秀吉の黄金の茶室とは:いつ、誰に見せたのか ─ 天正14年の禁中茶会と大友宗麟、利休は本当に嫌ったのか|『豊臣兄弟!』第39回

金の柱と壁、赤い障子と畳の黄金の茶室(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 真田家は、信濃国小県郡の真田郷(いまの長野県上田市真田町)を本拠とした一族です。武田信玄に仕えた真田幸隆(幸綱)が家を大きくし、子の昌幸、孫の信之(信幸)と信繁(幸村)へと続きました
  • 幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は、天正3年(1575)の長篠の戦いでそろって戦死しました。そのため、他家の養子になっていた三男の昌幸が真田家を継ぐことになります
  • 昌幸は武田家の滅亡後、織田・北条・徳川・上杉と主を替えながら領地を守り、天正13年(1585)の第一次上田合戦で徳川軍を退けました。『豊臣兄弟!』第39回で秀吉が「徳川と真田の和睦」を命じるのは、この直後の出来事です
  • 関ヶ原の戦いでは、兄の信之が徳川方、父の昌幸と弟の信繁が豊臣方に分かれました。信之の家は松代藩主として幕末まで続き、信繁は大坂の陣で「日本一の兵」と呼ばれる最期を遂げます

『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」では、秀吉が徳川の重臣・石川数正を大坂城に呼び、徳川と真田の和睦を命じます。そこで数正は、豊臣家の財力と勢いを目の当たりにすることになります。秀吉が人を圧倒するために使った道具のなかで、もっとも有名なのが黄金の茶室でしょう。この記事では、黄金の茶室がいつ、何のためにつくられ、誰がそれを見たのかを、同時代の記録からたどります。

秀吉がこれほどの金銀を持てた理由は、豊臣家はなぜあれほど金銀を持てたのかで解説しています。

千利休と侘びの茶室(イメージ)
千利休のわび茶の茶室(イメージ)。黄金の茶室は、この簡素な茶室と正反対のものとして語られることが多いのですが、史実の関係はもう少し複雑です
目次

黄金の茶室とはどんなものだったのか

黄金の茶室は、広さが三畳ほどの小さな茶室です。博多の豪商・神屋宗湛は、名護屋城でこの茶室に招かれたときのことを日記に残しており、それによると柱や敷居、鴨居、壁、障子の骨まですべてが金で、障子と畳表は赤い色だったといいます。茶釜や茶碗などの道具も金でそろえられていたと伝わります。そしてもうひとつの大きな特徴が、部材を外して運び、行った先で組み立てられる「持ち運べる茶室」だったことです。

いつ、何のためにつくられたのか ─ 天正14年正月の禁中茶会

黄金の茶室が確かな記録に最初にあらわれるのは、天正14年(1586)正月です。秀吉は正月16日、宮中の小御所に黄金の茶室を組み立て、正親町天皇に茶を献じました。秀吉が関白になったのは前の年の7月で、禁中で茶会を開くのはこれが二度目でした。奈良・興福寺の多聞院の僧が書いた『多聞院日記』は、この茶室は持ち運べるようになっていて、内裏で茶の湯があったこと、そして続けて京都・紫野(大徳寺)で都の男女に見物させるということを書きとめています。天皇に見せた同じ茶室を、すぐに庶民にも公開したわけです。

この順番に、秀吉のねらいがよくあらわれています。百姓の出で、系図も持たない関白にとって、自分の力を目に見える形で示すことは、政権を保つための大事な仕事でした。天皇に茶を献じることで朝廷との近さを示し、その茶室を都の人びとに見せることで、うわさを国じゅうに広めてもらう。黄金の茶室は、贅沢品である前に、関白秀吉の「広告」だったと考えることができます。

誰が黄金の茶室を見たのか

黄金の茶室は、その後もさまざまな人に見せられました。毛利家の小早川隆景と吉川元長がこれを見たことは、吉川家の家臣が国元に送った手紙に記されていて、三畳敷で床まで金だったことに驚いたと書いています。九州の大友宗麟も、天正14年(1586)に大坂城を訪れた際、秀吉みずからの案内で城内を見てまわり、黄金の茶室も目にしたと伝わります。宗麟は島津家に攻められて秀吉に助けを求めに来ていた立場で、この「見学」は、天下人に頼ればどれほどの力が味方につくのかを見せつけるものでもありました。

