秀吉は、ほかの大名の家臣を自分の側へ引き寄せることに長けた天下人でした。徳川家康の重臣・石川数正は家を出て秀吉に仕え、大友家の家臣だった立花宗茂は秀吉に直接取り立てられて大名になりました。上杉家の直江兼続、伊達家の片倉小十郎(景綱)のように、誘いを受けても主家を離れなかったと伝わる武将もいます。島津家の伊集院忠棟のように、秀吉から直接所領を与えられたことが、のちに主家との悲劇につながった例もありました。秀吉が「引き抜いた」「引き抜こうとした」とされる武将たちを、成功した例と断られた例に分けて整理します。
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ひと目でわかる一覧表
「引き抜き」といっても、中身はさまざまです。主家を捨てて秀吉に仕えた例、主家の家臣のまま秀吉から特別な扱いを受けた例、誘いを断った例があります。逸話として伝わるだけで、確かな史料が乏しいものも含まれるので、確かさの目安も添えました。
| 武将 | もとの主家 | どうなったか | 中身 | 確かさ |
|---|---|---|---|---|
| 石川数正 | 徳川家 | 主家を出て秀吉に仕える | 河内で八万石、のち松本の城主 | 確か |
| 小笠原貞慶 | 徳川方(信濃) | 数正に続いて豊臣方へ | 人質の子が数正とともに秀吉のもとへ | 確か |
| 立花宗茂 | 大友家 | 独立した大名に取り立て | 筑後柳川。「東の本多忠勝、西の立花宗茂」 | 確か(ほめ言葉は伝承) |
| 小早川隆景 | 毛利家 | 独立した大名に取り立て | 筑前などを与えられ、政権の重鎮に | 確か |
| 鍋島直茂 | 龍造寺家 | 家の実権を任される | のちの佐賀藩鍋島家へ | 確か |
| 伊集院忠棟 | 島津家 | 家臣のまま直接所領 | 肝付一郡、のち庄内八万石。秀吉の死後に討たれる | 確か |
| 直江兼続 | 上杉家 | 家臣のまま厚遇 | 豊臣姓・山城守、米沢三十万石(寄騎含む)。直臣の誘いを断った話は逸話 | 厚遇は確か/誘いは逸話 |
| 片倉小十郎景綱 | 伊達家 | 誘いを断ったと伝わる | 五万石(三春とも)を示されたという | 逸話 |
このうち、もっとも大きな事件になった石川数正の出奔は、石川数正はなぜ家康を裏切った(寝返った)のかでくわしく解説しています。
主家を離れて秀吉についた武将 ─ 石川数正・小笠原貞慶
石川数正(徳川家)
もっとも有名なのが、徳川家康の重臣・石川数正です。天正13年(1585)11月13日、数正は家族と家臣を連れて岡崎城を出て、秀吉のもとへ走りました。秀吉はすぐに河内で八万石を与えています。なぜ数正が出奔したのかを記した確かな史料はなく、秀吉の誘い、家中での孤立など、いくつもの説があります(石川数正はなぜ家康を裏切った(寝返った)のか)。徳川の内情を知る重臣を失った家康は、軍制を武田流に改めたと伝わります(石川数正の出奔で徳川家はどう変わったのか)。
小笠原貞慶(徳川方の信濃の大名)
数正に続くように豊臣方へ移ったのが、信濃の小笠原貞慶です。貞慶の子は徳川への人質として数正のもとにいて、数正が秀吉のもとへ連れて行ったとされます。家臣というより徳川に従っていた大名ですが、数正の出奔と連動した離反として押さえておきたい人物です。
主家から独立させられた武将 ─ 立花宗茂・小早川隆景・鍋島直茂
秀吉の「引き抜き」でもっとも多いのは、家臣を主家から切り離し、秀吉に直接仕える大名に取り立てる形です。九州平定のあとに、この例が集中しています。
立花宗茂(大友家)
立花宗茂は、大友家の重臣・立花道雪の婿養子で、実の父は岩屋城で島津の大軍を食い止めた高橋紹運です。九州平定で働いた宗茂を、秀吉は「その忠義も武勇も九州随一」とほめたとされ、天正15年(1587)、筑後の柳川に領地を与えて、大友家から独立した大名にしました。小田原攻めのときには、諸大名の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並べてたたえたとも伝わります(柳川城/立花城)。
小早川隆景(毛利家)
毛利元就の三男で、毛利家を支える柱だった小早川隆景も、九州平定のあと筑前などに大きな領地を与えられ、秀吉に直接仕える大名となりました。のちには豊臣政権の重鎮として扱われています。毛利家の一門でありながら、秀吉の側からも頼りにされた人物です(名島城)。
鍋島直茂(龍造寺家)
肥前の龍造寺家では、当主の龍造寺隆信が島津との戦いで討死したあと、重臣の鍋島直茂が家の政務を取り仕切っていました。秀吉は直茂の力を認め、龍造寺家の実権を直茂に任せる扱いをしています。のちに鍋島家が佐賀藩の大名となる道は、ここから開けました。
