名胡桃城事件(なぐるみじょうじけん)は、天正17年(1589)11月、北条家の家臣・猪俣邦憲が、真田家の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を奪い取った事件です。この年の夏、秀吉は沼田領をめぐる北条と真田の争いに裁定を下し、沼田城を含む三分の二を北条に、名胡桃城を含む三分の一を真田にと分けたばかりでした。その裁定を踏みにじったとして、秀吉は北条を討つと宣言し、翌年の小田原攻めで北条家は滅びます。名胡桃城はどうやって奪われたのか、なぜ名胡桃だけが真田に残されたのか、そして「秀吉と真田の罠だった」という説の中身まで、史料にもとづいて整理します。

背景 ─ 沼田をめぐる三家の争い
上野国の沼田(群馬県沼田市)は、越後・信濃・関東を結ぶ交通の要です。武田家が滅んだあと、この地を押さえていたのは真田昌幸でした。ところが天正10年(1582)、本能寺の変のあとの争いを収めるために徳川家康と北条氏政が和睦したとき、家康は「上野は北条のもの」と認め、真田の沼田を北条に渡す約束をしてしまいます。
自分の力で手に入れた土地を勝手に渡せと言われた昌幸はこれを拒み、徳川から離れました。怒った家康が天正13年(1585)に上田城を攻めて大敗したのが、第一次上田合戦です(第一次・第二次上田合戦)。沼田をめぐる三家の争いの全体は徳川と真田は何でもめていたのかでくわしく書いています。
やがて家康が秀吉に臣従し、真田も豊臣の大名として扱われるようになると、沼田の問題は秀吉が裁く案件になりました。北条にとって沼田は、上洛して秀吉に従う前に解決しておきたい「最後の懸案」だったのです。
秀吉の沼田裁定 ─ 「三分の二」と「三分の一」
天正17年(1589)7月、秀吉は沼田領について裁定を下しました。内容は次のとおりです。
- 沼田城を含む沼田領の三分の二を北条に渡す
- 名胡桃城を含む残りの三分の一は真田に残す
- 真田が失う三分の二の代わりの土地(替地)は、徳川家康が真田に与える
秀吉の使者が立ち会って沼田城が北条方に引き渡され、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が沼田城に入りました。北条は「沼田を手に入れた」と考え、約束どおり当主の父・氏政が上洛する段取りを進めることになります。
なぜ名胡桃だけが真田に残されたのか
裁定のなかでひときわ目を引くのが、沼田城のすぐ近くにある名胡桃城だけが真田に残された点です。名胡桃城は、利根川をはさんで沼田城と数キロの距離で向かい合う位置にあります。北条から見れば、のどもとに刃を突きつけられたような城でした。
真田が名胡桃を手放さなかった理由として伝わるのが、昌幸が「名胡桃は真田の先祖の墳墓の地である」と主張し、秀吉がそれを認めたという話です。ただ、真田家のもともとの本拠は信濃の小県(ちいさがた)で、名胡桃は昌幸が武田家の命で沼田攻めの拠点として取り立てた城でした。「先祖の墓所」という主張には、どこまで実態があったのか疑問も残ります。
名胡桃城はどうやって奪われたのか ─ 猪俣邦憲の計略
裁定から四か月後の天正17年11月3日、事件が起こります。経過は、江戸時代にまとめられた真田側の記録『加沢記』などによって、おおよそ次のように伝わっています。
- 名胡桃城の城代は、真田の家臣・鈴木重則(主水)でした。
- 沼田城の猪俣邦憲は、名胡桃城の城番の一人・中山九郎兵衛をひそかに味方に引き入れます。
- 中山は、真田昌幸からの命令に見せかけた偽の書状を鈴木に渡し、鈴木を城の外へおびき出しました。
- 城代のいなくなったすきに、中山が城門を開け、猪俣の兵が名胡桃城に入って城を押さえました。
- 途中で計略に気づいた鈴木は、城を失った責任をとって自ら命を絶ったと伝えられます。
刀を交える大きな戦いはなく、内通と偽の手紙だけで城が奪われたことになります。真田の拠点だった岩櫃城や沼田城の歴史は岩櫃城・沼田城でも紹介しています。

秀吉の反応 ─ 「北条を赦さない」
知らせを受けた秀吉の動きは素早いものでした。11月21日、秀吉は真田昌幸に書状を送り、名胡桃城を取り返すまで北条を赦さないと伝えます。さらに11月24日には、北条氏直にあてて北条の非を並べた書状を出し、諸大名にもその写しを配って、北条を討つことを宣言しました。
秀吉の言い分の要点は、「名胡桃城は関白である自分が裁定して真田のものと決めた城であり、それを奪うことは天下の裁きに逆らうことだ」というものです。大名どうしの私的な争いを禁じる秀吉の命令に背いた、というわけです。惣無事の考え方については秀吉はなぜ関白になったのかも参考になります。
