戦国時代の関東を百年にわたって治めた北条家(後北条氏・小田原北条氏)。豊臣秀吉に攻められる直前の天正17年(1589)ごろ、その領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野の六か国を中心に、常陸・下野・駿河の一部にまで及び、石高に直すとおよそ240万石とも見積もられます。これは、当時の日本で豊臣家に次ぐほどの大きさでした。この記事では、北条家の領国を地図で示し、一門や重臣を配置した支城、北条に従った国衆、そして「民に優しい」といわれた領国経営のしくみを整理します。

北条家の領国地図 ─ 天正17年ごろの勢力範囲
下の図は、天正17年(1589)ごろの北条家の勢力範囲と、主な城の位置をあらわした模式図です。本城の小田原城を中心に、一門(北条一族)が入った支城、重臣が守った城、そして北条に従った国衆の城が、関東一円に網の目のように置かれていたことがわかります。
北と東には、北条と対立した勢力が残っていました。常陸の佐竹、下野の宇都宮、安房・上総南部の里見、そして越後の上杉です。また上野の北の端には、真田家の名胡桃城がありました。この名胡桃城をめぐる事件が、北条家の運命を決めることになります(名胡桃城事件とは)。
領国の広さと石高 ─ 「240万石」はどのくらい?
北条家は年貢を米の量(石)ではなく、銭の額(貫文)で計算する「貫高制」をとっていたため、北条家自身が「何万石」と名のったわけではありません。のちの太閤検地の基準に直して見積もると、最盛期の領国はおよそ240万石前後になると考えられています。
| 国 | 北条の支配 | 主な城・拠点 |
|---|---|---|
| 伊豆 | 全域(創業の地) | 韮山城・下田城 |
| 相模 | 全域(本国) | 小田原城・玉縄城・津久井城 |
| 武蔵 | ほぼ全域 | 江戸城・河越城・八王子城・岩付城・鉢形城・忍城 |
| 下総 | ほぼ全域(国衆を通じて) | 本佐倉城・小金城・関宿城・古河城 |
| 上総 | 北部・中部(南部は里見) | 土気城・東金城 |
| 上野 | ほぼ全域(天正10年以降) | 松井田城・厩橋城・箕輪城・金山城・館林城・沼田城 |
| 下野 | 南部の一部 | 唐沢山城・壬生城・皆川城(従属) |
| 常陸 | 南西部の一部 | 牛久城・足高城(国衆が従属) |
| 駿河 | 東端の一部(時期による) | 興国寺城・長久保城など(のち徳川領) |
比べてみると、天正18年(1590)に北条家の旧領をほぼそのまま与えられた徳川家康の石高が、およそ250万石とされます。北条家の領国の大きさがよくわかるでしょう。
どうやって版図を広げたのか ─ 伊豆から関東一円へ
北条家の領国は、一代で築かれたものではありません。初代から五代まで、およそ百年をかけて少しずつ広がっていきました。流れをかんたんにまとめると次のとおりです。
| 当主 | 主な時期 | 広げた範囲 |
|---|---|---|
| 伊勢宗瑞(早雲) | 明応〜永正 | 伊豆を平定し、小田原城を奪い、三浦氏を滅ぼして相模を統一 |
| 北条氏綱 | 大永〜天文初め | 江戸城・河越城を取り、武蔵南部へ。国府台合戦で下総へ |
| 北条氏康 | 天文〜永禄 | 河越夜戦で上杉を破り、武蔵全域・上野南部・下総・上総へ |
| 北条氏政 | 元亀〜天正 | 上野をほぼ手中にし、下野・常陸南部の国衆を従える |
| 北条氏直 | 天正後半 | 沼田を受け取り、領国は最大に。天正18年に滅亡 |
五代それぞれの戦いや、古河公方・佐竹・里見・上杉などとの関係は北条五代100年の歴史でくわしく書いています。この記事では、広げた領国を「どう治めたか」に焦点を当てます。
支城と城主 ─ 一門と重臣を関東に配置した「支城制」
北条家の領国支配の骨組みは、本城の小田原城を中心に、各地の要の城(支城)に一門や重臣を城主として置き、その城がまわりの地域(支城領)を治める、というしくみでした。これを「支城制」と呼びます。とくに氏康の子どもたちは、それぞれが大きな支城を任され、領国の各方面を受け持ちました。
| 城 | 国 | 城主(天正後半ごろ) | 役割 |
|---|---|---|---|
| 小田原城 | 相模 | 当主・氏直、隠居の氏政 | 本城。城下町ごと堀と土塁で囲む「総構」 |
| 玉縄城 | 相模 | 北条氏勝(綱成の孫) | 相模東部と三浦半島。綱成以来の「玉縄北条家」 |
| 韮山城 | 伊豆 | 北条氏規(氏政の弟) | 伊豆の要。宗瑞が晩年を過ごした城 |
| 山中城 | 伊豆 | 松田康長(重臣) | 箱根の西を守る。障子堀で知られる |
| 八王子城(滝山城) | 武蔵 | 北条氏照(氏政の弟) | 武蔵西部と甲斐への備え。外交も担当 |