天正15年(1587)10月の北野大茶湯にも黄金の茶室が持ちこまれたとされ、さらに朝鮮出兵のときには肥前の名護屋城に運ばれて、先にふれた神屋宗湛のほか、明の使節をもてなす場にも使われたといわれています。大名、豪商、外国の使者と、見せる相手によって場所を変えられることこそ、組み立て式にした理由だったのでしょう。

大阪城
大阪城。秀吉の大坂城では、訪れた大名を天守や御殿に案内し、その財力を見せることが政治の一部になっていました
▽ よく語られる話
黄金の茶室は成金趣味の秀吉が好き勝手につくったもので、わび茶を大成した千利休はこれを内心で嫌っていた。二人の対立はここから始まった。
▼ 史実ではこうです
利休が黄金の茶室を嫌ったと記した同時代の史料は見当たりません。天正14年正月の禁中茶会は利休も関わった公式の行事で、茶室の設計に利休が助言したとみる研究者もいます。三畳という狭さや、運んで組み立てる発想には、むしろ利休の茶室の考え方に通じるところがあるという見方もあります。秀吉と利休の不和を黄金の茶室に結びつける話は、二人の結末から逆算してつくられた面が大きいといえます。

石川数正は黄金の茶室を見たのか

ドラマ第39回で、数正は大坂城に呼ばれて豊臣家の財力と勢いを見せつけられます。史実の数正は、小牧・長久手の戦いのあと、徳川家の使者として何度も秀吉のもとを訪れており、家康の次男・於義丸が秀吉の養子という名の人質として大坂へ送られたときにも付きそったと伝わります。秀吉の側の豊かさを家中でいちばんよく知っていた人物だったことは確かでしょう。

ただし、数正が出奔したのは天正13年(1585)11月13日で、黄金の茶室が記録にあらわれる天正14年正月より少し前です。数正が黄金の茶室を見たという記録は見当たりません。もしドラマで数正が黄金の茶室の前に立つ場面があれば、それは史実を少し前倒しにして、「豊臣の財力」を一目で伝えるための演出と見るのがよさそうです。いずれにしても、数正が秀吉方の圧倒的な力を知りすぎていたことが、徳川家中で孤立した理由のひとつだったとする見方は根強くあります。

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石川数正はなぜ家康を裏切り秀吉のもとへ走ったのか

豊臣の財力を見せつけられた数正は、なぜ三十年仕えた家康のもとを去ったのでしょうか。出奔の理由として語られる五つの説をくらべます。

いま黄金の茶室を見られる場所

秀吉の黄金の茶室そのものは残っていませんが、記録をもとにした復元がいくつかあります。静岡県熱海市のMOA美術館の復元は広く知られ、佐賀県唐津市の佐賀県立名護屋城博物館では、2022年に復元された黄金の茶室が公開されています。大坂城ゆかりのイベントなどで、組み立て式の再現が展示されることもあります。訪ねる前には、各施設の公開状況を確認してください。

よくある疑問

Q. 黄金の茶室はいつつくられたのですか?
A. 完成した年月ははっきりしませんが、確かな記録に最初にあらわれるのは天正14年(1586)正月で、宮中の小御所に組み立てられ、正親町天皇に茶が献じられました。

Q. 黄金の茶室の広さはどれくらいですか?
A. 三畳ほどです。神屋宗湛の日記などによると、柱や壁、障子の骨まで金で、障子と畳表は赤い色でした。

Q. 千利休は黄金の茶室を嫌っていたのですか?
A. そう記した同時代の史料は見当たりません。禁中茶会には利休も関わっており、設計に助言したとみる研究者もいます。

Q. 黄金の茶室はいまも残っていますか?
A. 現物は残っていません。MOA美術館(静岡県熱海市)や佐賀県立名護屋城博物館(佐賀県唐津市)などに復元があります。

まとめ

黄金の茶室は、三畳ほどの空間を金で仕立て、運んでどこにでも組み立てられるようにした、秀吉の権力を見せるための道具でした。天正14年(1586)正月に天皇へ茶を献じたあと、すぐに都の人びとにも公開し、大名や豪商、外国の使者にまで見せたところに、系図を持たない関白の知恵があります。『豊臣兄弟!』第39回で数正が目にする「豊臣の財力」がどう描かれるのか、黄金の茶室の史実を知っておくと、場面の意味がよりはっきり見えてくるはずです。

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