- 三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)、遠江の三方ヶ原(静岡県浜松市)で、徳川家康が武田信玄に大敗した戦いです
- 浜松城の前を素通りして西へ進む武田軍を、家康は城から打って出て追いましたが、待ち構えていた信玄に迎え撃たれ、わずか2時間ほどで総崩れとなりました
- 夏目吉信が家康の身代わりとなって討ち死にするなど、多くの家臣を失い、家康はかろうじて浜松城へ逃げ帰りました
- 家康がこの敗戦を戒めとして描かせたと伝わる「しかみ像」は有名ですが、三方ヶ原と結びつける話は後世のものとする研究もあります
三方ヶ原の戦いは、徳川家康の生涯で最大の敗北として知られます。『豊臣兄弟!』第40回でも、三方ヶ原の夜に家康が石川数正に交わした約束が、回想として語られるようです。この記事では、三方ヶ原の戦いがなぜ起き、どう戦われ、家康に何を残したのかを紹介します。
背景 ─ 武田信玄の西上作戦
元亀3年(1572)10月、甲斐の武田信玄は大軍を率いて甲府を出陣し、徳川領の遠江・三河へ攻め込みました。信長と対立する将軍・足利義昭や浅井・朝倉と呼応した動きとも考えられ、「西上作戦」と呼ばれます。武田軍は遠江の諸城を次々に落とし、12月には要の二俣城も開城させました。
このとき家康は31歳。本拠の浜松城には、織田信長からの援軍を合わせても、武田軍の半分ほどの兵しかいなかったとされます。
戦いの経過 ─ 素通りした信玄を追って
12月22日、武田軍は浜松城を攻めず、その北の三方ヶ原台地を西へ進みました。城に籠もっていれば守れたかもしれません。しかし家康は、領内を素通りされることを許さず、城から打って出て武田軍の背後を突こうとします。
ところが信玄は、三方ヶ原の台地の上で軍を反転させ、徳川軍を待ち構えていました。夕方に始まった戦いは、わずか2時間ほどで徳川軍の総崩れに終わります。鳥居忠広、本多忠真らが討ち死にし、夏目吉信は家康の名を名のって敵に向かい、身代わりとなって命を落としたと伝わります。

浜松城へ逃げ帰った家康
家康はわずかな供回りとともに、浜松城へ逃げ帰りました。城に戻った家康は、城門を開けたまま篝火をたかせ、武田軍に「何か策があるのでは」と警戒させて攻撃を思いとどまらせた、という話が伝わります。その夜、徳川方が犀ヶ崖で武田軍に夜襲をかけたという話もありますが、どこまで事実かはわかりません(浜松城)。

「しかみ像」は三方ヶ原の戒めか
家康が三方ヶ原の敗戦のあと、苦渋に満ちた自分の姿を絵師に描かせ、生涯の戒めにした ─ そう伝わるのが、徳川美術館に所蔵される「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「しかみ像」です。
ただ近年の研究では、この絵を三方ヶ原と結びつける話は江戸時代の後期以降に生まれたもので、もとは別の由来を持つ絵だったのではないか、という指摘があります。「敗戦を忘れぬための絵」という物語は、のちの人びとが家康の人柄に重ねて作り上げた面があるのかもしれません。
その後 ─ 信玄の死と家康の再起
三方ヶ原で勝った信玄は、その後三河の野田城を落としますが、病のため軍を引き、翌元亀4年(1573)4月、帰国の途中で亡くなりました。家康は滅亡の危機を免れます。その2年後、天正3年(1575)の長篠の戦いで、家康は信長とともに武田勝頼を破りました。
三方ヶ原でともに戦った家臣のなかには、のちに家康のもとを去る石川数正もいました。『豊臣兄弟!』では、この夜の家康と数正のやりとりが、二人の絆を描く場面として登場するようです(石川数正の「書き置き」は史実か)。
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よくある質問
Q. 三方ヶ原の戦いはいつですか?
A. 元亀3年12月22日(1573年1月25日)です。
Q. 三方ヶ原の戦いで家康は誰に負けたのですか?
A. 武田信玄です。
Q. 「しかみ像」は三方ヶ原の戦いのあとに描かれたのですか?
A. そう伝えられてきましたが、近年は三方ヶ原と結びつける話は後世のものとする研究もあります。
Q. 三方ヶ原古戦場はどこにありますか?
A. 静岡県浜松市の三方原台地にあり、古戦場の碑が立っています。
まとめ
三方ヶ原の戦いは、武田信玄の西上を前に、浜松城から打って出た家康が大敗した戦いでした。夏目吉信ら多くの家臣を失いながらも生き延びた家康は、この経験をもとに慎重さを身につけ、のちの天下取りへとつながっていきます。「しかみ像」の伝説も含めて、三方ヶ原は「負けから学んだ家康」の象徴として語り継がれています。
参考:『信長公記』/『三河物語』/平山優『新説 家康と三方原合戦』NHK出版新書/徳川美術館の解説
