたという説で、この二つが重なったと見るのが自然です。ほかに、信康事件のわだかまり、家中での傍流扱い、家康の密命という説もあります。→ 五つの説をくわしく見る

『豊臣兄弟!』で迫田孝也さんが演じる石川数正は、徳川家康の腹心として、秀吉との交渉の場にたびたび姿を見せてきました。第40回「あさひの輿入れ」では、数正が徳川家を去り、「たとえこの身は豊臣につこうとも、わが心は殿とともにありまする」という書き置きを残す姿が描かれました。その数正は、史実では天正13年(1585)の冬、家康のもとを去って秀吉に仕えることになります。家康のいちばんの重臣が、なぜ主君を見限ったのか。この記事では、数正の歩みと出奔の背景、いくつもある説を整理します。

「出奔」という言葉の意味や、ほかに出奔した戦国武将については、出奔(しゅっぽん)とは ─ 意味と読み方、寝返りとのちがいで紹介しています。

放送された第39回の内容と史実のちがいは、豊臣兄弟!第39回「茶々の本心」の史実 ─ 茶々の決断と石川数正の出奔でまとめています。

秀吉が天皇や大名に見せた黄金の茶室については、秀吉の黄金の茶室とは ─ いつ、誰に見せたのかでくわしく紹介しています。

松本城
松本城(長野県松本市)。秀吉に仕えた石川数正が城主となり、子の康長とともに整備を進めたとされる城です
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石川数正とは ─ 人質時代からの家康の側近

石川数正は天文2年(1533)ごろ、三河に生まれました。家康がまだ竹千代と呼ばれ、今川家の人質として駿府で暮らしていたころからそば近くに仕え、苦労をともにした古くからの家臣です。永禄12年(1569)には西三河の家臣団を束ねる旗頭となり、東三河の旗頭・酒井忠次と並んで徳川家の柱となりました。家康の長男・信康の後見役もつとめ、天正7年(1579)に信康が切腹したあとは、岡崎城の城代を任されています(岡崎城)。

小牧・長久手のあと、秀吉との交渉役に

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのあと、徳川と羽柴(豊臣)のあいだで和睦の話が進むと、数正はその交渉の窓口となりました。家康の次男・於義丸(のちの結城秀康)が秀吉の養子として大坂へ送られたのも、この和睦の流れの中のことです(小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?/於義丸とは)。交渉のために大坂へ足を運ぶうちに、数正は、天下人へと駆け上がる秀吉の財力と軍事力を、徳川家の誰よりも近くで見ることになりました。

石川数正の出奔 ─ 天正13年11月13日、岡崎城から秀吉のもとへ

岡崎城
岡崎城(愛知県岡崎市)。数正が城代をつとめた城です

天正13年(1585)閏8月、家康は信濃の真田昌幸を攻めますが、上田城で大敗します(真田家とは/徳川と真田は何でもめていたのか)。秀吉は真田を支え、徳川との対立は深まるばかりでした。そうした中の11月13日、数正は妻子や家臣を連れて岡崎城を出て、秀吉のもとへ走ります。徳川家の家老が、何の前ぶれもなく敵方へ移ったのです。家中は大きく動揺しました。

石川数正の出奔の理由 ─ なぜ家康を裏切り、秀吉に寝返ったのか(五つの説)

結論から言うと、石川数正がなぜ出奔したのか(なぜ家康を裏切り、秀吉に寝返ったのか)は、本人の言葉が残っていないため確かなことはわかっていません。有力なのは、秀吉との和睦を説いた数正が、秀吉と戦おうとする徳川家中で孤立したという説と、交渉で大坂に通ううちに秀吉から好条件で誘われたという説で、この二つが重なって出奔に至ったと見るのが自然です。ほかに、信康事件のわだかまり、家中での傍流扱い、家康の密命という説もあります。

