家康はなぜ軍法を「武田流」に改めたのか|石川数正の出奔と、信玄に学んだ徳川軍

この記事のポイント
  • 天正13年(1585)、石川数正が秀吉のもとへ出奔すると、徳川家の軍の仕組みや城の守りは秀吉に知られたと考えなければならなくなりました
  • そこで家康は、三河以来の軍法を改め、武田信玄の時代の「武田流」にならったと伝わります
  • 家康は天正10年(1582)の武田家滅亡のあと、多くの武田の旧臣を召し抱えていました。井伊直政の「赤備え」もその一つで、武田流を取り入れる下地はすでにありました
  • 江戸時代には、武田の兵法を伝える「甲州流軍学」が広まります。「神君家康も信玄に学んだ」という話は、その権威を高めることにもなりました

石川数正の出奔で、家康は「軍法を武田流に改めた」とよくいわれます。では、武田流とはどんなもので、家康は何を変えたのでしょうか。この記事では、数正の出奔と軍法の改革、家康が武田から学んだもの、そして江戸時代の甲州流軍学までを紹介します。数正の出奔そのものは石川数正はなぜ出奔したのかでくわしく書いています。

躑躅ヶ崎館跡(武田神社)
武田信玄の本拠だった躑躅ヶ崎館の跡(躑躅ヶ崎館跡)
目次

なぜ軍法を改める必要があったのか

石川数正は、家康が幼いころから仕えてきた最古参の重臣で、西三河の武士を束ねる旗頭でした。徳川軍の編成や陣の組み方、合図の決まり、城の守り方まで、徳川の戦い方のすべてを知っていました。

その数正が、敵である秀吉のもとへ走ったのです。徳川の戦い方は、そっくり秀吉に伝わったと考えなければなりません。秀吉との決戦が迫るなかで、家康は戦い方そのものを変える必要に迫られました(石川数正が去った岡崎城は誰が守ったのか)。

家康の軍法改革 ─ 伝えられている話

江戸時代にまとめられた記録には、数正の出奔のあと、家康が三河以来の軍法を改め、武田信玄の時代の軍法にならったという話が見えます。甲斐を治めていた家臣を通じて、武田家に仕えていた者たちから、信玄のころの軍法や武具の決まりなどを書き出させて集め、それをもとに徳川の軍法を立て直した、というのです。

ただし、どの法をどう改めたのか、くわしい中身を示す同じ時代の史料は残っていません。この話は、数正の出奔がそれほど大きな衝撃だったことを伝える一方で、具体的な改革の中身はよくわかっていない、というのが実際のところです。

▽ よく語られる話
数正の出奔を受けて、家康は一夜にして徳川の軍法を武田流に切り替えた。
▼ 史実ではこうです
家康は数正の出奔より前から、武田の旧臣を大勢召し抱え、その戦い方を取り入れていました。数正の出奔は、その流れを一気に進めるきっかけになったと考えるのが自然です。改革の具体的な中身は、同じ時代の史料からははっきりしません。

武田流を取り入れる下地 ─ 天正10年の武田旧臣

天正10年(1582)3月、織田信長の甲州攻めで武田家は滅びました。その3か月後に本能寺の変が起きると、家康は甲斐と信濃をめぐって北条と争い、両国の多くを手に入れます(天正壬午の乱)。このとき家康は、行き場を失った武田の旧臣を積極的に召し抱えました。数百人もの武田旧臣が、家康に忠誠を誓う起請文を出したことが知られています。

なかでも有名なのが、井伊直政の「赤備え」です。家康は、武田家の名将・山県昌景らが率いた赤備えの武士たちを直政の配下につけ、武具を赤一色にそろえさせました。この赤備えは、小牧・長久手の戦いで大いに活躍します(井伊直政はなぜ「赤鬼」と呼ばれたのか)。

井伊直政のイメージイラスト
武田の赤備えを受け継いだ井伊直政(イメージイラスト)

つまり、数正が出奔したころの徳川軍には、すでに武田の戦い方を知る武士が大勢いました。家康が軍法を武田流に改めることができたのは、この人材の厚みがあったからです。

家康はなぜ武田に学んだのか

家康にとって、武田信玄は忘れられない相手でした。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いで、家康は信玄に大敗し、命からがら浜松城へ逃げ帰っています(三方ヶ原の戦いとは)。最強の敵だった武田の戦い方を取り入れることは、家康にとって自然な選択だったといえます。

