細川ガラシャはなぜバテレン追放令のあとに洗礼を受けたのか|夫・忠興が九州攻めに出ていた天正15年 ─ 彼岸の教会と侍女・清原マリア

大坂の武家屋敷の奥の部屋で、侍女が洗礼の水を手にする場面のイメージ(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 細川ガラシャ(明智光秀の娘・玉)が洗礼を受けたのは天正15年(1587)。夫の細川忠興が九州攻めに出て、大坂の屋敷を空けていたあいだのことでした
  • しかも洗礼は、秀吉がバテレン追放令を出したあとでした。宣教師が九州へ去る前に、屋敷から出られない玉のために、侍女の清原マリアが洗礼を授けました
  • 同じ6月、高山右近は信仰を捨てずに領地を失っています。秀吉がキリスト教に厳しい姿勢を見せたまさにその時、秀吉の重臣の妻が、ひそかに信仰を選んだのです

天正15年の春から夏にかけて、細川家の夫婦はまったく別の場所で、まったく別のことに向き合っていました。夫の忠興は九州で島津と戦い、妻の玉は大坂の屋敷で、キリスト教の教えを学んでいました。夫が凱旋して戻ってきたとき、妻はもう「ガラシャ」になっていたのです。この記事では、二人の天正15年を並べながら、玉がなぜこの時期に洗礼を受けたのかをたどります。

大坂の武家屋敷の奥の部屋で、侍女が洗礼の水を手にする場面のイメージ(イラスト)
大坂の屋敷での洗礼のイメージ(イラスト)
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夫と妻の天正15年

時期 九州の忠興 大坂の玉
天正15年(1587)2月〜3月 九州攻めに出陣する 忠興の留守中、春の彼岸に合わせて屋敷を抜け出し、大坂の教会を訪ねる
3月〜5月 秀吉の軍とともに九州を南へ進む ふたたび屋敷に閉じこめられる。侍女を通じて教えを学び、侍女たちが先に洗礼を受ける
5月8日 島津義久が降伏 -
6月19日 秀吉が筥崎でバテレン追放令を出す -
6月〜7月 - 追放令を知り、宣教師が九州へ去る前に、侍女の清原マリアから屋敷で洗礼を受ける。洗礼名ガラシャ
7月〜 大坂に戻り、妻の入信を知って激しく怒る 棄教を迫られても拒み通す

屋敷から出られなかった玉

玉は明智光秀の娘です。天正6年(1578)、信長のすすめで細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎました。ところが天正10年の本能寺の変で、父の光秀は「謀反人」となります(本能寺の変)。細川家は光秀に味方せず、玉は丹後の山奥の味土野に移されて、およそ2年を過ごしました。

天正12年、秀吉のとりなしもあって、玉は大坂の細川屋敷に戻ることを許されます。しかし自由に外へ出ることはできず、屋敷の中には見張りの家臣がいました。謀反人の娘として、そして天下人の家臣の妻として、玉は屋敷の奥で暮らしていたのです。

そんな玉がキリスト教に関心を持ったのは、夫の忠興を通じてでした。忠興は、茶の湯の仲間で親しかったキリシタン大名・高山右近から聞いた教えの話を、玉に語っていたといいます。

彼岸の日、屋敷を抜け出す

天正15年の春、忠興が九州攻めに出て屋敷を空けると、玉は動きます。春の彼岸で寺参りに出る人が多い日を選び、侍女たちにまぎれて屋敷を抜け出し、大坂の教会を訪ねたのです。

教会で玉の相手をしたのは、日本人の修道士コスメでした。玉は次々に問いを投げかけ、コスメはのちに、これほど明晰で、はっきりした判断をする日本の女性には会ったことがないと語ったと伝わります。玉はその場で洗礼を願いました。しかし教会の側は、身なりから身分の高い女性だとはわかっても、どこのだれかがわかりません。洗礼は見送られました。

やがて玉の不在に気づいた細川家の家臣が教会に駆けつけ、玉は輿で屋敷に連れ戻されます。教会がひそかにあとをつけさせて、ようやくこの女性が細川忠興の妻だとわかりました。

侍女の手で授けられた洗礼

屋敷に戻された玉は、ふたたび外へ出られなくなりました。それでも侍女たちを教会に通わせ、教えを書き取らせ、書物を取り寄せて学び続けます。そのあいだに、侍女の清原マリアたちが先に洗礼を受けました。マリアは、公家で学者の清原枝賢の娘です。

そこへ届いたのが、九州の筥崎で秀吉がバテレン追放令を出したという知らせでした(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。宣教師たちは九州へ去らなければなりません。去る前に玉の願いをかなえようと、宣教師のセスペデスが考えたのは、屋敷に入れない自分たちに代わって、侍女のマリアに洗礼を授けさせる方法でした。こうして玉は、大坂の屋敷の中で洗礼を受け、「ガラシャ(ラテン語で恵み)」という洗礼名を得ます。

なぜ追放令のあとだったのか

ふつうに考えれば、追放令が出たあとに洗礼を受けるのは危ういことです。それでも玉が踏み切った理由を、本人の言葉で知ることはできません。ただ、時期を並べると、追放令こそがきっかけだったことが見えてきます。宣教師が去ってしまえば、洗礼を受ける機会は二度と来ないかもしれない。追放令は、玉にとって「今しかない」と決める知らせでもあったのです。

もう一つ重なるのが、高山右近です。追放令が出された6月19日、秀吉は右近に、信仰を捨てるか領地を捨てるかを迫りました。右近は領地を捨てます。夫の友人で、玉が教えを知るきっかけとなった右近が、信仰のためにすべてを手放したことを、玉がどう受け止めたかはわかりません。しかし同じ夏、二人がそろって信仰の側を選んだのは、偶然以上のものを感じさせます。

よく語られる話

ガラシャは夫に隠れて入信し、そのことはずっと知られなかった。

史実ではこうです

九州から戻った忠興はすぐに妻の入信を知り、激しく怒って棄教を迫りました。しかし玉は拒み通し、忠興もやがて黙認するようになったと宣教師の記録は伝えています。隠し通したのではなく、知られたうえで信仰を守ったのです。

その後のガラシャ

洗礼のあとも、ガラシャは屋敷の奥で信仰を守り続けました。そして13年後の慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの直前、石田三成が大坂の大名の妻子を人質に取ろうとしたとき、ガラシャはこれを拒みます。キリシタンとして自害はできない教えに従い、家臣の手で命を絶たれ、屋敷は炎に包まれました。38歳でした。秀吉が大名の妻子を京や大坂に集めた仕組みについては妻子人質令とはで紹介しています。

よくある疑問

Q. 細川ガラシャはいつ洗礼を受けましたか?
A. 天正15年(1587)、秀吉がバテレン追放令を出したあとの夏ごろです。夫の忠興は九州攻めに出ていました。

Q. だれが洗礼を授けたのですか?
A. 侍女の清原マリアです。宣教師が屋敷に入れないため、宣教師のセスペデスの指示でマリアが授けました。

Q. 「ガラシャ」とはどういう意味ですか?
A. ラテン語で「恵み」を意味する洗礼名です。

Q. 夫の細川忠興はどう反応しましたか?
A. 九州から戻って入信を知ると激しく怒り、棄教を迫りましたが、ガラシャは拒み通し、のちに忠興も黙認したと伝わります。

参考:フロイス『日本史』、『国史大辞典』「細川ガラシャ」、安廷苑『細川ガラシャ』ほか

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