数正自身が出奔の理由を書き残したものはなく、同時代の確かな史料にもはっきりした記述はありません。そのため、いくつもの説が語られてきました。

説 中身 筆者の見立て
秀吉の誘い(引き抜き)説 交渉で何度も大坂に通ううちに、秀吉から好条件で誘われた 出奔後すぐに河内で八万石を与えられたことから、事前の話があった可能性はある(秀吉のほかの引き抜きはこちら)
家中での孤立説 秀吉との和睦を説く数正が、強硬な家臣たちの中で浮き、立場を失った 第一次上田合戦などで家中の対秀吉感情が高まっていた時期と重なり、有力な見方
信康事件のわだかまり説 後見役をつとめた家康の長男・信康の切腹(天正7年)以来、家康とのあいだにすきま風があった 推測の域を出ない
家中での傍流扱い説 父の代の失脚もあり、石川家の中で主流になれなかった 推測の域を出ない
家康の密命説 家康の命で豊臣方にもぐり込んだ 後世の想像で、裏づけはない

筆者は、二つ目の「家中での孤立」がいちばん実情に近いと考えています。秀吉の力を肌で知る数正は、徳川が豊臣と正面から戦えば家が滅びかねないと見ていたはずです。しかし上田合戦のころの徳川家中は、秀吉への反発が強く、和睦を説く数正は「秀吉びいき」と見られやすい立場にありました。そこへ秀吉からの誘いが重なった ─ 一つの理由ではなく、いくつもの事情が重なった末の決断だったのではないでしょうか。

▽ よく語られる話
石川数正は、秀吉に金と領地で買収されて主君を裏切った、徳川家きっての裏切り者だった。
▼ 史実ではこうです
数正がなぜ出奔したのかを記した確かな史料はなく、「買収された」というのも推測のひとつにすぎません。家康の側近として秀吉との交渉を担い、豊臣の力をいちばん近くで見ていた人物が、豊臣の側を選んだ ─ 確かなのはそこまでです。

「家康の密命」説はどこから来たのか

五つの説のうち、いまドラマの予告をきっかけに話題になっているのが「家康の密命」説です。数正は裏切ったのではなく、家康に命じられて豊臣の側へもぐり込んだ、という見方です。結論から言うと、これを裏づける同時代の史料はありません。そのうえで、なぜこの説が語られ続けるのかを整理しておきます。

▽ よく語られる話
数正は家康と示し合わせて秀吉のもとへ走った「二重スパイ」だった。だから家康は数正を討とうとしなかったし、のちに徳川の天下になっても石川家は大名として残った。
▼ 史実ではこうです
数正の出奔のあと、家康は軍の決まりを武田流に改め、秀吉との戦に備えて城の守りを固めています。内情を知る重臣に逃げられた側の、本気の対応です。また、石川家はたしかに関ヶ原のあとも松本の大名として残りましたが、子の康長は慶長18年、大久保長安の事件に連座して改易されました。徳川に特別に守られた家だったとは言いにくいのです。「密命」説は、主君を見限ったという話を、どこか救いのある物語にしたい後世の心情から生まれた、と見るのが自然でしょう。

ドラマがこの説をとるかどうかは、放送を見るまでわかりません。描かれ方がどうであれ、史実の側で確かなのは「数正が天正13年11月13日に岡崎を出て、秀吉に仕えた」ことまでです。出奔の前に何があったのかは、徳川と真田は何でもめていたのかと第一次上田合戦の流れを知ると見えやすくなります。

出奔のあと ─ 徳川の軍制改革と天正地震

数正は、徳川家の軍勢の数や配置、戦い方まで知り尽くしていました。その数正が秀吉の側に移ったことで、徳川の手の内はすべて秀吉に知られたことになります。家康はこのあと、武田家の旧臣を通じて武田流の軍法を取り入れ、軍制を改めたと伝わります。秀吉は年明けにも家康を攻める構えを見せていましたが、11月29日に起きた天正地震で畿内や東海は大きな被害を受け、家康攻めは立ち消えになりました。ここから秀吉は、妹の旭姫を家康に嫁がせ、母の大政所を岡崎へ送るという、身内を差し出す外交へと舵を切ります(第40回「あさひの輿入れ」/旭姫と大政所/家康はなぜ秀吉に臣従したのか)。出奔が徳川家に与えた影響は、石川数正の出奔で徳川家はどう変わったのかでくわしく整理しました。

