名胡桃城:北条滅亡の引き金になった真田の城 ─ 名胡桃城事件の舞台と、一列に並ぶ曲輪の見どころ・アクセス

河岸段丘の上に連なる名胡桃城のイメージイラスト
この記事のポイント
  • 名胡桃城(群馬県みなかみ町)は、利根川の西岸、河岸段丘の上に築かれた真田家の城です。天正7年(1579)、武田勝頼の命を受けた真田昌幸が、沼田城を攻める拠点として取り立てたと考えられています
  • 天正17年(1589)、秀吉の沼田裁定で沼田城は北条に渡されましたが、名胡桃城は真田に残されました。その四か月後、北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を奪い、これが小田原攻めと北条家滅亡の引き金になります
  • 城跡は群馬県の史跡で、続日本100名城にも選ばれています。馬出し・三郭・二郭・本郭・ささ郭が一列に並ぶ「連郭式」の縄張りが、いまも空堀や土塁とともによく残ります
  • 入口には案内所があり、見学は自由です。関越自動車道の月夜野インターチェンジから車で約6分

名胡桃城(なぐるみじょう)は、群馬県利根郡みなかみ町にある戦国時代の城跡です。城そのものは小さな山城ですが、日本の歴史を動かした城でもあります。天正17年(1589)、この城が北条方に奪われた「名胡桃城事件」をきっかけに、豊臣秀吉は北条家を討つことを決め、翌年の小田原攻めで北条家は滅びました。この記事では、名胡桃城の成り立ちと事件の流れ、そしていまの城跡の見どころとアクセスを紹介します。事件そのものの経過や「秀吉と真田の罠だった」という説は、名胡桃城事件とはでくわしく書いています。

河岸段丘の上に連なる名胡桃城と、利根川の対岸の沼田城のイメージイラスト
名胡桃城のイメージ。段丘の上に曲輪が一列に並び、利根川の向こうの台地に沼田城が見えます(イメージイラスト)
目次

名胡桃城のなりたち ─ 真田昌幸が沼田攻めのために築いた城

名胡桃城のはじまりについては、二つの説があります。一つは、室町時代の明応元年(1492)に、この地の領主・沼田氏が「名胡桃館」を築いたという言い伝えです。もう一つは、天正7年(1579)、甲斐の武田勝頼の命を受けた真田昌幸が、北条方の沼田城を攻める拠点として城を取り立てたという説で、史料で確かめられるのはこちらです。

当時の上野北部は、武田・北条・上杉の三家が奪い合う土地でした。昌幸は名胡桃城を足がかりに沼田城を攻め、天正8年(1580)に沼田城を手に入れます。名胡桃城は、沼田城と真田の本拠・岩櫃城(吾妻郡)を結ぶ中継の城として、真田家にとって大切な城になりました。沼田城の歴史は沼田城、真田家の人びとについては真田家とはで紹介しています。

▽ よく語られる話
名胡桃城は、真田家の先祖の墓がある「墳墓の地」だった。
▼ 史実ではこうです
秀吉の沼田裁定で名胡桃城が真田に残された理由として、昌幸が「先祖の墳墓の地」と訴えたという話が伝わります。しかし、真田家のもともとの本拠は信濃の小県で、名胡桃は昌幸が沼田攻めのために取り立てた城でした。「墳墓の地」という主張がどこまで実態をともなっていたのかは、疑問が残ります。

秀吉の沼田裁定 ─ なぜ名胡桃だけが真田に残ったのか

天正10年(1582)、本能寺の変のあとの争いを収めるために徳川家康と北条氏政が和睦したとき、家康は「上野は北条のもの」と認め、真田の沼田を北条に渡すと約束してしまいます。昌幸はこれを拒み、沼田をめぐる争いは、やがて豊臣秀吉が裁くことになりました(徳川と真田は何でもめていたのか)。

天正17年(1589)7月、秀吉は沼田領の三分の二を北条に、名胡桃城を含む三分の一を真田に分けると裁定しました。こうして沼田城には北条方の猪俣邦憲が入り、利根川をはさんでわずか数キロ先の名胡桃城には、真田の城代・鈴木重則(主水)が残ることになります。北条から見れば、のどもとに真田の城を残されたような形でした。

名胡桃城事件 ─ 北条家滅亡の引き金に

天正17年11月、沼田城の猪俣邦憲は、名胡桃城の城番だった中山九郎兵衛をひそかに味方に引き入れました。中山は昌幸からの命令に見せかけた偽の書状で城代の鈴木重則を城の外へおびき出し、そのすきに北条方の兵が城に入って名胡桃城を押さえたと伝わります。計略に気づいた鈴木は、沼田の正覚寺で自ら命を絶ったとされます。

