秀吉の人質要求と浜松評定|徳川家臣団はなぜ人質を拒み、迫田孝也演じる石川数正は孤立したのか(天正13年10月28日)

冬の夜、灯明の下で巻物や帳面を前に評定する武将と家臣たちのイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 天正13年(1585)、関白となった秀吉は、織田信雄を通じて徳川家康に、重臣の家から人質を出すよう求めました
  • 同年10月28日、家康は浜松に家臣を集めて評定を開き、徳川家は人質を出さないと決めました。松平家忠の『家忠日記』にも、この日の評定の結論が記されています
  • 秀吉との交渉役だった石川数正は、人質を出して和平を保つべきだと考えていたとみられ、評定で孤立したという見方が有力です。数正が出奔したのは、評定のわずか14日後でした
  • 皮肉なことに、翌天正14年には、秀吉のほうが母・大政所を人質として岡崎へ送り、家康の上洛が実現します

『豊臣兄弟!』第40回では、迫田孝也さん演じる石川数正が徳川家を去り、松下洸平さん演じる家康が大きな決断を迫られます。数正の出奔のきっかけとして、いま注目されているのが、出奔の2週間前に浜松で開かれた評定です。秀吉に人質を出すのか、出さないのか。この記事では、秀吉の人質要求から浜松の評定、そして数正の出奔までを、日付を追って紹介します。数正が出奔した理由そのものは石川数正はなぜ出奔したのか(五つの説)でくわしく書いています。

冬の夜、灯明の下で評定する武将と家臣たちのイメージイラスト
人質を出すかどうかを話し合う徳川家の評定のイメージ(イメージイラスト)
目次

秀吉はなぜ家康に人質を求めたのか

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、家康は秀吉と戦い、局地戦では勝ちをおさめました(くわしくは小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?)。しかし同盟相手の織田信雄が単独で秀吉と和睦したため、家康も兵を引きます。このとき家康は、次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として大坂へ送りました。形は養子でも、実際には人質の意味をもつものでした。於義丸には、石川数正の子・勝千代と、本多作左衛門の子・仙千代が付き従ったと伝わります(結城秀康(於義丸)とは)。

翌天正13年(1585)7月、秀吉は関白に就任します(秀吉はなぜ関白になったのか)。8月には大軍で越中の佐々成政を攻め、降伏させました。佐々成政は、小牧・長久手の戦いで家康に味方した武将です。このころ秀吉は、信雄を通じて家康に、あらためて人質を出すよう求めたとされます。今度は家康の子ではなく、徳川の家老衆の家から人質を出せ、という要求でした。重臣が人質を出すことは、徳川家が秀吉に従うことをはっきり示す意味をもちます。

徳川方はこの年の閏8月、信濃の上田城で真田昌幸に大敗していました(第一次・第二次上田合戦)。真田の背後には上杉、さらにその背後には秀吉がいます。家康は、東の北条とは同盟を結んでいたものの、苦しい立場に置かれていました。

天正13年10月28日 ─ 浜松の評定

天正13年10月28日、家康は浜松に家臣を集め、秀吉に人質を出すかどうかを話し合わせました。三河の深溝城主で、日記を残した松平家忠もこの場に呼ばれています。家忠の『家忠日記』には、国衆が浜松に集まり、上方へ人質を出さないことに決まったという趣旨の記事があります。

つまり徳川家は、家中の総意として「秀吉には人質を出さない」と決めたのです。これは、秀吉との対決も辞さないという意思表示でもありました。

浜松城の天守
評定が開かれた家康の本拠・浜松城(天守は昭和の復興、浜松城)

評定で誰が何を言ったのか

評定でだれがどんな意見を述べたのか、くわしい記録は残っていません。ただ、研究者の多くは、秀吉との交渉役を務めてきた石川数正は、人質を出して和平を保つべきだと考えていたとみています。歴史学者の藤井讓治氏は、数正は人質を出すべきだという意見だったのだろうと推測し、新行紀一氏は、数正を和平論者とし、強硬派の多い家臣団のなかで孤立して評定に敗れたと述べています。

酒井忠次や本多忠勝など、戦場で秀吉と戦ってきた武将たちが、人質に強く反対したという話もよく語られます。ただしこれも、史料に発言が残っているわけではありません(酒井忠次とは)。

▽ よく語られる話
評定の席で、石川数正ただ一人が「人質を出すべきだ」と主張し、ほかの家臣から裏切り者のように扱われた。それに耐えかねて、数正は徳川家を去った。
▼ 史実ではこうです
評定の発言を記した史料はなく、「数正ただ一人が」という場面は後世の想像です。確かなのは、評定で「人質を出さない」と決まったことと、その14日後に数正が出奔したことです。交渉役だった数正の方針が否定されたことが、出奔の大きなきっかけになったとみる研究者は多くいます。

