石川数正のその後|出奔した家老は豊臣の大名として松本城を築き、石川家は子の代に改易された ─ 「心は家康と共に」の史実

松本城:貴重な国宝天守 徳川家重臣だった石川数正築城の日本四大国宝 松本城
この記事のポイント
  • 天正13年(1585)11月に徳川家を出奔した石川数正は、秀吉から河内で8万石を与えられ、豊臣家の大名になりました。秀吉の名から一字をもらって「吉輝(よしてる)」と名のったとも伝わります
  • 天正18年(1590)、小田原攻めのあと家康が関東へ移ると、数正は家康の旧領に近い信濃の松本へ移されました。石高は8万石とも10万石ともいわれます
  • 数正は松本で城と城下町の整備を始め、その仕事は子の康長に受け継がれて、いまの松本城天守の元になったとされます。数正自身は朝鮮出兵のさなか、文禄元年(1592)から翌年ごろに亡くなりました
  • 石川家は子の康長の代、慶長18年(1613)に改易されます。家康を去った数正の家は、江戸幕府のもとで大名として残ることはできませんでした

『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」で、徳川家を出奔した石川数正(迫田孝也)は「身は豊臣にあっても、心は家康様と共に」と語りました。では史実の数正は、豊臣家に移ってからどう生きたのでしょうか。結論からいうと、数正は豊臣の大名として信濃松本を治め、松本城のもとを築きましたが、その家は子の代に改易されます。この記事では、出奔から石川家の改易までをたどります。出奔の理由については石川数正はなぜ家康を裏切り秀吉のもとへ走ったのかで書いています。

夜明け前の薄闇の中、提灯を手に城門を出ていく武将と家族・家来の一行の後ろ姿
夜明け前、提灯を手に城門を出ていく数正と家族のイメージ(イメージイラスト)
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出奔から改易までを年表で

数正と石川家の歩みを年表にまとめます(石川数正の地位と石高はどれくらいだったのか)。

年 できごと
天正13年(1585)11月 岡崎城を出て、家族とともに秀吉のもとへ走る
天正13年以降 河内で8万石を与えられ、豊臣家の大名となる
天正18年(1590) 小田原攻めのあと、信濃松本へ移る(8万石とも10万石とも)
文禄元年〜2年(1592〜93)ごろ 朝鮮出兵のさなかに亡くなる
文禄・慶長年間 子の康長が松本城の天守などを整える
慶長18年(1613) 康長が改易される

豊臣の大名・「吉輝」として

秀吉のもとへ走った数正は、河内で8万石を与えられました。徳川家での数正の知行は確かな史料が残っていませんが、豊臣家に移ったことで、数正は自分の領地を持つ一人前の大名になったのです。秀吉の名から一字をもらって「吉輝」と名のったとも伝わり、豊臣家の一員として迎えられたことがうかがえます(秀吉が引き抜いた・引き抜こうとした武将たち)。

一方、数正を失った徳川家は大きく揺れました。数正は徳川家の軍の仕組みや城の守りを知りつくしていたため、家康は軍法を武田流に改め、岡崎城の守りも立て直さなければなりませんでした(石川数正の出奔で徳川家はどう変わったのか、石川数正が去った岡崎城は誰が守ったのか)。

家康の隣に置かれた松本

天正18年(1590)、小田原の北条家が滅ぶと、家康は関東へ移されました。家康が去った信濃などには、秀吉に近い大名たちが配置されます。数正が移された信濃の松本は、関東に移った家康の領国のすぐ西にあたります。徳川家の内情をよく知る数正を家康の隣に置いたのは、家康を見張る役目を期待したからだともいわれます。

松本城:貴重な国宝天守 徳川家重臣だった石川数正築城の日本四大国宝 松本城
数正と子の康長が整えた松本城の天守(松本城)

数正は松本で、もとの深志城を大きく改修し、城下町の整備を始めました。この仕事は子の康長に引き継がれ、いまに残る国宝・松本城天守の元になったとされます。三河の岡崎城代だった数正が、信濃に天守のある城を築いた。その城が四百年以上たった今も残っているのです(松本城)。

▽ よく語られる話
石川数正は、家康の密命を受けて秀吉のもとに潜りこんだ、徳川方のスパイだった。
▼ 史実ではこうです
数正が家康の命で秀吉方に入ったという説は、江戸時代から語られてきました。しかし、それを裏づける確かな史料はありません。数正が豊臣の大名として松本を治めたこと、子の代に江戸幕府のもとで改易されたことを見ると、徳川家との縁は出奔で切れたと考えるのが自然です。

数正の最期

文禄元年(1592)、秀吉が朝鮮出兵を始めると、数正も兵を率いて肥前の名護屋へ向かいました。数正はこの戦いのさなか、文禄元年から翌2年ごろに亡くなったとされます。亡くなった場所や日付には諸説があり、はっきりしません。出奔から7年ほど、数正は豊臣の大名として生き、家康のもとに戻ることはありませんでした(朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をわかりやすく解説)。

子の康長と、石川家の改易

数正の跡を継いだ康長は、関ヶ原の戦いでは東軍につき、松本の領地を守りました。しかし慶長18年(1613)、幕府の重臣・大久保長安が亡くなったあとに起きた事件にかかわったとされ、領地を隠していたことなどを理由に改易されます。家康のもとを去った数正の家は、家康が開いた江戸幕府のもとで大名として続くことはできませんでした。

家康がこの改易に、数正の出奔への思いを重ねていたのかはわかりません。ただ、出奔から30年近くたっても、数正の名は徳川家にとって忘れられないものだったのでしょう(石川数正の「書き置き」は史実か)。

▷ 大河ドラマではこう描かれました
第40回「あさひの輿入れ」(10月18日放送)では、石川数正(迫田孝也)が大坂城で秀吉に出奔を告げ、「身は豊臣にあっても、心は家康様と共にある」と語りました。家康には、爪を噛む癖をやめるよう言い残しています。ドラマの数正は、家康への思いを残したまま豊臣に移る人物として描かれています。

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よくある質問

Q. 石川数正は出奔したあとどうなりましたか?
A. 秀吉から河内で8万石を与えられて豊臣家の大名となり、小田原攻めのあと信濃松本へ移りました。

Q. 石川数正は松本城を築いたのですか?
A. もとの深志城を改修し、城と城下町の整備を始めました。その仕事を子の康長が引き継ぎ、いまの天守の元になったとされます。

Q. 石川数正はいつ亡くなりましたか?
A. 朝鮮出兵のさなか、文禄元年(1592)から翌年ごろに亡くなったとされます。

Q. 石川家はその後どうなりましたか?
A. 子の康長が慶長18年(1613)に改易されました。

まとめ

徳川家を出奔した石川数正は、豊臣の大名として河内、ついで信濃松本を治め、松本城のもとを築きました。家康の隣に置かれた数正は、朝鮮出兵のさなかに世を去り、石川家は子の康長の代に江戸幕府のもとで改易されます。「心は家康と共に」とドラマで語った数正ですが、史実の数正が家康のもとに戻ることはありませんでした。それでも数正が手がけた松本城は、今も国宝として信濃の空にそびえています。

参考:『家忠日記』/『寛政重修諸家譜』/松本市『松本城』資料/柴裕之『徳川家康』平凡社

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