大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、竹中直人さんが松永久秀を演じ、第20回「本物の平蜘蛛」で最期が描かれました。ドラマで久秀に興味を持った方に向けて、「三悪」と呼ばれる悪名の真偽と、城づくりに残した足跡を史料からたどります。
松永久秀は、戦国の梟雄として語られてきた人である。主君を毒殺し、将軍を討ち、東大寺の大仏を焼いた—そう紹介されることが多い。ところがこの三つは、どれも同時代の史料で確かめられていない。確かなのは、出自の分からない男が畿内で一代の実力者になり、城づくりでは次の時代の形を先に試し、最後は信長に背いて山城で果てたということである。
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出自のわからない男が、畿内の実力者になるまで
久秀がどこの生まれかは、はっきりしていない。阿波の出とする説、山城の西岡あたりとする説などがあり、どれも決め手を欠く。分かっているのは、三好長慶のもとで右筆—文書を書く役—として現れ、そこから実務をこなして重臣へ上がっていったことである。
弾正忠の官途から「松永弾正」と呼ばれた。長慶が畿内を握った時期に、久秀はその政権の実務を担う位置にいる。やがて大和へ入り、奈良の町を見おろす丘に多聞山城を築いて、代々この国にいた筒井氏と争うことになる。
一つめ ─ 主君・三好長慶を毒殺したのか
長慶は晩年に弟たちと嫡男を相次いで失い、その痛手のなかで没している。久秀が讒言で弟を除かせ、長慶自身も毒殺した—という筋立てが、のちに語られるようになった。
ただ、長慶の死は病によるものと記録されており、毒殺の裏づけはない。弟の十河一存や嫡男の義興の死も、当時から噂は立ったようだが、久秀の関与を示す確かな材料は出ていない。三好という一族が短期間に当主格を続けて失ったこと自体が異様で、その異様さを説明する物語として、あとから久秀の名が当てはめられた可能性が高い。
二つめ ─ 将軍・足利義輝を討ったのか
将軍義輝が二条の御所で討たれた永禄の変は、戦国でも指折りの衝撃だった。この軍勢を動かしたのは三好義継と三好三人衆、そして久秀の子である久通で、久秀自身は大和にいてその場にいなかったとみられている。
もっとも、子が加わっている以上まったくの無関係とも言い切れない。言えるのは、実行の中心にいたのは別の者たちであり、「久秀が将軍を斬った」という言い方は実際の構図とずれている、ということである。
三つめ ─ 東大寺の大仏を焼いたのか
久秀と三好三人衆が奈良で衝突したとき、東大寺の大仏殿が焼けた。この一件が「大仏焼き」として久秀の名に貼りついている。
ただし火の出どころについては、同時代の記録でも書きぶりが分かれる。久秀方の夜討ちによるとするものもあれば、三人衆方の陣中の失火とするものもある。寺の側が書いた記録と武家の側が書いた記録で、責めの向き先が違うこともある。どちらか一方に決めるだけの材料はそろっていない。
そして「三悪」という三点セットの言い方が出てくるのは、江戸中期の逸話集である。信長が家康に久秀を引き合わせて「この老人は三つの悪事をなした」と紹介した、という有名な場面も、同時代の記録ではなく後の世の書物に見える。久秀の悪名は、生きているあいだより死んだあとのほうが育っている。

久秀が奈良の町を見おろす丘に築いた多聞山城の跡。石垣・瓦・白壁を備えた当時としては新しい城で、多聞櫓という言葉はこの城の名から来ている
城づくりでは、次の時代を先に試していた
悪名の話ばかりが残っているが、城の造りという一点で見ると、久秀はまったく別の顔を持つ。多聞山城では石垣を積み、瓦を葺き、白壁をめぐらせた。石垣の上に横へ長く連なる櫓を多聞櫓と呼ぶのは、この城の名に由来する。信貴山城には四階建ての櫓が建っていたと伝わり、安土城の天主に先立つ高層建築の例とみる見方もある。
