石川数正はなぜ家族を連れて出奔できたのか|戦国の人質と離反の明暗 ─ 木曽義昌の悲劇、穴山梅雪の策略、荒木村重、黒田長政

夜明け前の薄闇の中、提灯を手に城門を出ていく武将と家族・家来の一行の後ろ姿
この記事のポイント
  • 戦国時代、家臣や従属した国衆は、裏切りを防ぐために妻子や母を主君の城下に「人質」として置かされるのが普通でした。離反すれば、残された人質は殺されることもありました
  • 石川数正が天正13年(1585)に出奔できたのは、数正自身が岡崎城代として城と家族を手元に置いていたこと、そして秀吉のもとにはすでに数正の子がいたことが大きかったと考えられます
  • 城代でも、数正に従ったのは妻子と自分の家来が中心で、軍勢は動いていません。西三河の武士の多くは家康直属の「与力」で、徳川家に残りました
  • 武田家から離反した木曽義昌は、甲斐に置いていた母と子を武田勝頼に殺されました。一方、同じく離反した穴山梅雪は、事前に妻子をひそかに取り戻してから寝返りました
  • この記事では、人質をめぐる「悲劇の例」と「うまくいった例」を並べながら、数正の出奔がなぜ成功したのかを考えます

石川数正は、主君・徳川家康のもとを去って秀吉に走りました。しかし戦国時代、主君を裏切るのは簡単なことではありません。多くの家臣や国衆は、妻子や母を主君の城下に人質として置いていて、離反すればその命が危うくなるからです。では、数正はなぜ出奔できたのでしょうか。数正が出奔した理由そのものは石川数正はなぜ出奔したのか(裏切り・寝返りの理由)で、五つの説を紹介しています。

夜明け前に城門を出ていく武将と家族のイメージイラスト
妻子や家臣を連れて岡崎を出る石川数正のイメージ(イメージイラスト)
目次

戦国の「人質」のしくみ

戦国大名は、家臣や従属した国衆が裏切らないよう、その妻子や母を自分の城下に住まわせました。これが人質です。武田家では、従属した国衆の家族を甲府の躑躅ヶ崎館の城下に置かせ、のちに新府城を築くと、そこにも人質が集められていたとされます。

人質は、平時には大切に扱われ、主君の家で教育を受けることもありました。徳川家康自身も、少年時代を今川家の人質として駿府で過ごしています。しかし、ひとたび離反すれば、人質は見せしめとして殺されることがありました。人質は、まさに「命がけの約束」の担保だったのです。

石川数正はなぜ出奔できたのか

では、数正はどうだったのでしょうか。数正が家族を連れて出奔できた理由として、次の三つが考えられます。

① 数正自身が岡崎城代だった

数正は、家康の本拠・浜松城ではなく、三河の岡崎城を預かる城代でした。岡崎は家康の生まれた城で、三河支配の要です。数正の妻子は岡崎で数正とともに暮らしていて、浜松に人質として取られていたわけではありませんでした。天正13年11月13日、数正は妻子や家臣を連れて、そのまま岡崎から尾張へ抜けることができたのです(岡崎城)。

岡崎城
数正が城代を務めていた岡崎城(天守は昭和の復興)

② 秀吉のもとにはすでに数正の子がいた

天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いのあと、家康は次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として差し出しました。このとき於義丸に付き従って大坂へ行った小姓のなかに、数正の子・勝千代(のちの石川康勝)と、本多作左衛門重次の子・仙千代(のちの本多成重)がいたと伝わります(結城秀康とは/石川数正の次男・康勝)。

つまり数正にとって、自分の子はすでに秀吉の手元にいたのです。徳川にとどまれば子は秀吉側の「人質」であり、秀吉のもとへ行けば子と再会できる ─ この事情が、数正の決断に影響した可能性はあります。

③ 小笠原貞慶の人質まで連れていった

数正は、徳川方に預けられていた信濃の小笠原貞慶の嫡男・幸松丸も連れて出奔したとされます。岡崎城代として人質を預かる立場だった数正は、その人質を持ち出すこともできたのです。貞慶も徳川を離れて秀吉方につきました(小笠原貞慶とは)。

▽ よく語られる話
石川数正は、家族を見捨てて一人で秀吉のもとへ逃げた。
▼ 史実ではこうです
数正は妻子や家臣を連れて出奔しています。岡崎城代として家族を手元に置いていたため、人質を残して離反した木曽義昌のような悲劇は起きませんでした。家康の側は、数正の家族を人質として押さえていなかったことになります。