| 鉢形城 | 武蔵 | 北条氏邦(氏政の弟) | 武蔵北部と上野の攻略。沼田も氏邦の担当 |
| 岩付城 | 武蔵 | 北条氏房(氏政の子) | 旧太田氏の領域を引き継ぐ |
| 江戸城 | 武蔵 | 遠山氏(重臣)、のち氏政が直接管理 | 江戸湾の水運と下総への入口 |
| 河越城 | 武蔵 | 大道寺政繁(重臣) | 武蔵中部。河越夜戦の舞台 |
| 松井田城 | 上野 | 大道寺政繁 | 碓氷峠を押さえ、信濃からの入口を守る |
| 沼田城 | 上野 | 猪俣邦憲(氏邦の家臣) | 天正17年に受け取った北の最前線 |
一門の城主たちは、ただ城を守るだけではありませんでした。氏照は奥州の伊達家などとの外交を、氏規は徳川家康との交渉を、氏邦は上野・沼田方面の攻略を、というように、担当の方面ごとに軍事も外交も任されていたのです。いわば「北条家の方面軍司令官」でした。







北条に従った国衆 ─ 「他国衆」と呼ばれた大名たち
北条家の領国のすべてが、北条の家臣によって直接治められていたわけではありません。とくに北関東や房総では、もとからその土地を治めていた領主(国衆)が、自分の領地を持ったまま北条に従っていました。北条家の記録では、こうした国衆は「他国衆」と呼ばれています。
| 国衆 | 本拠 | 北条との関係 |
|---|---|---|
| 成田氏 | 忍城(武蔵) | 上杉謙信に従った時期もあるが、のち北条方に。小田原攻めでは石田三成の水攻めに耐えた |
| 上田氏 | 松山城(武蔵) | 早くから北条に従った武蔵の国衆 |
| 由良氏 | 金山城(上野) | 一度は北条に背いたが、天正13年ごろ屈服し城を明け渡す |
| 長尾氏 | 館林城(上野) | 由良氏の一族。同じく天正13年ごろ北条に従う |
| 佐野氏 | 唐沢山城(下野) | 北条一門の氏忠が養子に入り、北条一門の城に |
| 皆川氏・壬生氏 | 皆川城・壬生城(下野) | 宇都宮氏と争うなかで北条を頼る |
| 千葉氏 | 本佐倉城(下総) | 下総の名門。当主の死後、氏政の子・直重が養子に入り、北条一門に組み込まれる |
| 原氏・高城氏 | 臼井城・小金城(下総) | 千葉氏の重臣・下総の国衆として北条に従う |
| 酒井氏 | 土気城・東金城(上総) | 里見との間で揺れながら、のち北条方に |
| 古河公方 | 古河城(下総) | 関東の「主君筋」。北条の血を引く足利義氏を公方に立て、権威ごと取り込む |
北条家が国衆を従えるときによく使ったのが、養子と婚姻です。佐野氏や千葉氏のように、北条の子を跡継ぎとして送り込めば、その家はやがて北条一門になります。武力だけでなく、血縁でじわじわと関東の名家を取り込んでいったのが北条流でした。
一方、最後まで北条に従わなかったのが、常陸の佐竹、下野の宇都宮、安房の里見、そして越後の上杉です。佐竹と宇都宮は手を結んで北関東で北条と争い、天正12年(1584)には下野の沼尻で長くにらみ合いました。房総の里見とは国府台で二度戦ったのち、天正5年(1577)に和睦しています。安房の里見家の城は館山城、国府台の戦いの舞台は国府台城で紹介しています。
領国経営のしくみ ─ 「民に優しい」北条の政治
北条家は、戦国大名のなかでもとくにしっかりした領国の制度をつくった家として知られます。百年にわたって関東の人びとから支持された理由は、この領国経営にありました。主なしくみを見ていきましょう。
① 虎の印判状 ─ 「禄寿応穏」のハンコがない命令は無効
二代目の氏綱は永正15年(1518)、虎の姿と「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」の四文字を刻んだ印判(ハンコ)をつくりました。「禄(財産)と寿(命)は応(まさ)に穏やかなるべし」、つまり民の財産と命を守る、という意味だとされます。
北条家は、村に物資や人手を出させるときは、必ずこの虎の印判を押した文書で命じると定めました。印判のない命令には従わなくてよい、ということです。これによって、家臣や役人が勝手に村から物や人を取り立てることを防ぎました。
② 検地と貫高制 ─ 土地と年貢を銭で把握する
北条家は代替わりのたびに領国で検地(土地の調査)を行い、田や畑の広さと、そこから納める年貢の額を銭(貫文)で定めました。これを「貫高制」といいます。家臣に与える土地の大きさも、軍役(戦のときに出す兵の数)も、この貫高をもとに決められました。
③ 小田原衆所領役帳 ─ 家臣の領地と軍役の台帳
永禄2年(1559)、三代目の氏康は、家臣それぞれがどこにどれだけの領地を持ち、どれだけの役を負うかをまとめた台帳をつくらせました。これが『小田原衆所領役帳』です。家臣は「小田原衆」「玉縄衆」「江戸衆」「松山衆」などの集団に分けられて記されていて、北条家の家臣団と領国のしくみがわかる、戦国時代でもめずらしい史料です。
