石川数正の地位と石高はどれくらいだったのか|西三河の旗頭と岡崎城代 ─ 戦国の徳川家に「老中」はまだない、河内八万石から松本まで

松本城:貴重な国宝天守 徳川家重臣だった石川数正築城の日本四大国宝 松本城
この記事のポイント
  • 数正の立場は「西三河の旗頭」と「岡崎城代」でした。徳川家が当時から「家老」「老中」という職名を用いていたわけではありません
  • 「老中」は江戸幕府の職です。呼び名が定まるのは三代家光のころで、数正が生きた時代にはまだありません
  • 徳川家中での数正の知行高を示す確かな史料は残っていません。当時の徳川領は検地も知行の整理も途中でした
  • 出奔したあとは河内で八万石を与えられ、小田原攻めのあとに信濃松本へ移ります。松本の石高には八万石説と十万石説があります

石川数正は「徳川の筆頭家老」と紹介されることがよくあります。ただ、その肩書きを当時の徳川家が使っていたかというと、そう単純ではありません。数正が実際に持っていた立場は「西三河の旗頭」と「岡崎城代」で、石高にいたっては確かな数字が残っていません。ここでは、数正が徳川家でどういう位置にいたのか、そして出奔のあと何石を得たのかを、順に整理します。

岡崎城
岡崎城(愛知県岡崎市)。数正が城代をつとめた城です
目次

戦国の徳川家に「家老」や「老中」はあったのか

先に言葉の整理をしておきます。「老中」は江戸幕府の職です。幕府が開かれたあとに少しずつ形が整えられ、その呼び名が定まるのは三代将軍家光のころでした。数正が徳川家にいたのはそれより半世紀ちかく前ですから、老中という職はまだ生まれていません。

では「家老」はどうか。戦国の大名家で家老という言い方そのものは使われていましたが、三河時代の徳川家の記録に出てくるのは「年寄」「宿老」といった言葉のほうが多く、役職というより「重んじられている古参」という意味合いに近いものでした。酒井忠次と石川数正を「両家老」と並べて呼ぶのも、二人の働きを後の世から整理した言い方です。忠次の側から見た徳川家中については酒井忠次とは ─ 徳川四天王筆頭と東三河の旗頭にまとめています。

数正の立場① 西三河の旗頭

家康は三河を平定したあと、家臣を地域ごとにまとめる形をとりました。東三河の武士は酒井忠次が、西三河の武士は石川数正が率いる。この「旗頭」が、数正のいちばんはっきりした立場です。

このころ徳川家を支えていた顔ぶれと、それぞれの持ち場は家康の上洛に従った家臣、岡崎に残った家臣で一覧にしています。

旗頭は役所に詰める役人ではありません。戦になればその地域の武士を引き連れて出陣し、ふだんは家康と彼らのあいだを取り持ちます。西三河は徳川家発祥の地ですから、そこを束ねるというのは、家中でもかなり重い立ち位置でした。

掛川城
掛川城(静岡県掛川市)。数正の叔父・石川家成が城主をつとめました

もともと西三河の旗頭は、数正の叔父にあたる石川家成がつとめていました。家成が遠江の掛川城を預かることになり、その役目が甥の数正へ移ります。石川家はもともと徳川の譜代で、一族で重い役を分けあっていた家でした。

数正の立場② 岡崎城代

もうひとつが岡崎城代です。岡崎は家康が生まれた城であり、徳川家の本拠でした。家康自身は遠江の浜松へ移っていましたから、岡崎は嫡男の信康が入り、その信康が天正七年に自害したあと、城を預かったのが数正です。

城代は、城主に代わってその城と周辺を預かる役です。どういう仕組みだったのかは城代とは何かでくわしく書きました。本拠の城を任されるというのは、家中で最も信を置かれた者にしか回ってこない役目です。数正が去ったあとに岡崎を預かったのは本多作左衛門重次でした(石川数正が去った岡崎城は誰が守ったのか)。

数正の立場③ 外交の窓口

役職の名前には出てきませんが、実質としてはこれがいちばん大きかったかもしれません。数正は織田家との取り次ぎを長くつとめ、小牧・長久手のあとは秀吉との交渉を一手に担いました。天正十二年の暮れに家康の次男・於義丸を秀吉のもとへ送り届けたのも数正です。