評定から出奔まで ─ わずか14日

評定から数正の出奔、そして家康の上洛までを日付で並べると、次のようになります。

年月日 出来事
天正12年12月 於義丸(結城秀康)が秀吉の養子として大坂へ。数正の子・勝千代らが付き従う
天正13年7月11日 秀吉が関白に就任
天正13年8月 秀吉が越中の佐々成政を降伏させる。家康に家老衆からの人質を求める
天正13年閏8月 第一次上田合戦。徳川軍が真田昌幸に敗れる
天正13年10月28日 浜松で評定。人質を出さないと決まる
天正13年11月13日 石川数正が妻子や家臣を連れて岡崎から尾張へ出奔
天正13年11月15日 家康が北条氏直に、数正が小笠原貞慶の子を連れて尾張へ退いたと知らせる
天正13年11月29日 天正地震。秀吉方の城が大きな被害を受ける
天正14年1月 秀吉が予定していた家康攻めを取りやめる
天正14年5月 秀吉の妹・旭姫が浜松で家康に嫁ぐ
天正14年10月 秀吉の母・大政所が人質として岡崎へ。家康が上洛し、大坂城で秀吉に臣従

評定のわずか14日後に、数正は出奔しました。家康は11月15日、北条氏直への手紙で、数正が信濃の小笠原貞慶の子・幸松丸を連れて尾張へ退いたことを知らせています(小笠原貞慶とは)。数正が何人の家臣を連れていったのかは、石川数正は何人の家臣を連れて出奔したのかで紹介しています。

岡崎城の天守
数正が城代を務め、出奔の舞台となった岡崎城(岡崎城)

徳川家はなぜ人質を拒んだのか

徳川家が人質を拒んだ理由として、次の三つが考えられます。

① 戦で負けたわけではないという自負

小牧・長久手の戦いで、徳川軍は長久手で秀吉方の池田恒興・森長可らを討ち取っています。井伊直政の赤備えが名を上げたのもこの戦いでした(井伊直政はなぜ「赤鬼」と呼ばれたのか)。和睦は信雄が勝手に結んだもので、徳川は負けて降参したわけではない、という思いが家臣団には強くありました。

② 東の北条との同盟

家康の娘・督姫は北条氏直に嫁いでいて、徳川と北条は固い同盟を結んでいました。背後を北条が守ってくれる限り、秀吉と戦っても持ちこたえられる、という計算がありました(家康と北条氏政の会見(天正14年))。

③ 人質は「臣従」の証

重臣の家から人質を出せば、徳川家が秀吉の家臣になったと天下に示すことになります。対等な同盟者として和睦したつもりの徳川家にとって、それは受け入れがたいことでした。

結局、人質を出したのは秀吉のほうだった

人質を拒んだ徳川家に対し、秀吉は一時は大軍で攻め込む計画を立てます(秀吉の家康攻め計画(天正14年))。しかし天正13年11月29日の天正地震で計画は止まり、秀吉は方針を和睦に切り替えました。妹の旭姫を家康に嫁がせ、それでも家康が上洛しないと、ついには母の大政所を人質として岡崎へ送ります。

人質を出せと迫った秀吉が、最後は自分の母を人質に出して家康を迎えたのです。この大政所を岡崎で預かったのが、鬼作左こと本多作左衛門でした(本多作左衛門はなぜ大政所の宿所に薪を積んだのか)。

御殿の一室で手を取り合う老婆と娘、外に積まれた薪のイメージイラスト
岡崎で再会する大政所と旭姫のイメージ(イメージイラスト)
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」(10月18日放送予定)では、数正の出奔で浜松城が騒然となる場面があると伝えられています。浜松の評定そのものが描かれるかはわかりませんが、松下洸平さん演じる家康と、迫田孝也さん演じる数正のすれ違いが、どのように描かれるのか注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 浜松の評定はいつ開かれましたか?
A. 天正13年(1585)10月28日です。家康が浜松に家臣を集め、秀吉に人質を出すかどうかを話し合わせました。

Q. 評定ではどんな結論になりましたか?
A. 秀吉に人質を出さないことに決まりました。『家忠日記』にも、この日に人質を出さないと決まったという趣旨の記事があります。

Q. 秀吉はだれを人質に求めたのですか?
A. 家康の子ではなく、徳川の家老衆の家から人質を出すよう求めたとされます。家康の次男・於義丸は、前年の天正12年にすでに秀吉の養子として大坂へ送られていました。

Q. 石川数正は評定でどんな立場だったのですか?
A. 発言の記録は残っていませんが、秀吉との交渉役だった数正は、人質を出して和平を保つべきだと考えていたとみられています。評定の14日後の11月13日に出奔しました。

まとめ

天正13年10月28日、徳川家は浜松の評定で、秀吉に人質を出さないと決めました。秀吉との和平を担ってきた石川数正は、この決定で行き場を失い、14日後に出奔したと考えられます。しかしその後、天正地震をきっかけに秀吉は和睦へ転じ、最後は自分の母を人質に出して家康の上洛を実現させました。人質を拒んだ徳川の意地と、それを母を差し出してまで取り込んだ秀吉の執念。その分かれ目にあったのが、浜松の評定でした。

参考:『家忠日記』/藤井讓治『徳川家康』吉川弘文館/『新編岡崎市史』/柴裕之『徳川家康』平凡社

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