その後の石川数正 ─ 松本城と石川家の改易

秀吉に仕えた数正は、秀吉から一字を受けて「吉輝」と名を改め、河内で八万石を与えられたとされます。天正18年(1590)の小田原征伐のあと、家康が関東へ移ると、数正は信濃の松本に移されました(八万石とも十万石ともいわれます)。家康の旧領のすぐ隣に、家康をよく知る数正を置いたのは、秀吉らしい配置といえるかもしれません。数正は文禄元年(1592)ごろに世を去り、松本城の整備は子の康長に引き継がれました(松本城)。しかし康長は、慶長18年(1613)の大久保長安事件に連座して改易され、数正の家は大名の座を失います(石川数正の最後とは/石川数正の次男・康勝の最後)。

もう一つの石川家 ─ 叔父・石川家成の家は幕末まで続いた

徳川家には、数正の家とは別にもう一つ、重臣の「石川家」がありました。数正の叔父・石川家成(いしかわ いえなり)の家です。数正の家が大名の座を失ったのに対し、家成の家は江戸時代を通じて大名として続き、幕末まで生き残りました。同じ石川一族でありながら、二つの家はまったく違う道をたどったのです。

石川家成とは ─ 家康の従兄で、数正より年下の叔父

石川家成は天文3年(1534)の生まれで、数正の父・石川康正の弟にあたります。つまり数正から見れば叔父ですが、年齢は数正のほうが一つ上という、年下の叔父でした。家成の母は家康の母・於大の方の姉妹とされ、家成は家康の母方の従兄でもあります。家康にとっては、血のつながった身内の重臣でした。

家成は若いころから家康に仕え、三河の西半分の武士たちを率いる「西三河の旗頭」として、家康の三河統一を支えました。永禄12年(1569)、今川氏真が遠江の掛川城を明け渡すと、家成は掛川城主に任じられます(掛川城)。このとき、西三河の旗頭の役目を甥の数正に譲りました。数正が徳川家の中心に立つ道を開いたのは、叔父の家成だったのです。東三河の旗頭・酒井忠次と並ぶ西三河の旗頭という地位は、こうして家成から数正へ受け継がれました。

掛川城
石川家成が城主を務めた掛川城(天守は平成の復元、掛川城)

数正の出奔のとき、家成の家は

天正8年(1580)、家成は家督を子の康通に譲って隠居していました。天正13年(1585)に数正が出奔したとき、家成とその子・康通は徳川家にとどまり、家康を支え続けます。数正の出奔は一族の離反ではなく、あくまで数正一人の決断だったことがわかります。

江戸時代の家成の家 ─ 大垣から膳所、淀、そして伊勢亀山へ

関ヶ原の戦いのあと、康通は美濃の大垣城主(五万石)となりました(大垣城)。慶長12年(1607)に康通が亡くなると、隠居していた家成が七十代で再び当主に戻ります。家成が慶長14年(1609)に76歳で亡くなると、康通の子がまだ幼かったため、家康の命で家成の外孫・石川忠総が跡を継ぎました。忠総は、徳川家の重臣・大久保忠隣の次男です。

大垣城
家成の子・康通、外孫の忠総が城主を務めた大垣城(天守は戦後の再建、大垣城)

その後の家成の家(石川家)の移り変わりは、次のとおりです。

年 当主 領地
慶長6年(1601) 石川康通 美濃大垣 5万石
慶長14年(1609) 石川忠総 美濃大垣 5万石を継ぐ
元和2年(1616) 石川忠総 豊後日田 6万石
寛永10年(1633) 石川忠総 下総佐倉 7万石
寛永11年(1634) 石川忠総 近江膳所 7万石(膳所城)
慶安4年(1651) 石川忠総・憲之 伊勢亀山
寛文9年(1669) 石川憲之 山城淀(淀城)
正徳元年(1711) 石川義孝 備中松山
延享元年(1744) 石川総慶 伊勢亀山 6万石。以後、幕末まで

