- 小牧・長久手のあと、秀吉は家康を武力では従わせられなかった
- 天正十四年(1586)五月、四十四歳の妹・旭姫を離縁させて家康の正室に送った
- それでも家康が動かないため、同年十月には七十歳を超える生母・大政所まで岡崎へ送った
- 領地でも金でもなく身内を出したのは、豊臣家に差し出せる血縁がほとんどなかったからでもある
天下統一の過程で、秀吉が最も手こずった相手は徳川家康である。戦って勝てず、囲んでも落ちない。最終的に家康を大坂へ引き出したのは、軍勢ではなく妹と母だった。
この一年半ほどの外交は、豊臣政権という組織の性格を、どの合戦よりも正直に映している。

岡崎城。秀吉の生母・大政所が人質として送られたのはこの城下だった(愛知県岡崎市)
小牧・長久手のあとに残ったもの
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いは、局地戦では家康が勝ち、大局では秀吉が押し切った、という決着になった。織田信雄が単独で講和してしまい、家康は戦う名分を失って兵を引く。
だが家康は負けを認めたわけではない。所領はそのまま、上洛もしない。戦は終わったのに、従属は成立していないという宙ぶらりんの状態が続いた。
翌天正十三年(1585)十一月、徳川家中を揺るがす事件が起きる。重臣の石川数正が出奔し、秀吉のもとへ走ったのである。徳川の軍制や内情を知り尽くした人物の離反で、家康は軍制の作り替えを迫られた。秀吉にとっては好機だった。
同じ十一月、こんどは天正大地震が畿内から東海を襲う。秀吉方の城や城下が大きな被害を受け、家康攻めの計画は立ち消えになったとされる。結局、力で決着をつける道は二度とも閉じた。
この地震の被害と、それが天下の行方をどう変えたのかは天正大地震で詳しく取り上げています。
妹を送る
天正十四年(1586)五月、秀吉は妹の旭姫(朝日姫)を家康の正室として岡崎へ送った。旭姫はこのとき四十四歳。すでに尾張の武士に嫁いでおり、その夫とは離縁させられている。相手は副田甚兵衛とも佐治日向守とも伝わり、離縁の後に自害した、あるいは出奔したという話が残る。
家康の正室・築山殿はすでに亡く、後添えの座は空いていた。形式としては大名同士の縁組だが、実質は人質である。しかも普通の人質と違い、返してもらう当てのない差し出し方だった。

小牧山城。家康はここに本陣を置いて秀吉と対峙した(愛知県小牧市)
それでも動かない家康
妹を迎えても、家康は上洛しなかった。大坂へ出向いて秀吉に頭を下げれば、それは天下人と家臣の関係を公に認めることになる。逆に出向かなければ、豊臣政権の秩序に加わらないままでいられる。家康が引き延ばしていたのは、時間ではなく立場だった。
秀吉のほうも急いでいた。前年に関白となり、大名同士の私戦を禁じる立場を手に入れている。その体系に最大の実力者が入っていないままでは、九州にも関東にも号令が届かない。
母を送る
天正十四年十月、秀吉は生母のなか、すなわち大政所を岡崎へ下らせた。名目は「嫁いだ娘の見舞い」である。だが誰の目にも人質だった。大政所はこのとき七十歳を超えていたと見られる。
効果は劇的だった。家康は十月下旬に岡崎を発ち、二十六日に大坂へ入る。翌二十七日、大坂城で秀吉に謁見し、諸大名の前で臣従の礼を取った。大坂城での対面をもって、天下の形はほぼ定まる。