知らせを受けた秀吉は、これを自分の裁定に逆らうものだとして北条を厳しく責め、11月24日には北条家に宣戦を伝える書状を出しました。北条氏直は「まったく知らない」と弁明しましたが聞き入れられず、翌天正18年(1590)、秀吉は二十万を超える大軍で小田原城を囲みます(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。北条家が滅びたあと、沼田領は名胡桃城を含めてすべて真田に与えられ、昌幸の長男・信幸(信之)が沼田城主となりました。

名胡桃城事件のイメージイラスト
名胡桃城事件のイメージ。夜明け前、名胡桃城に忍び寄る人影(イメージイラスト)

名胡桃城事件が本当に北条の暴走だったのか、それとも北条がわなにはめられたのかは、いまも見方が分かれています。三つの見方の比較は名胡桃城事件とは ─ 秀吉・真田の罠だったのかでまとめました。

名胡桃城の縄張り ─ 一列に並ぶ曲輪

名胡桃城は、利根川と赤谷川が合流するあたりの、川に面した段丘の先端に築かれています。三方が崖で、残る一方を空堀で断ち切り、そのなかに曲輪(郭)を一列に並べた「連郭式」の山城です。城の入口から奥へ向かって、次の順に曲輪が続きます。

曲輪 位置と役割
般若郭 城の外側にある曲輪。いまは駐車場として使われている
馬出し 城の入口を守る小さな曲輪。出撃の足場にもなる
三郭 城の中ほどの曲輪。空堀で区切られている
二郭 本郭の手前の曲輪
本郭 城の中心。大正13年(1924)に建てられた城址の碑が立つ
ささ郭 段丘の先端にある物見の曲輪。利根川と沼田方面を見渡せる

一つひとつの曲輪は小さいものの、深い空堀と土塁で区切られていて、攻め手は一つずつ曲輪を落とさなければ本郭にたどりつけません。また、先端のささ郭からは、利根川の向こうに沼田の台地を望むことができます。名胡桃城が沼田城を見張る城だったことが、実際に立ってみるとよくわかります。

いまの名胡桃城跡 ─ 見どころ

名胡桃城跡は、昭和24年(1949)に群馬県の史跡に指定されました。平成29年(2017)には続日本100名城にも選ばれています。曲輪や空堀、土塁が整備され、案内板にしたがって入口から先端のささ郭まで歩くことができます。国道17号に面した城の入口には案内所があり、資料の展示や続日本100名城のスタンプも置かれています。

あわせてめぐりたいのが、真田家ゆかりの沼田城と岩櫃城です。名胡桃城から沼田城までは車で十数分の距離で、事件の舞台となった二つの城の近さを体感できます。真田昌幸の本拠だった上田城もあわせてどうぞ。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では、北条氏政を谷原章介さんが演じます。徳川・真田・北条・豊臣の四家がからむ沼田問題のなかで、名胡桃城事件は秀吉が北条攻めを決める場面として描かれる可能性が高いと予想されます。放送後にこの枠を更新します。

名胡桃城跡の場所・アクセス

住所:群馬県利根郡みなかみ町下津3437
見学:自由(入口の案内所は開いている時間に限りがあります)
入場料:無料
電車:JR上越線「後閑駅」、または上越新幹線「上毛高原駅」からタクシーで約7分
車:関越自動車道「月夜野インターチェンジ」から約6分。城の入口(般若郭)に駐車場あり

名胡桃城についてよくある質問

Q. 名胡桃城は誰が築いたのですか?
A. 沼田氏が明応元年(1492)に築いたという言い伝えもありますが、史料で確かめられるのは、天正7年(1579)に武田勝頼の命で真田昌幸が沼田攻めの拠点として取り立てたことです。

Q. 名胡桃城事件とは何ですか?
A. 天正17年(1589)11月、北条方の猪俣邦憲が、秀吉の裁定で真田領とされた名胡桃城を奪った事件です。これがきっかけで秀吉は北条攻めを決め、翌年の小田原攻めで北条家は滅びました(くわしくはこちら)。

Q. 名胡桃城と沼田城はどのくらい離れていますか?
A. 利根川をはさんで数キロの距離で、名胡桃城の先端から沼田の台地を望めます。車なら十数分です。

Q. 名胡桃城は日本100名城ですか?
A. 平成29年(2017)に「続日本100名城」に選ばれています。スタンプは城の入口の案内所に置かれています。

Q. 入場料はかかりますか?
A. 無料で、見学も自由です。

まとめ

名胡桃城は、真田昌幸が沼田城を攻めるために取り立てた、利根川沿いの小さな山城です。しかし天正17年、秀吉の裁定で真田に残されたこの城が北条方に奪われたことで、豊臣と北条の戦いが始まり、関東を百年治めた北条家は滅びました。小さな城が天下の行方を決めた、まさに「歴史の分かれ目」の舞台です。北条家の百年の歩みは北条五代100年の歴史で紹介しています。

参考:『加沢記』/みなかみ町「名胡桃城址」/丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書/黒田基樹『北条氏政』ミネルヴァ書房

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