敵方と話せる人間は、家中では重宝されると同時に疑われます。秀吉が人質を求めてきたときの浜松での評議で、数正だけが「受けるべきだ」と説いて浮いてしまった経緯は秀吉の人質要求と浜松評定に、出奔の理由をめぐる五つの説は石川数正はなぜ出奔したのかにまとめています。

徳川家にいたころの石高はどれくらいだったのか

ここがいちばんよく聞かれるところですが、答えは「はっきりしない」です。数正が徳川家中で何石を得ていたのかを示す確かな史料は残っていません。

理由は、当時の徳川領がまだ石高で整理されていなかったことにあります。三河や遠江では、土地の価値を銭に直した貫高で家臣の知行を表す形が長く続いていました。領国をくまなく検地して石高に直すのは、秀吉の天下になってからのことです(太閤検地と刀狩とは)。つまり数正が旗頭をつとめていたころ、徳川家には「誰が何石」という一覧そのものが整っていませんでした。

家中での重さは、石高ではなく「西三河の武士を何人動かせるか」「本拠の城を預けられるか」で測るほうが実態に近いと思います。その意味では、数正は家中の最上層にいました。

出奔したあとの石高 ─ 河内八万石から信濃松本へ

数字がはっきりしてくるのは、秀吉に仕えてからです。天正十三年十一月に出奔した数正は、河内国内で八万石を与えられたと伝えられます。官途も伯耆守から出雲守に改め、名も吉輝としたとされます。

さらに天正十八年、小田原攻めが終わって家康が関東へ移されると、数正は信濃の松本へ入りました。このときの石高は八万石とする記録と十万石とする記録があり、定まっていません。松本城の天守は、数正と子の康長の代に建てられたとされます。出奔のてんまつと、石川家のその後は石川数正はなぜ出奔したのかに、数正とともに徳川を離れた小笠原貞慶については小笠原貞慶とはに書いています。

数正は文禄元年ごろに世を去り、松本は子の康長が継ぎました。その康長が慶長十八年の大久保長安事件に連座して改易され、石川家の大名としての歴史は終わります。

よくある疑問

Q. 石川数正は老中だったのですか?
A. いいえ。老中は江戸幕府の職で、呼び名が定まるのは三代家光のころです。数正の時代にはまだありません。

Q. では「筆頭家老」という言い方は間違いですか?
A. 間違いとまでは言えませんが、当時の呼び方ではありません。家中での重さを今の言葉で言い表したもので、実際の立場は「西三河の旗頭」と「岡崎城代」でした。

Q. 徳川家にいたころの石高は何石ですか?
A. 確かな史料がなく、分かりません。当時の徳川領は貫高で知行を表す形が続いており、領国を石高で整理したのは秀吉の天下になってからです。

Q. 秀吉からはいくら与えられたのですか?
A. まず河内国内で八万石とされ、天正十八年に信濃松本へ移ります。松本の石高は八万石説と十万石説があります。

Q. 河内八万石のとき、どこの城にいたのですか?
A. 居城を伝える記録が見あたりません。この八万石という数字じたい、江戸中期の随筆『塩尻』に見えるもので、同時代の確かな史料ではありません。そもそも河内では、高屋城も若江城も飯盛山城も信長の時代に壊されていて、大名が入るような城はほとんど残っていませんでした。知行は河内にあっても、本人は大坂に詰めていたと見るのが自然です。城の名がはっきりするのは、天正十八年に信濃の深志城(のちの松本城)へ移ってからになります。

Q. 旗頭と城代はどうちがうのですか?
A. 旗頭はその地域の武士を率いる役で、人に対する役目です。城代は城とその周辺を預かる役で、場所に対する役目になります。数正は両方を担っていました。

まとめ

石川数正の立場は、西三河の旗頭であり、岡崎城代であり、織田・豊臣との交渉の窓口でした。「家老」「老中」という呼び方は後の世の整理で、当時の役職名ではありません。徳川家にいたころの石高は、そもそも石高で知行を表す仕組みが整っていなかったため分かりません。数字がはっきりするのは秀吉に仕えてからで、河内八万石、のちに信濃松本です。家中での重さを知るには、何石だったかより、どの土地の武士を束ね、どの城を預かっていたかを見たほうが早いと思います。

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