大坂城。天正十四年十月二十七日、家康はここで秀吉に臣従の礼を取った
なぜ身内しか出せなかったのか
ここで立ち止まりたい。大名同士の人質のやり取りは珍しくないが、普通は家臣の子や、血の遠い一族を出す。当主の実母を出す例はほとんどない。
秀吉がそうしたのは、気前がよかったからでも、家康を特別扱いしたからでもないだろう。秀吉と秀長の出自をたどったときに見たとおり、豊臣家には血縁が極端に少ない。父方の一族が広がっておらず、差し出せる駒が母と妹と甥くらいしかなかった。
だが、この弱点はそのまま裏返る。血縁が乏しいからこそ、母を出すという行為は他の誰にも真似できない重みを持った。百人の家臣の子より、たった一人の母のほうが効く。秀吉は、持っていないという事実を、そのまま交渉の切り札に変えている。
合理的といえば合理的だが、身内の側から見れば冷徹な話でもある。
家康はなぜ、そこで折れたのか
母まで送られた以上断れなかった、という説明はよく見る。だが家康の側にも計算はあったはずである。
この時点で秀吉は関白であり、大名同士の私戦を禁じる立場にあった。その秩序の外に居続けるということは、いずれ「公儀に逆らう者」として討たれる名分を相手に与え続けることでもある。四年後に北条氏がその論理で滅ぼされたのを見れば、家康の判断は正しかったと言うほかない。
逆に頭を下げてしまえば、豊臣の体系の中で最大の実力を持つ大名という位置が確定する。実際、家康は臣従後に従三位権中納言に叙され、序列の上位に組み込まれた。臣従は敗北ではなく、地位の交換だった。
そして天正十八年(1590)の小田原攻めの後、家康は関東へ移される。旧領五か国を離れる代わりに得たのは、二百五十万石という破格の領国だった。頭を下げてから十四年で、その領国が天下を取ることになる。
大河で描かれない話
大政所が岡崎に滞在していたあいだ、徳川方では本多作左衛門重次が宿舎の周囲に薪を積み上げたと伝えられる。万一秀吉が家康に手を出したら、そのまま火を放つ構えである。歓待の裏で、これが人質だという事実は誰も忘れていなかった。
大坂での家康の宿所は、秀長の屋敷が用意されたという。前年の書状で「公儀のことは宰相(秀長)に」と諸大名に告げられていたとおり、この局面でも実務は弟が引き受けている。謁見の前夜、秀吉が自ら家康の宿を訪ねて「明日は皆の前で自分を立ててほしい」と頼んだという逸話も、この夜のこととして伝わる。
旭姫という人
役目を終えたあと、大政所は無事に大坂へ帰った。旭姫は帰らなかった。
彼女は天正十七年に母の見舞いのため上洛し、そのまま京にとどまって、天正十八年(1590)正月十四日に聚楽第で世を去る。四十八歳。東福寺の南明院に葬られた。家康との夫婦の実質がどれほどあったのかは分からない。
四十四歳で夫と引き離され、見知らぬ土地へ送られ、四年で死んだ。お市の方が二度の落城を生きて自ら最期を選んだのに対し、旭姫は戦場に立つことも、選ぶこともないまま動かされ続けた。戦国の女性の生き方として、どちらがより過酷だったかは簡単には言えない。旭姫は自分の言葉をほとんど残していない。
よくある質問
Q. 旭姫の最初の夫は誰ですか。
A. 尾張の武士で、副田甚兵衛とも佐治日向守とも伝わりますが確定していません。離縁の後に自害した、あるいは出奔したという話が残ります。
Q. 大政所は何歳で人質に出されたのですか。
A. 生年がはっきりしないため確定できませんが、天正十四年(1586)の時点で七十歳を超えていたと見られます。
Q. なぜ家康は上洛を渋ったのですか。
A. 大坂へ出向いて礼を取れば、天下人と家臣という関係を公に認めることになるためです。行かない限り、豊臣の秩序の外にいられました。
Q. 旭姫の墓はどこですか。
A. 京都の東福寺塔頭・南明院です。天正十八年正月に聚楽第で没し、四十八歳でした。
Q. 家康は臣従して何を得たのですか。
A. 豊臣政権の秩序の中で最上位に近い大名という地位です。臣従後に従三位権中納言に叙され、天正十八年の小田原攻めの後には関東二百五十万石を与えられました。
ゆかりの地をめぐる
- 岡崎城(愛知県岡崎市)… 旭姫が嫁ぎ、大政所が送られた徳川の本拠
- 小牧山城(愛知県小牧市)… 小牧・長久手で家康が本陣を置いた城
- 大阪城(大阪府大阪市)… 天正十四年十月、家康が臣従の礼を取った場所
- 大和郡山城(奈良県大和郡山市)… 家康の饗応を担った秀長の居城
まとめ
秀吉は家康に勝てなかった。だから領地を削ることも、屈服させることもできなかった。代わりに差し出したのが妹であり、母だった。
これを人情の勝利と読むのはたぶん違う。豊臣家には差し出せるものが人しかなく、その人も数えるほどしかいなかった。持たざる者が持たざるまま天下を取るための、極端に効率のよい一手だったのである。そして同じ乏しさは、五年後に秀長を失ったとき、代わりのいない空白として跳ね返ってくる。