途中、山城の淀城の城主も務めています。茶々が鶴松を産んだ戦国の淀古城ではなく、江戸時代に徳川幕府が築いた淀城のほうです。家成の家は最後は伊勢亀山(三重県亀山市)六万石に落ち着き、最後の藩主・石川成之のときに明治維新を迎えました。分家も常陸の下館藩主や旗本として続いています。

伊勢亀山城
家成の家が幕末まで治めた伊勢亀山城(亀山城(伊勢))

二つの石川家を分けたもの ─ 大久保家との縁

数正の家 家成の家
主君 秀吉に仕える(豊臣大名) 徳川家に仕え続ける(譜代大名)
居城 信濃松本 8万石 美濃大垣 5万石 → 各地を移る
大久保家との縁 大久保長安と縁戚 大久保忠隣の子・忠総が継ぐ
大久保家の失脚のとき 慶長18年(1613)、長安事件に連座して改易 忠総は一時謹慎を命じられるが、赦される
その後 大名の座を失う 伊勢亀山6万石で幕末まで続く

皮肉なことに、二つの石川家の運命を分けたのは、どちらも大久保家との縁でした。数正の子・康長は、大久保長安と縁戚だったことから、慶長18年(1613)の長安事件に連座して改易されます。一方、家成の家を継いだ忠総は、翌慶長19年に実父の大久保忠隣が改易されたとき、一時は謹慎を命じられました。しかし「石川家の当主であり、大久保家の罪には連ならない」として許され、大坂の陣にも出陣しています。豊臣に仕えた数正の家と、徳川に仕え続けた家成の家。同じ一族の明暗は、主君を選んだ道の違いでもありました。

『豊臣兄弟!』ではどう描かれたのか

▷ 『豊臣兄弟!』第40回ではこう描かれました(10月18日放送)
第40回「あさひの輿入れ」で、迫田孝也さん演じる石川数正は徳川家を去り、浜松の家臣団は「何かの間違いではないか」と騒然となりました。知らせを受けた家康(松下洸平)は、あまりの衝撃に笑い出してしまいます。数正が残した書き置きには「たとえこの身は豊臣につこうとも、わが心は殿とともにありまする」と記されていました。秀長(仲野太賀)は、数正の決断を「徳川を守るために徳川を捨ててこられた」と受け止めます。一方の家康は、北条氏政に対して「たかが家来一人いなくなっただけのこと」と強がってみせました。ドラマは数正の出奔を、裏切りというより、徳川を守るための選択として描いた形です。史実では、数正が出奔の理由を書き残した確かな史料はなく、その理由については本文で紹介した五つの説があります。

第39回では、秀吉が数正を大坂城に呼び、徳川と真田の和睦を命じます。数正は家康の説得に向かいますが、家康は拒んで戦の支度を始める ─ と予告されています。この時点の数正は、まだ徳川の家臣として、家康と秀吉のあいだで板ばさみになっている立場です。迫田孝也さんの数正が、どんな表情で家康のもとを去るのか、第39回の後半から第40回にかけての大きな見どころになりそうです。第39回の次回予告は「徳川、激震す。」という文字と数正の顔のアップで締めくくられ、SNSでは「決意した顔」「家康の密命という形で描かれるのでは」という声も上がりました(密命説の史実は上の節で整理しています。第39回「茶々の本心」の予想と史実)。

出奔した数正が豊臣の大名としてどう生きたのかは、石川数正のその後でたどっています。

よくある疑問

Q. 石川数正はなぜ裏切ったのですか?(なぜ寝返ったのですか?)
A. 本人の言葉が残っていないため、確かな理由はわかっていません。秀吉との和睦を説いて徳川家中で孤立したこと、交渉で大坂に通ううちに秀吉から好条件で誘われたことが重なったとみる説が有力です。ほかに信康事件のわだかまり、家中での傍流扱い、家康の密命という説もあります(五つの説)。