石川数正は何人の家臣を連れて出奔したのか ─ 城代なのに軍勢が動かなかった理由

数正は岡崎城代で、西三河の武士を束ねる立場にありました。それなら数千の軍勢を率いて秀吉のもとへ走れたのでは、と思うかもしれません。しかし実際に数正に従ったのは、妻子や一族と、数正が自分で召し抱えていた家来たちにとどまったと考えられます。出奔した人数を正確に記した確かな史料はありませんが、数千という規模ではなく、多く見ても数十人から百人前後だったとみるのが自然です。

① 西三河の武士の多くは「与力」だった

家康の家臣団は、東三河を酒井忠次、西三河を石川家成(のちに数正)が束ねる「旗頭」の体制でした。ただし、旗頭の下で戦う武士の多くは「与力」と呼ばれ、家康から数正の指揮下に付けられているだけの、家康直属の家臣でした。戦場では数正の命令で動いても、主君はあくまで家康です。数正が寝返ったからといって、ついて行く理由はありませんでした。実際、西三河の武士がまとまって秀吉方に移った形跡はなく、彼らはそのまま徳川家に残っています。

② 大人数では逃げきれない

数千の兵が動けば、支度の段階で周囲に知れ渡り、家康方に止められてしまいます。徳川家臣・松平家忠の『家忠日記』には、天正13年11月13日に数正が尾張へ退いたことが記され、家忠自身も知らせを受けて岡崎へ駆けつけています。徳川方は事前に気づけなかったのです。少人数で、すばやく抜け出したからこそ出奔は成功したといえます。

③ 連れて行ったのは「自分の家来」と預かっていた人質

数正とともに岡崎を出たのは、次のような人々だったと考えられます。

  • 妻子や一族
  • 数正が自分で召し抱えていた家臣と、その家族
  • 数正が岡崎で預かっていた、信濃の小笠原貞慶の子・幸松丸(のちの小笠原秀政)
立場 本当の主君 出奔のとき
数正自身の家臣 石川数正 数正に従って尾張へ
与力(西三河の武士) 徳川家康 徳川家に残った
妻子・一族 ─ 数正とともに尾張へ
小笠原貞慶の人質 (徳川方で預かり) 数正が連れて秀吉のもとへ

数正に従った家臣たちは、のちに数正が秀吉から所領を与えられ、天正18年(1590)に信濃松本の大名となると、その家臣団の中心になっていったと考えられます。

家康にとっての痛手は、兵の数ではありませんでした。徳川の軍の仕組みや城の守り、家臣団の内情を知り尽くした重臣が去ったことです。このため家康は、軍法を武田流に改めたと伝わります。数正が出奔した理由については石川数正はなぜ出奔したのか(裏切り・寝返りの理由)をご覧ください。

悲劇を招いた例

木曽義昌 ─ 母と子を武田勝頼に殺された

信濃の木曽谷を治めた木曽義昌は、武田信玄の娘を妻とする武田家の一門衆でした。ところが天正10年(1582)2月、織田信長に通じて武田家に背きます。これが織田家の武田攻め(甲州征伐)の引き金となりました。

このとき、義昌の母と嫡男・長女は、人質として武田家のもとに置かれていました。怒った武田勝頼は、新府城でこの人質を処刑したと伝わります。義昌は裏切りの代償として、母と子を失ったのです。その翌月、武田家は滅びました(木曽福島城/新府城跡)。

新府城跡
武田勝頼が築いた新府城の跡。人質が集められていたとされます

荒木村重 ─ 一族と家臣の妻子が処刑された

天正6年(1578)、摂津の有岡城主・荒木村重は信長に背きました。一年近い籠城の末、村重は城を抜け出して尼崎へ逃れますが、城に残された妻子や家臣の家族は捕らえられます。信長は、村重の一族や家臣の妻子ら数百人を処刑しました。戦国時代でも、とくに凄惨な人質の悲劇として知られます(有岡城跡)。

有岡城跡
荒木村重の有岡城の跡(兵庫県伊丹市)

細川ガラシャ ─ 人質になることを拒んだ死

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの直前、石田三成は東軍についた大名の妻子を大坂城に人質として集めようとしました。細川忠興の妻・ガラシャ(玉)はこれを拒み、屋敷に火を放たせて命を落とします。人質になることを拒んだ悲劇として知られます(勝竜寺城)。

うまくいった例

穴山梅雪 ─ 事前に妻子を取り戻してから寝返った

穴山梅雪(信君)は、武田信玄の姉の子で、妻も信玄の娘という、武田一門の重鎮でした。天正10年(1582)、木曽義昌に続いて、梅雪も武田家を離れて徳川家康・織田信長に通じます。