北条の言い分 ─ 「まったく知らない」
北条氏直は12月7日付けの書状で、名胡桃城はすでに真田から引き渡されて北条のものになっている城であり、奪う必要もなく、自分たちはまったく知らないことだ、と弁明しています。北条の側から見れば、名胡桃は裁定で受け取ったはずの城か、あるいは家臣が勝手にしたことで、家として秀吉に逆らう意図はなかったという主張です。
しかし、この弁明は聞き入れられませんでした。秀吉はすでに出兵の準備を進めていて、翌天正18年(1590)、二十万ともいわれる大軍で小田原を囲みます(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。
秀吉と真田の罠だったのか ─ 三つの見方
名胡桃城事件については、本当に北条が一方的に裁定を破ったのか、それとも北条がわなにはめられたのか、いまも見方が分かれています。
| 見方 | 内容 | 弱いところ |
|---|---|---|
| 北条暴走説 | 沼田城の猪俣邦憲が、名胡桃城を取らなければ沼田を守れないと考えて独断で奪った。北条本家は知らなかったか、黙認した | 北条が上洛を約束していた時期に、なぜ危険を冒したのかが説明しにくい |
| 秀吉・真田の罠説 | 名胡桃をわざと残し、北条が手を出すよう仕向けた。中山九郎兵衛の内通も、真田側の仕掛けだった可能性がある(歴史作家・橋場日月氏など) | 秀吉や昌幸が仕掛けたことを示す同時代の史料はない |
| 事件そのものへの疑問 | 北条氏直は「名胡桃はすでに北条に渡されていた城だ」と主張した。裁定の線引きや引き渡しに食い違いがあり、北条から見れば「奪った」意識はなかった | 秀吉の裁定や真田側の記録とは食い違う |
ここからは筆者の見方です。秀吉が最初から名胡桃城事件を「仕掛けた」と言い切れる証拠はありません。ただ、北条の足もとに名胡桃という「火種」をわざわざ残した裁定は、結果として北条に手を出させやすい形になっていました。秀吉は北条が上洛して臣従すれば受け入れ、裁定を破ればそれを口実に討つ ─ どちらに転んでもよいように盤面を整えていた、と見るのが自然だと考えます。北条は、猪俣という一家臣の行動で、その盤面のいちばん悪い目を引いてしまったのです。
その後 ─ 北条の滅亡と、沼田の行方
天正18年(1590)の小田原攻めで北条家は降伏し、氏政は切腹、氏直は高野山へ送られました。名胡桃城を奪った猪俣邦憲も、北条家とともに表舞台から消えます。そして沼田領は、名胡桃を含めてすべて真田に与えられ、昌幸の長男・信幸(のちの信之)が沼田城主となりました。沼田をめぐる長い争いは、北条の滅亡によって真田の勝利で終わったのです(真田家とは)。
あわせて読みたい:北条氏政とは(谷原章介)/真田昌幸とは
名胡桃城事件についてよくある質問
Q. 名胡桃城事件はいつ起きたのですか?
A. 天正17年(1589)11月3日です。この年の7月に秀吉が沼田領の裁定を下し、その四か月後に起きました。
Q. 名胡桃城を奪ったのは誰ですか?
A. 北条氏邦の家臣で、沼田城に入っていた猪俣邦憲です。名胡桃城の城番・中山九郎兵衛を内通させ、偽の書状で城代の鈴木重則を城外へおびき出したと伝わります。
Q. なぜ名胡桃城だけが真田領として残されたのですか?
A. 真田昌幸が「先祖の墳墓の地」と主張し、秀吉が認めたためと伝わります。ただし名胡桃は真田の本拠ではなく、主張の実態には疑問もあります(徳川と真田は何でもめていたのか)。
Q. 名胡桃城事件は秀吉や真田の罠だったのですか?
A. そう見る説はありますが、確かな証拠はありません。北条側は「まったく知らない」と弁明しています。
Q. 『豊臣兄弟!』で北条氏政を演じるのは誰ですか?
A. 谷原章介さんです。
まとめ
名胡桃城事件は、秀吉の沼田裁定からわずか四か月後、北条の家臣・猪俣邦憲が内通と偽の書状で真田の名胡桃城を奪った事件でした。沼田城ののどもとにある名胡桃だけが真田に残されたこと、北条が「知らない」と弁明しても聞き入れられなかったことから、秀吉と真田の罠だったとする見方も生まれています。真相ははっきりしませんが、この一件が北条家の滅亡と、真田による沼田の回復につながったことは確かです。北条家がどれほどの領国を持っていたのかは北条家の領国とはで紹介しています。
参考:『加沢記』/豊臣秀吉朱印状(天正17年11月24日)/北条氏直書状(天正17年12月7日)/黒田基樹『北条氏政』ミネルヴァ書房/丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書/橋場日月「豊臣秀吉にはめられた? 北条家滅亡の引き金となった“名胡桃城事件”の本質」(歴史街道)