④ 税制の整理 ─ 雑多な税をまとめて軽くする
天文19年(1550)、氏康は領国の税のしくみを大きく改めました。それまで村にはさまざまな名目の税がかかっていましたが、これを整理して、田畑の年貢のほかに決まった割合の税(懸銭など)を納めれば、それ以外は取り立てないとしたのです。きっかけは、領国の村から百姓が逃げ出す「国中の諸郡退転」と呼ばれる事態でした。村が立ちゆかなくなれば、年貢も兵も集まりません。北条家は、税を整理して村を立て直す道を選んだのです。
⑤ 目安箱 ─ 百姓が直接訴えられる
北条家は、役人の不正などがあれば、百姓が直接小田原へ訴え出ることを認めていました。訴えは評定衆と呼ばれる重臣たちが審理し、その判決にも虎の印判が押されました。村の側から見れば、「上に訴える道がある」ことが大きな安心になったはずです。
⑥ 伝馬の制度 ─ 領国を結ぶ交通網
北条家は、領国の主な道に宿場を定め、公用の荷物や使者を馬で次の宿へつなぐ「伝馬」の制度を整えました。伝馬を使えるのは、印判を押した手形を持つ者だけと決められていました。小田原から関東各地の支城へ、命令や物資がすばやく届く交通網が、広い領国を一つにまとめていたのです。
⑦ 隠居した先代が支える「二頭政治」
北条家では、当主が家督を子に譲ったあとも、隠居した先代が「御本城様」として政治や軍事に深く関わりました。氏康は永禄2年(1559)に氏政へ家督を譲ったあとも、亡くなるまで実権を握り続けます。氏政も天正8年(1580)に氏直へ家督を譲りましたが、その後も北条家の方針を決めていたのは氏政でした。代替わりで家が揺らがないための工夫でしたが、小田原攻めのときには「最終的に決めるのは誰か」がわかりにくくなる弱点にもなりました。
なぜ北条家の領国は崩れたのか
これほど整った領国を持ちながら、北条家は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めでわずか数か月のうちに降伏します。理由として、よく次のような点が挙げられます。
- 上洛と臣従が遅れた:秀吉に従うかどうかで家中の意見がまとまらず、決断が遅れた
- 名胡桃城事件:天正17年、沼田城の猪俣邦憲が真田の名胡桃城を奪い、秀吉に攻める口実を与えた(名胡桃城事件とは)
- 支城が各個に落とされた:山中城・八王子城・鉢形城などの支城が次々と落とされ、領国の網の目が断ち切られた
- 籠城の前提が崩れた:上杉謙信や武田信玄を退けた小田原城の籠城も、二十万を超える豊臣軍と水軍に囲まれては、援軍の見込みがなかった
小田原攻めの流れと、氏政が最後まで降伏しなかった理由は小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのかでくわしく書いています。
あわせて読みたい:北条氏政とは(谷原章介)
北条家の領国についてよくある質問
Q. 北条家の石高はどのくらいでしたか?
A. 北条家は貫高制をとっていたため石高では数えていませんが、最盛期の領国はおよそ240万石と見積もられます。旧領を与えられた徳川家康の石高がおよそ250万石とされ、ほぼ同じ規模です。
Q. 北条家はどこの国を支配していましたか?
A. 相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野を中心に、常陸・下野・駿河の一部にまで勢力が及びました。
Q. 北条家の支城の城主は誰でしたか?
A. 韮山城に北条氏規、八王子城に北条氏照、鉢形城に北条氏邦、岩付城に北条氏房、玉縄城に北条氏勝など、一門が主な支城を任されていました。河越城・松井田城には重臣の大道寺政繁、沼田城には猪俣邦憲が入っていました。
Q. 北条家の「四公六民」は本当ですか?
A. 北条家の年貢が「四公六民」で軽かったという話は広く知られていますが、北条家がその割合を定めた史料は確認されていません。税を整理して村の負担を軽くしたことは確かです。
Q. 『豊臣兄弟!』で北条氏政を演じるのは誰ですか?
A. 谷原章介さんです。
まとめ
北条家の領国は、伊豆から始まって百年をかけて関東一円に広がり、最盛期にはおよそ240万石に達しました。本城の小田原城を中心に、一門と重臣を各地の支城に置く支城制で広い領国を治め、北関東や房総の国衆は養子や婚姻で取り込んでいきました。虎の印判状、検地、所領役帳、税の整理、目安、伝馬といった制度は、戦国大名のなかでも群を抜いて整ったものです。それでも、豊臣秀吉という天下人の前では、この領国も一年ともちませんでした。北条家の百年の歩みは北条五代100年の歴史で、滅亡のきっかけは名胡桃城事件とはで紹介しています。
参考:『小田原衆所領役帳』/黒田基樹『戦国大名・北条氏の領国支配』岩田書院/黒田基樹『北条氏政』ミネルヴァ書房/佐脇栄智『後北条氏と領国経営』吉川弘文館/小田原市「小田原北条氏の領国支配」