このとき梅雪は、甲府に置いていた妻子を、離反を明らかにする前に、雨の夜にひそかに連れ出して自分の領地へ取り戻したと伝わります。人質を先に取り戻してから寝返る ─ 木曽義昌とは対照的に、周到な策略で家族を守ったのです(江尻城)。

江尻城跡
穴山梅雪が城主を務めた江尻城の跡(静岡市)

黒田官兵衛の子・松寿丸 ─ 竹中半兵衛がかくまった

天正6年(1578)、黒田官兵衛は荒木村重を説得しに有岡城へ入りましたが、そのまま捕らえられて幽閉されます。官兵衛が戻らないのを裏切りと疑った信長は、人質として預かっていた官兵衛の子・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう命じました。しかし竹中半兵衛がひそかに松寿丸をかくまい、命を救ったと伝わります(黒田長政とは)。

関ヶ原 ─ 大坂屋敷から脱出した妻たち

ガラシャと同じ慶長5年、三成が大名の妻子を人質に取ろうとしたとき、黒田如水の妻と長政の妻は、家臣の機転で俵に隠れるなどして大坂の屋敷を脱出したと伝わります。加藤清正の妻も、家臣に守られて大坂を抜け出しました。こうして家族を守った大名たちは、安心して東軍として戦うことができたのです。

人質をめぐる明暗の一覧

人物 時期 人質 結果
木曽義昌 天正10年 母・嫡男・長女(武田家のもと) 離反後、武田勝頼に処刑される
荒木村重 天正6〜7年 一族と家臣の妻子 信長に処刑される
細川ガラシャ 慶長5年 本人が人質に求められる 拒んで死去
穴山梅雪 天正10年 妻子(甲府) 離反前にひそかに取り戻す
黒田長政(松寿丸) 天正6年 本人(信長のもと) 竹中半兵衛がかくまい助かる
黒田・加藤の妻 慶長5年 大坂屋敷の妻 脱出に成功
石川数正 天正13年 妻子は岡崎で同居、子は秀吉のもと 家族を連れて出奔に成功

なぜ数正の出奔は成功したのか ─ 筆者の見方

ここからは筆者の見方です。数正の出奔が悲劇にならなかったのは、数正が「人質を取られる側」ではなく、「人質を預かる側」だったからでしょう。岡崎城代として城と家族を手元に置き、他家の人質まで預かっていた数正は、徳川家のなかで家康に次ぐほどの自由を持っていました。しかも、子はすでに秀吉のもとにいました。

裏を返せば、家康は数正をそれだけ信頼していたということです。最も信頼していた重臣だからこそ、人質で縛る必要がなかった ─ その信頼が、出奔を可能にしたともいえます。数正の出奔のあと、家康が軍制を改め、岡崎の守りを急いで固めたのは、その衝撃の大きさを物語っています(石川数正の出奔で徳川家はどう変わったのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」(10月18日放送予定)では、数正の出奔で浜松城が騒然となり、家康が数正の書き置きを見つめる場面があると伝えられています(石川数正の「書き置き」は史実か)。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 石川数正はなぜ家族を連れて出奔できたのですか?
A. 数正は岡崎城代で、妻子を岡崎で手元に置いていたため、人質を取られていませんでした。さらに数正の子は、於義丸に付き従ってすでに秀吉のもとにいたと伝わります。

Q. 石川数正は何人の家臣を連れて出奔したのですか?
A. 正確な人数を記した確かな史料はありません。従ったのは妻子・一族と数正自身の家来が中心で、数千ではなく数十人から百人前後とみられます。西三河の武士の多くは家康直属の与力だったため、徳川家に残りました。

Q. 戦国時代の人質とは何ですか?
A. 家臣や従属した国衆が裏切らないよう、その妻子や母を主君の城下に住まわせるしくみです。離反すれば殺されることもありました。

Q. 木曽義昌の人質はどうなったのですか?
A. 天正10年に義昌が武田家から離反すると、人質だった母と嫡男・長女は武田勝頼に処刑されたと伝わります。

Q. 穴山梅雪はどうやって人質を取り戻したのですか?
A. 離反を明らかにする前に、甲府に置いていた妻子を雨の夜にひそかに連れ出したと伝わります。

まとめ

戦国時代の離反は、人質となった家族の命をかけた決断でした。木曽義昌や荒木村重のように、残した家族を失った例もあれば、穴山梅雪のように事前に家族を取り戻してから寝返った例もあります。石川数正の場合は、岡崎城代として家族を手元に置き、子はすでに秀吉のもとにいたことで、家族を連れて出奔することができました。家康の深い信頼が、皮肉にも数正の出奔を可能にしたのです。

参考:『家忠日記』/『信長公記』/『甲陽軍鑑』/平山優『武田氏滅亡』角川選書

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