誘いを断ったと伝わる武将 ─ 直江兼続・片倉小十郎
直江兼続(上杉家)
上杉景勝の家老・直江兼続は、天正16年(1588)、景勝に従って上洛した際に、秀吉から豊臣の姓と山城守の官を与えられました。さらに慶長3年(1598)、上杉家が会津へ移ると、兼続には米沢で寄騎を含めて三十万石が与えられています。家臣の身としては破格の待遇です。
ただ、この扱いの意味については研究者の見方が分かれています。豊臣姓を受けた兼続は単なる陪臣ではないとする見方がある一方、秀吉の直臣になったわけではなく、豊臣姓も儀礼上のものにすぎないとする見方もあります。秀吉が兼続を直臣に誘い、兼続が断ったという話は、こうした厚遇から生まれた逸話と考えるのがよいでしょう。
片倉小十郎景綱(伊達家)
伊達政宗の側近・片倉小十郎景綱にも、秀吉から直臣になるよう誘われ、五万石を示されたものの断ったという話が伝わります。三春の地を与えようとしたともいわれますが、これは片倉家に伝わる記録などに見える逸話で、同時代の確かな史料で裏づけられているわけではありません。景綱はのちに伊達領の南の守りである白石城を任され、片倉家は代々その城を預かりました(白石城)。
引き抜きが悲劇を生んだ例 ─ 伊集院忠棟
島津家の筆頭家老・伊集院忠棟は、九州平定のとき島津家中の強硬派を説いて降伏をまとめた人物です。秀吉は忠棟を高く買い、肝付の一郡を直接与えました。さらに文禄4年(1595)の検地のあと、日向の庄内に八万石を得ています。
主君を通さずに天下人から領地を受け、豊臣の奉行と直接やりとりする家臣は、主家から見れば危うい存在です。秀吉の死後の慶長4年(1599)、忠棟は伏見の島津屋敷で島津忠恒(のちの家久)に討たれ、子の忠真は居城の都之城に立てこもって庄内の乱を起こしました(都之城)。秀吉の「引き抜き」は、天下人がいるあいだは家臣の出世になっても、天下人がいなくなると主家との火種になりえたのです。
秀吉はなぜ他家の家臣を欲しがったのか
ここからは筆者の見方です。秀吉が他家の有能な家臣を取り込もうとした理由は、大きく三つ考えられます。
- 人材が足りなかった:農民の出の秀吉には、代々仕える譜代の家臣がほとんどいませんでした。弟の秀長や、加藤清正・福島正則ら子飼いの若者を育てても、天下を治めるには人が足りません。
- 大大名の力を削ぐ:有力な家臣を独立させれば、主家の領地と兵は小さくなります。大友家と立花宗茂、龍造寺家と鍋島直茂の関係がその例です。
- 大名家の中に「秀吉の窓口」をつくる:兼続や伊集院忠棟のように、主家の家臣のまま秀吉と直接つながる人物がいれば、その家を動かしやすくなります。
人の心をつかむのがうまい「人たらし」として知られる秀吉ですが、その引き抜きには、政権を固めるための計算があったと考えられます。秀長が大和で家臣を集めた話は秀長の三家老とはで、秀吉の家族と後継ぎ候補については秀吉に実子はいたのかで紹介しています。
秀吉の引き抜きについてよくある質問
Q. 秀吉が引き抜いた武将でいちばん有名なのは誰ですか?
A. 徳川家康の重臣だった石川数正です。家康のいちばんの側近の一人が秀吉のもとへ走ったことは、徳川家を大きく揺るがしました。
Q. 秀吉の誘いを断った武将はいますか?
A. 上杉家の直江兼続、伊達家の片倉小十郎景綱が断ったと伝わります。どちらも逸話として語られる話で、確かな史料で裏づけられているわけではありません。
Q. 立花宗茂は大友家を裏切ったのですか?
A. 裏切ったのではありません。九州平定の功で、秀吉から大友家とは別の独立した大名に取り立てられたものです。宗茂はその後も大友家との縁を保っていました。
Q. 島左近も秀吉に引き抜かれたのですか?
A. 島左近を召し抱えたのは秀吉ではなく石田三成です。秀長の家臣だったという説もあります(島左近は秀長の家臣だったのか)。
まとめ
秀吉は、石川数正のように主家を捨てさせた例、立花宗茂のように主家から独立させた例、直江兼続や伊集院忠棟のように家臣のまま直接つながった例と、さまざまな形で他家の人材を取り込みました。片倉小十郎のように断ったと伝わる武将もいます。その裏には、譜代の家臣を持たない天下人ならではの事情と、大大名を抑える計算がありました。『豊臣兄弟!』第39回で描かれる石川数正の動きは、その代表的な一例です。第39回の史実は第39回「茶々の本心」あらすじ予想と史実で整理しています。
参考:『当代記』/『片倉代々記』/中野等『立花宗茂』吉川弘文館/山本博文『島津義弘の賭け』中公文庫/国立公文書館デジタル展示「徳川家康 ─ 将軍家蔵書からみるその生涯」