Q. 「出奔」とはどういう意味ですか?
A. 主君や家を捨てて、ひそかに逃げ去ることです。石川数正の場合、徳川家を去って秀吉のもとへ移ったので「出奔」と呼ばれます(出奔とは?意味と読み方)。

Q. 石川数正はなぜ出奔したのですか?
A. 数正自身が理由を書き残したものはなく、確かなことはわかっていません。和睦を説いて徳川家中で孤立したという説と、秀吉から好条件で誘われたという説が有力で、ほかに信康事件のわだかまり、家中での傍流扱い、家康の密命という説もあります。

Q. 石川家成と石川数正はどういう関係ですか?
A. 家成は数正の叔父です。ただし年齢は数正が一つ上でした。家成は家康の母方の従兄でもあり、西三河の旗頭を数正に譲ったのも家成です。家成の家は数正の出奔後も徳川に仕え、伊勢亀山藩主として幕末まで続きました。

Q. 石川数正はなぜ秀吉のもとへ行ったのですか?
A. はっきりした理由を記した史料はありません。秀吉の誘い、徳川家中での孤立、信康事件のわだかまりなど、いくつもの説があります。

Q. 石川数正が出奔したのはいつですか?
A. 天正13年(1585)11月13日です。妻子や家臣を連れて岡崎城を出ました。家族を連れて出奔できた理由は石川数正はなぜ家族を連れて出奔できたのかで紹介しています。

Q. 石川数正は何人の家臣を連れて出奔したのですか?
A. 確かな人数はわかっていませんが、妻子・一族と数正自身の家来が中心で、数千ではなく数十人から百人前後とみられます。西三河の武士の多くは家康直属の与力で、徳川家に残りました。くわしくは石川数正は何人の家臣を連れて出奔したのかで解説しています。

Q. 数正の出奔で徳川家はどうなりましたか?
A. 軍事の内情を知る重臣が去ったため、家康は軍制を武田流に改めたと伝わります。

Q. 石川数正はその後どうなりましたか?
A. 秀吉に仕えて「吉輝」と名を改め、のちに信濃松本の城主となりました。文禄元年(1592)ごろに亡くなっています。

Q. 『豊臣兄弟!』で石川数正を演じているのは誰ですか?
A. 迫田孝也さんです。

Q. 石川数正は「裏切り」「寝返り」、どちらの言い方が正しいのですか?
A. どちらも、数正が徳川を離れて豊臣についたことを指す後世の言い方です。主君のもとを無断で去ることを当時の言葉では「出奔(しゅっぽん)」と言い、歴史の解説ではこの語がよく使われます。合戦の最中に敵方へつく関ヶ原の小早川秀秋のような「寝返り」とは、場面が違う点にも注意してください。

Q. 石川数正の死因は何ですか?
A. 死因を記した確かな史料はありません。亡くなった年も文禄元年(1592)とする説と文禄2年とする説があり、朝鮮出兵の前線基地である肥前名護屋の陣中で亡くなったとも伝わります。晩年と子どもたちのその後は石川数正の最後とはと次男・康勝の最後でくわしく紹介しています。

Q. 石川数正は家康の密命で秀吉のもとへ行ったのですか?
A. そう語られることはありますが、裏づける史料はありません。「家康の密命」説はどこから来たのかで整理しています。

イラストで見る武将・姫たち

この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。

  • 朝日姫(旭姫) … 秀吉・秀長の妹で家康の正室。兄の天下取りのため44歳で家康に嫁いだ「駿河御前」

まとめ

石川数正は、人質時代から家康に仕えた徳川家きっての重臣でしたが、天正13年11月、秀吉のもとへ出奔しました。その理由を語る確かな史料はなく、秀吉の誘いと徳川家中での孤立が重なった末の決断だったとみるのが自然です。数正の出奔は徳川の軍制を変えさせ、天正地震をへて、旭姫の輿入れと大政所の岡崎行き、そして家康の臣従へとつながっていきます。『豊臣兄弟!』で迫田孝也さんが演じる数正の決断に注目してみてください。

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大河ドラマの回ごとの史実解説は 大河『豊臣兄弟!』特集ページ にまとめています。

この回に登場する片岡鶴太郎さんの過去の役については、片岡鶴太郎が演じた歴史上の人物・時代劇の役まとめをどうぞ。

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