また、武田の旧臣を重く用いることは、新しく手に入れた甲斐・信濃を治めるうえでも役立ちました。旧臣たちの経験をそのまま生かし、土地の武士たちを味方につけることができたからです。

数正出奔の前 数正出奔の後
武田旧臣 天正10年から大勢召し抱える 軍法の手本として重く用いられる
軍法 三河以来のやり方が中心 武田流にならって改めたと伝わる
西三河の旗頭 石川数正 数正の出奔で不在に。家康の直臣の比重が高まる

江戸時代の「甲州流軍学」へ

江戸時代に入ると、武田家の旧臣の流れをくむ小幡景憲が、信玄の兵法を伝える「甲州流軍学」を広めました。その教科書となったのが、武田家の歴史や信玄の戦い方を記した『甲陽軍鑑』です。甲州流軍学は、幕府や諸藩の武士たちに広く学ばれました。

「神君家康公も、信玄の軍法に学んだ」という話は、甲州流軍学の権威を高めることにもなりました。数正の出奔から始まった武田流への切り替えは、江戸時代を通じて、徳川の世の兵法の土台として語り継がれていったのです。

甲府城跡
武田家の滅亡後、甲斐を治める拠点として築かれた甲府城(甲府城)
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」(10月18日放送予定)では、数正の出奔で徳川家が騒然となる場面があると伝えられています。数正に戦い方を知られた家康が、どのように立て直しを図るのかにも注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 武田流に改める前、徳川の軍法は何流だったのですか?
A. 流派の名はありませんでした。刀や槍の使い方を教える武術では、新陰流のように早くから流派が立っていましたが、軍そのものの動かし方を「何流」と呼ぶようになるのは江戸時代に入ってからです。甲州流も北条流も山鹿流も、すべて江戸期に生まれた軍学の名前で、戦国のさなかに家康が「うちは何流だ」と名乗っていたわけではありません。数正が去るまでの徳川の戦い方は、松平家が今川のもとにあったころの決まりごとに、桶狭間のあとの自立と、織田との同盟のなかで覚えたやり方が重なったもので、「三河以来の」としか呼びようのないものでした。東三河を酒井忠次、西三河を石川数正が束ねる二つの旗頭の体制も、その一部です。つまり「武田流に改めた」という言い方自体が、のちの軍学の言葉で後から整理された表現にあたります。

Q. 家康が軍法を武田流に改めたのはなぜですか?
A. 徳川軍の編成や戦い方を知り尽くしていた石川数正が、秀吉のもとへ出奔したためです。徳川の戦い方が秀吉に知られたと考え、改める必要がありました。

Q. 武田流の軍法とは何ですか?
A. 武田信玄の時代の武田家の軍法や、陣の組み方、武具の決まりなどを指します。家康は武田の旧臣から聞き取ってまとめさせたと伝わりますが、くわしい中身ははっきりしません。

Q. 家康はいつから武田の旧臣を召し抱えていたのですか?
A. 天正10年(1582)の武田家滅亡と、その後の天正壬午の乱のころからです。井伊直政の赤備えも、武田の旧臣を配下につけたものでした。

Q. 甲州流軍学とは何ですか?
A. 江戸時代に小幡景憲が広めた、武田信玄の兵法を伝える軍学です。『甲陽軍鑑』を教科書とし、幕府や諸藩の武士に学ばれました。

まとめ

石川数正の出奔で、徳川の戦い方は秀吉に知られたと考えなければならなくなりました。家康は、三河以来の軍法を武田流に改めたと伝わります。それが可能だったのは、天正10年から多くの武田の旧臣を召し抱え、井伊の赤備えのように武田の戦い方を取り入れてきた下地があったからでした。三方ヶ原で信玄に敗れた家康が、その信玄に学んで軍を立て直したこと。それは江戸時代の甲州流軍学にもつながっていきます。

参考:『徳川実紀』/『当代記』/『甲陽軍鑑』/平山優『天正壬午の乱』戎光祥出版/柴裕之『徳川家康』平凡社

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