徳川家康から豊臣秀吉へ寝返った石川数正の最後とは?【日本の歴史ブログ】

松本城:貴重な国宝天守 徳川家重臣だった石川数正築城の日本四大国宝 松本城 【お城特集 日本の歴史】

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徳川家康から豊臣秀吉へ寝返った石川数正の最後とは?

石川数正といえば、徳川家康が松平元康と名乗っていた頃から側近くに仕えた重臣中の重臣である。特に酒井忠次と並んで西三河と東三河を統治する重要な役目を担っていました。

そんな石川数正が主君の徳川家康から、豊臣秀吉との調整役を任されたことから両者の関係に溝が生まれてくる。直に大坂の城下町や巨大な居城大坂城を目にした数正は、豊臣政権の本当の底力を目の当たりにして徳川家としても恭順するべきだと考えるようになる。

しかし、実際に豊臣政権の実力を目の当たりにしていない徳川譜代の重臣たちはそんな数正を臆病者扱いする、もしくは秀吉に籠絡されたのではと揶揄するようになる。それでも主君の家康は継続して数正を豊臣家との交渉役にし続けるがついに数正は徳川家を出奔して豊臣秀吉の直臣になってしまう。

もちろん秀吉からの猛烈なアプローチもあったであろうが結果としては数正が主君の家康を見限ったことになる。徳川家の軍制や内政に深く関与していた数正の出奔は徳川家に大きな衝撃を与えるとともに、急いで軍制改革に取り組む必要に迫られた。

こうして豊臣家に仕えることになった数正は、秀吉から河内国内で8万石の領地を拝領し、その後、小田原征伐を経て信州松本城にて10万石(筑摩郡と安曇郡)を拝領した。秀吉の家臣となった数正は、通称を出雲守に改め、さらに秀吉の偏諱を一字賜って「吉輝」と改名し、出雲守吉輝を称したと伝わっている。数正は松本の城を大々的に改修し、権威と実戦に備えた唯一無二の城に整えただけではなく、街道の整備や城下町の整備にも尽力して精力的に政治基盤を築き上げた。

※写真は豊臣秀吉から石川数正が与えられた松本城
徳川家康から豊臣秀吉へ寝返った石川数正の最後とは? 【日本の歴史ブログ】

今の松本城の原型を作り上げたのは石川数正と言えるであろう。そんな数正は文禄2年(1593年)に61歳で死去したが、年齢的にも衰弱死と言うよりは病死だったと考えるのが自然ではないでしょうか。

一説によると、文禄元年(1592年)に死去したとされており、この時代の研究資料にも多く使われている『言経卿記』には12月に京都の七条河原で葬儀が執り行われたと記録されている。文禄元年と言えば、秀吉が朝鮮攻めを発令した「文禄の役」の最中であり、数正は最前線基地である肥前の陣中で亡くなったとも伝えられている。

石川家の家督は長男の「石川康長」が継いだが、遺領のうち康長が8万石、次男の康勝は1万5千石、三男の康次は5千石を分割相続することになった。その後、石川家は「大久保長安事件」の連座したという罪で改易されてしまい、分家の「康勝」「康次」も同様に改易となってしまう。

数正が徳川家を出奔したのであるから、徳川家としても早い段階で大名から転落させる機会を常に狙っていたのではないだろうか。なお、数正の嫡男「康長」と次男「康勝」は、大坂の陣にて豊臣方として大坂城へ入城し最後は戦死したと伝えられている。
大坂夏の陣において、康勝は天王寺・岡山の戦いに出陣し、天王寺口で真田信繁隊(真田幸村)の寄騎として戦うが、乱戦の中で討死した。

石川数正の家系はこれで途絶えてしまい江戸期を通して武家としては旗本としても残ることは出来なかった。

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【松本城(深志城)・場所・アクセス】
〒390-0873 長野県松本市丸の内4-1

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