横に長い櫓と、縦に高い櫓。のちの城を形づくる二つの部品が、どちらも久秀の城で先に現れている。訪れた宣教師が城の壮麗さを書き残しているのも、この時代の日本の城としては異例のことだった。
茶の湯の人でもあった。名物の茶器を集め、信長に臣従するときには九十九髪茄子を差し出している。手元に残した平蜘蛛の釜は、最後まで渡さなかった。
二度の離反 ─ なぜ一度目は赦されたのか
信長が上洛してきたとき、久秀はためらわずに臣従した。三好三人衆が阿波へ退いたのとは対照的で、この身の処し方の速さが久秀という人をよく表している。信長も畿内に根を張った久秀の実力を買い、大和の支配を認めた。
一度目の離反は、武田信玄が西へ動きはじめたときである。信長が東西から挟まれると読んだ。ところが信玄は途中で没し、目算は外れる。このとき久秀は多聞山城を差し出して赦された。城ひとつと引き換えに命が残ったのは、信長にとって久秀がまだ使える駒だったからでもある。
二度目は、上杉謙信が上洛の構えを見せたときだった。久秀は戦線を離れて信貴山城に籠もる。信長は使者を送って降るよう勧めたが、久秀は拒んだ。一度赦したあとで改めて処分する—そういう例をいくつも見てきたからだろう。

信貴山城跡(奈良県平群町)。大和最大級の山城で、久秀はここで生涯を終えた
十月十日に終わった
信貴山城が落ちたのは天正五年の十月十日である。大仏殿が焼けたのも十月十日だった、という一致がよく語られる。ただしこれは旧暦の日付で、後の世の記録がきれいに整えた可能性もある。話としてあまりに出来すぎている、と疑っておくくらいでちょうどいい。
最期の様子も同じことが言える。平蜘蛛の釜を打ち砕いたと記す同時代の記録がある一方で、体に火薬を巻いて釜もろとも爆死したという語りが広く知られている。どちらとも決めかねるのが正直なところで、爆死の場面が繰り返し描かれてきたのは、この人の生き方にその終わり方が似合ってしまうからでもある。
久秀が去ったあと、大和を任されたのは長年の宿敵だった筒井順慶だった。順慶は郡山城へ本拠を移し、信長の命で大和の城は郡山ひとつに集約される。多聞山城は壊され、石材はほかの城へ運ばれた。そして数年後、豊臣秀長が百万石で郡山へ入る。
よくある疑問
Q. 結局、久秀は悪人だったのですか。
裏切りも謀略もした人です。ただ「三悪」として数えられている三つは、どれも同時代の史料では確かめられていません。戦国の畿内では主家を乗り越えていく例が珍しくなく、久秀だけが特別だったわけでもありません。
Q. 爆死は本当ですか。
同時代の記録には平蜘蛛の釜を打ち砕いたとするものがあり、爆死という語り方は後の世に広まったものです。断定できる材料はありません。
Q. 久秀の城はどこで見られますか。
奈良市の多聞山城跡(いまは学校の敷地)と、平群町の信貴山城跡(朝護孫子寺の裏山)です。どちらも同じ日に回れます。
Q. 筒井順慶とはどういう関係でしたか。
大和をめぐって何度も争った相手です。筒井城は久秀に奪われ、取り返され、また奪われています。最後は順慶が信貴山城を攻める側に立ちました。
大仏殿が焼けた現場については東大寺:大仏はなぜ二度焼けたのかにまとめています。
多聞山城の五輪塔、大仏殿炎上、十年後の同じ日の死を「仏罰」という切り口でたどったのが松永久秀は仏罰を恐れなかったのかです。
あわせて読みたい:茶器はなぜ一国に値したのか
まとめ
松永久秀は、出自のわからない身から畿内の実力者になり、信長に二度背いて山城で果てた。三悪という数え方は江戸期の書物が形にしたもので、そのまま史実として扱えるものではない。一方で、彼が大和で試した城の造り—石垣と瓦、横に長い櫓と高くそびえる櫓—は、そのあとの日本の城に確かに残った。悪名のほうが有名になってしまったが、この人が残したものは奈良の丘と山に、いまも形を変えて残っている。

